caguirofie

哲学いろいろ

第十八章 パウロ・1

目次→2004-11-28 - caguirofie041128

[えんけいりぢおん](第十七章−ヨハネ福音) - caguirofie041202よりのつづきです。)

第十八章 パウロ――恵みのうえに恵みを――

信仰を述べ伝えるとは

パウロは宣教を直接おこなった人であるから――存在思想を通り超えて 信仰そのものを語り伝えることを自らのわざとした人であるから―― そのことに条件づけられた表現が 出てくると思われる。

わたしたちのことを 人間的な動機で動いていると見なしている連中に対しては 勇敢に立ち向かうつもりです。
パウロコリント人への第二の手紙 10:2)

このあと

確かに わたしたちは この世に生きています。しかし 人間的な動機で戦うのではありません。――わたしたちの戦いの武器は無力な人間の武器ではなく 神に由来する力であって 要塞を破壊するほどのものです。――わたしたちは理屈を打ち破り 神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し・・・(承前10:3−5)

と語ることは 一般的な存在思想の動態としての自己の信仰の自同律を述べるにすぎないと同時に 勇み立っての表現が 中ほどの部分で うかがわれると思われる。

  • これとても われわれは弱い / 手段は話し合いのみだと語ったにすぎないものである。
  • 最後の部分は 戦いのことばを用いているが 中味はごく一般的なことのはずである。主観真実の中の虚偽を正すぞというにすぎない。最初の部分・つまり その初めの・上に引用した部分(10:2)と同じ内容については これも すでに《存在思想が信仰に後行する表現形態である》と同意する人びとには やはり一般的であり その共通のものだと思われる。

信仰の生きる道として 現代では 信仰そのものの直接的な宣べ伝えとは別のいきかたが 行なわれることと思われる。実際問題として 単純なかたちでいえば キリスト・イエスの名は 世界に広まって知られているゆえであり 第一の恩恵の上に増し加えられる第二の恩恵の問題としては それが イエス・キリストの名を他者に向けるものとして 表に出さなくても 実現する方向へ向かう情況だと思われる。言い換えると 初めからそうであったのと同じように 信仰はあくまで個人の自己還帰の問題であるから また そうなのだということを伝えるのが基本であるから これが 個人一人ひとりにおさめられたかたちで 社会的にも実現することが 望ましいと言えるようになっている。

  • むろんこのことは 教会組織などなくせとかいうように 結社の自由を侵してよいと言っているのではない。
  • 信教の自由や 民主主義の進展には ヤハウェーの存在思想の系譜があずかって力あったというために触れたのではないが 関係はしていると思う。
  • キリスト・イエスの名をわざわざ出さなくてもよいほどだという見方は次による:

見よ わたし(ヤハウェー)がイスラエルの家 ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る。・・・すなわち わたしの律法をかれらの胸の中に授け かれらの心にそれを記す。わたしはかれらの神となり かれらはわたしの民となる。そのとき 人びとは隣人どうし 兄弟どうし 《主を知れ》と言って教えることはない。かれらはすべて 小さい者も大きい者もわたしを知るからである と主は言われる。わたしはかれらの悪を赦し 再びかれらの罪に心を留めることはない。
エレミヤ書 (岩波文庫 青 801-7) 31:31−34)

あらためて宣教として・すなわち キリスト信仰およびその存在思想という福音を直接伝えつつ その意味での話し合いの過程に入ることとして〔でも〕 パウロは 次のように語っている。

キリストを宣べ伝えるのに ねたみと争いの念にかられてする者もいれば 善意でする者もいます。後者は わたしが 福音を弁明するために捕らわれている(=《わたしにとって生きるとは キリストを生きることである》というように《義の奴隷》となっている)のを知って 愛の動機からキリストを告げ知らせるのですが 前者は 自分の利益を求めて わたしの監禁の悩みを増やそうという不純な動機からそうしているのです。
パウロ:ピリピ人への手紙 1:15−18)

たとえばこのようにして 人は 信仰ないし存在思想に どんなきっかけをとおしてでも 到達しうるということ また わたしの考えでは これを拡張するなら 現代では キリストの名が――それだけでも一つの存在思想を表わしうると言ってのように―― すでに世界中に知られている情況にあって むしろ信仰は間接的に伝えあわれていくことと思われる。これは 一般的な話し合いの過程として そしてそこでもわたしはこれまで実際には 真実と真実との闘いというかたちでは 存在思想の核心にかんする議論として述べていたのであるが 広く現実情況としては 一般的に政治・経済・文化のあらゆる分野で つまりおのおのの生活日常にあって ふつうの社会生活をいとなむ中で 間接的に自己の存在をとおして 第二の恩恵の実現へ向けて 信仰が生きられていくものと考える。ふつうの生活をしていくということ その意味での広くあらゆる話し合いの過程のことと解せられる。
従って 一つの積極的な活動の中味としては 一般的に――むろんこの信仰に立って しかも一般的に――存在思想ないしもろもろの社会思想の問題として 妥当な表現を得つつ進めていくこと これが 目指されるものと思われる。

  • 教会組織にかんする評価は 別問題である。もし それに関して言うとすれば たとえばほとんど自給自足の生活を基礎とする修道院での信仰の実践が 一般社会人の実践と併行しておこなわれることに 何の不都合もないと思われる。人生を祈りにささげる人びとがいることは われわれにとっても 有益だと思われる。
  • 祈りとは 経験思考の領域としての存在思想をこえた領域に なお(つまり その非経験の領域に なお)その代理たることばの表現を得ようとすることである。われわれの話し合いの過程において その矛盾対立点を超えて話し合いの余地を求めるおのおのの主観真実の展開と 実質的に同じ内容をなすと思われる。この内容をもって その祈りに専念するのは 思索を超えてのことだから とくに《祈り》という。

一般的な話し合い〔としての信仰の実践〕の面では たとえばイエスが サマリアの女と出会って 会話を交わしたときのことを思うべきである。《光り / ことば / 生命 / 道》のごとく経験領域のことばをそのまま用いて しかも非経験のことを語るかのごとく 《水》にかんしても 非経験の真理たる《泉となって湧き出る永遠の生命に到る水》のことをも含ませて 語った。しかもそうだとは言え むしろそのようにして――われわれがイエスと同じ表現をできるかどうかは わからないが―― いわば いま・ここなる現実状況にあって 待ったなしの・すでに普通の日常生活の問題であると言えると思う。日常の話し合いにおいて けっきょくは実質的に存在思想をも・そしてつまり間接的に信仰をも 語りあうという結果をえることができるはずであり それは――ことが表現の問題であるなら―― 当然のことでもある。
逆に確かに 宣教(その時代)における表現としては 信仰を直接 語ったのである。

キリストがわたしを遣わされたのは 洗礼を授けるためではなく 福音を宣べ伝えるためであり しかも キリストの十字架がむなしいものになってしまわないように(――たとえば《いよよますますかなしかりけり》と表現して むしろそこに自己の誕生を得たように つまり その哀れや空しさが まったくの無力・無感動・生きながらの死ではないと心得たことを ないがしろにせず ことばにも表わすと言ってのように――) 知恵にあふれたことばによらないで福音を宣べ伝えるためだからです。
コリント人への第二の手紙 1:17)

すなわち ここで特殊性をまじえて言うとすれば 福音とは この世に生まれたわれわれが さらに第二の誕生を恩恵としてのように与えられ なおかつその上に その誕生せる自己が 完全に実現するという第二の恩恵をも 与えられるという確信を 宣べつたえることである。

信仰という動態の自乗の過程をとおして 愛が・・・

すなわち まったく直接に――信仰を その裸の自同律としてのごとく――語っている。

十字架(――なぜなら 旧い自己に死ぬゆえ 新しい自己の誕生――)の教えは 滅んで行く者にとっては ばかげたものですが わたしたち救われる者にとっては 神の力です。・・・
事実 この世は 神の知恵に囲まれているのに 自分の知恵で神を知ることができなかった。そこで神は 宣教という愚かな手段によって信じる者を救うほうがよいと お考えになったのです。・・・
コリント人への第二の手紙 承前1:18−21)

しかも この宣教の時代を過ぎてきたと思われる現代にあっては――すなわち すでにあたかも第一の恩恵(自己の生誕)が およそ一般の存在思想にあっても 共通の基本出発点であると思われる情況にあっては―― この信仰を伝えることが 第二の恩恵の問題を焦点とするかのごとくなってきている。すなわち すべて ふつうの日常生活の中で――ということは 間接的にむしろ自己をとおしてのごとく―― 語りあっていくことができる。われわれは すでに信じているのだから。第一の恩恵を受けているのだから。
だからといって むろん 信仰そのものを明確に伝えた聖書から離れることも ありえない。とくに個人内面としては つねに そうでしかない。

わたしたちは 今は鏡にぼんやり映ったものを見ていますが そのときには(第二の恩恵の完全な実現のときには) 顔と顔とを合わせて見ることになるでしょう。(《真理がすべてにおいてすべてとなる》であろう。)今は部分的にしか知りませんが そのときには わたしが神に知られているように はっきり知ることになるでしょう。それで 信仰 希望 愛のこの三つは 最後まで残ります。この中で最も大切なのは 愛です。
コリント人への第二の手紙 13:12−13)

とうぜんの如く依然として この信仰とその持続過程を歩む。
そして 第二の恩恵を問題にするとき そもそも《信仰》はもはやそこでは なくなっているとも考えられる。そこでは 《顔と顔とを合わせて見ることになる》なら その真理を もはや《信じる》ことは要らない。《神に知られているように はっきり知ることになる》とき いまは見えないもの(鏡に映して見るように おぼろげに見ているもの)を信じる信仰は 消えており かつて信じていたということを思い出すのみとなるであろう。(アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論14・2)

愛はけっしてなくなりません。預言は廃れ 異言はやみ 知識は廃れます。・・・
コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 13:8)

というこの《愛》は 人間の愛 しかも経験領域にもかかわる人間の愛として とらえられうる。もはや《神の愛・神に対する愛》は 一人ひとり個人の問題であり 従って述べ伝える信仰のことばは 当然 人を巻き込むためのものではなく――ということは 依然として 表現の問題となっており――ここで 人間の愛に重なるかに捉えられる。信仰をとおして 神の愛は 人間の愛である。おなじく人間の愛は 神の愛である。重ねていえば わづかに――もちろん 第二の恩恵の実現じたいは いま・この地上では 未実現であるのだから――この人間の愛が 神の愛と同じだというのは なお 信仰をとおしてのことである。けれども この信仰は 信仰過程としては すでに いま・ここなるわたしの現実であるのだから とりもなおさず いま・ここを通してのみ 神の愛とつながっているとも言わなければならない。その限りで 問題は とりもなおさず 日常生活の 四六時中の どんな些細な事に関してでもの 活動にあり これが わが信仰において 神の愛の問題となる。
神の愛は 非経験であるから いかんせん 表現の問題でありつづける。

愛を追い求めなさい。霊的賜物 とくに 預言するための賜物を熱心に 求めなさい。

  • つまり 《祈り》一般の具体化としても 考えられる。

異言を語る者は 人間に向かってではなく 神に向かって語っているので 誰にもわかりません。かれは霊によって神秘を語っているのです。

  • そのような祈り かつ それとしての表現だと考えられる。

しかし 預言する者は人間に向かって語っているので 人を向上させ 励まし 慰めます。

  • 一般的な話し合いへと展開すると解する。

異言を語る者は 自分を向上させるのに対し 預言する者は教会(すなわち すべての 存在思想を求める人びと)を向上させます。わたしは あなたたち皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが それ以上に預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ 教会を向上させるためには 預言する者のほうが まさっています。
コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 承前14:1−5)

この《預言》は 現代では あらゆる社会生活上の仕事・余暇のすべてを通じて 人びと相互の交通・話し合いの場で なされていくものと考える。そこでは 一般に信仰が すべからく間接的に はたらくことと解される。信教の自由を守るためにという消極的な理由からであるよりも それこそが 信仰の実践であるという積極的な理由に立っている。そもそも自己の誕生が 恩恵であり受動的であったなら その自由と平等とは 個人的な信仰の持続にもとづく話し合いの持続という愛によらずして 第二の恩恵の実現へ向けて 歩むということは かなわない。その間には 宣教〔となんなら殉教〕の時代があった。

さらにパウロに従い 愛について

愛は忍耐強く 愛は親切です。ねたみません。愛は 自慢せず また 高ぶりません。礼を失せず 自分の利益を求めず いらだたず 恨みを抱きません。不正を喜ばないで 真実を喜びます。すべてを忍び すべてを信じ すべてを望み すべてに耐えます。
コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 13:4−7)

ちからづよい文章だと思います。道徳に解されやすいと同時に すでに時間過程(話し合いの遂行過程)にあるなら そのようにパウロが振舞っているのだと思われます。要するに 倫理的な要請ではなくて 誕生せる自己の動態 自己の自乗 自己の無限の自乗の問題だと考えられる。その意味では 何もしない闘いの過程でもあると考えます。この自己は 社会に対して閉ざされていないから つねに交通のなかにあって さらに・さらに話し合いに入る用意があるというそのような 姿勢としての愛でもあると。
けれども 勇敢にも《耐える》のではない。《不正を喜ばず 恨みを抱かず すべてを忍ぶ》結果 時に自己が・あるいは隣り人が 悲惨に追いやられるというとき その悲惨に《勇敢にも》耐えるというわけではない。これは 《右の頬をぶたれたなら 左の頬をも向けてやりなさい》の問題(第五章・六章)でもある。つまり 抵抗を排除していない。話し合いが決裂したなら というよりは話し合いを拒まれたなら こちらとしては 放っておくということになると思われる。取り入ろうとする必要はないゆえ。こちらはつねに 自己が自己でありつづける過程にあるしかない。このいまの文章あるいは《忍耐強い愛》を 規範にしたり 振りかざしたりすることが出来ない。問題は 愛という文字でもなく概念でもなく あるいは アイという発音でもない。愛と言ったからといって 《勇敢にも悲惨に耐える》ことではない。

わたしたちは キリストのおかげでこのような確信を神の前で抱いています。もちろん 独力で何かを行なえるなどと思う資格が 自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。

  • つまりこの意味は 信仰が個人の問題であり 人に対しては その説明のための表現の問題であり 社会活動としては 自己が自己でありつづけることを基本とするしかない。このように人間の論法では解される。

神はわたしたちに 新しい契約に仕える資格 文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが 霊は生かします。
コリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 3:4−6)

これによって 《抵抗》の問題を直接あつかっているとは 強弁しないが 《霊に仕える》ことは まったく 自己・個人こそが 基本の問題となっていると解される。人間は個人として 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在であると考えられる。よって 話し合いの過程では いわば相手に応じて相手の出方に応じて われわれは語り振る舞うことになるはずであり 《千歩行けと言われたなら 二千歩も一緒に行ってやる》ことになるだろうし 拒むのなら 放っておくことになる。この結果として 抵抗をもそこに含んでいると思われる。《すべてを忍び すべてを信じ すべてを望み すべてに耐えます》という《文字(その概念規定)は 殺し 霊は生かす》。その霊としての愛は 《忍耐強く 親切である》と思われる。
誕生せる自己の持続 すなわちこの持続ということが そもそも《忍耐強さ》の問題だと考えられる。このとき この自己は 《自分の利益を求めず いらだたず 恨みをいだきません》。これによって 《親切です》。もっとも 経験領域での慣習上の心理にかんしては 《礼を失する》と見られることがあるかも知れない。これは 相手が拒んでいる場合 それにもかかわらず あたかも自己の卑屈さという悲惨にさえ勇敢にも耐えると言ってのように 相手に近づくなら そのときこそ 余計に《礼を失する》ことになるので やむを得ないものと思われる。究極的にいえば そのときにも《すべてを信じ》ているはずである。
繰り返すなら ここに 道徳〔によって自己を導く方式〕はない。つまりいっさいの〔文字・概念上の〕規範から自由である。《霊に仕え》ているからである。これが わたしにとって わたしがわたしであるという誕生の人は その愛以外に なすすべを持たない――基本出発点としては――という姿であろう。すなわち まだなお 愛というのが抽象的であるとすれば 他方では これが霊だよと言って霊を示して見せることもかなわないのだから 自己の身体で 信仰の確信を伝えていくほかにないと思われることである。ということは 一般に 表現の問題での研鑽ということになると思われる。 
(つづく→[えんけいりぢおん](第十九章−パウロ・2) - caguirofie041204)