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哲学いろいろ

第十七章 ヨハネ福音・第一章

目次→2004-11-28 - caguirofie041128
(photo=st.jean)
[えんけいりぢおん](第十六章−信仰の理論) - caguirofie041130よりのつづきです。)

第十七章 ヨハネによる福音・第一章

ヨハネによる福音》は 次にように記した。

はじめに ことばがあった。
ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。
このことばは はじめに神とともにあった。
すべてのものは ことばによって成った。
成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。
このことばに命があった。そしてこの命は人を照らす光りであった。
光りは闇のなかに輝いている。
闇は光りをとらえなかった。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 1:1−5)

(1)存在の受動性において 実際には経験思考に先行していると考えられる信仰のほうから すべての表現が 語り起こされている。
(2)この部分の全体で 《真理は真理である》と言うのに等しい。具体的にはこの《真理X》が 《神 / ことば / 創造の主体 / 生命 / 光り》と表現されている。《非経験X》のことが おおむね経験されうることばで代理されている。
念のためにいえば 物理的な光りや人間のことばが 神Xであると言っているのではない。創造が 経験的にも認識しうる何らかの主体(その意味での神)によって 経験行為として行なわれたと言っているのでもない。宇宙の初めとしての創造(生成)にかんしてなら 大前提として非経験へも開かれていると確認しつつ 自然科学によって認識されうる経験行為のみがあったと言ったほうがよい。誤解があってはならないと思われる。
(3)《闇》が すでにここで触れられていることは 時間過程・経験領域とのかかわりを 排除していないことを意味する。おそらくは 人間の存在の問題であることを物語る。つづく段落にそのことが見られる。

ここにひとりの人があって 神から遣わされていた。
その名をヨハネと言った。
この人はあかしのために来た。
光りについてあかしをし かれ・光りによってすべての人が信じるためである。
かれ・ヨハネは光りではなく ただ 光りについてあかしをするために来たのである。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 1:6−8)
st.john by davinci

(4)上の引用文に見るごとく 経験領域Yないし人間Zとのかかわりが さらに具体的に触れられている。(a)人Zと光りXとの関係。これが信仰X-Zの問題である。おそらくはこれにすべてが基づくであろうと思われる・人びとの一般的な主観真実X-Y-Zの問題。
(b)さらには この《真理Xないし経験事実Yとの関係における主観真実X-Y-Z》にかんして そのことを科学的に・経験思考による分析をつうじて 指摘するというだけではなく 《あかしをする》と語っている。この点は この聖書記者(上のあかしをするヨハネとは別のヨハネ)の信仰における確信の強さの部分である。
(5)上の(b)の事項をいいかえると 《人が 神から遣わされている》ことは 一つには 上の(a)項のごとく 一般的に《わたしと真理との関係》のことを言っており もうひとつには この(b)項として ここでの《ひとりの人=いわゆる洗礼者ヨハネ》が 特別の人であることを言おうとしている。そしてこのヨハネが《あかしをする》のは 《光りについて》だと言われるからには もう一人 あかしされる側の《光り・生命・ことば・神》なる特別の人がいることになる。ここまで来れば 確信の強さは もはや経験合理性を超えた領域に入る。つまり明らかにドグマである。空想だと言われても致し方がない。

すべての人を照らすまことの光りがあって 世に来た。
かれは世にいた。
世はかれによって成ったのであるが 世はかれを知らずにいた。
かれは自分のところにきたのに自分の民はかれを受け容れなかった。
かれを受け容れた者 その名を信じた者には かれは 神の子となる力を与えた。
それらの人は 血筋によらず 肉の意志にもよらず 人間の意志にもよらず 神によって生まれたのである。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 1:9−13)

(6)われわれのドグマ(思考しえず論証しがたい主観真実の部分)では ヨハネなる人によってあかしをされる《光りなる特別な人》は 《非経験X=まことの光り》であり かつ 《経験Y》である=つまり《世に来た・世にいた》という。神Xであり 人Zであると聞く。
なお先の《闇は光りをとらえなかった(光りに勝てなかった / 理解できなかった)》(1:5)は ここで《世はかれを知らずにいた》(1:10)と対応している。
(7)確信の確信たる神秘(?)を別とすれば 次の表現は すでにわれわれになじみ深い。《かれ(真理)を受け容れた人びとは・・・血筋によらず 肉の意志にもよらず 人間の意志にもよらず 神によって生まれたのである》。ヤハウェーの存在思想にほかならない。そして 先のドグマのことについては 《真理を受け容れない / 真理の無を信じる》という大きく信仰(nonX-Y-Z)としての一つの立ち場を含めて捉えるならば そのドグマ性は 消える。または 自由なドグマ性であって 一般性のもとにある。もっとも この《真理》が ここでの《まことの光り》つまりキリスト(X)・イエス(Z)であるというぶんには 信仰一般のもとで 特殊な部分である。一人ひとりの個人に自由な その個人の具体的な立ち場である。
(8)言い換えるなら まずここでは 一般的に信仰を先行させて語っているとともに この信仰を キリスト信仰という一つの具体的な立ち場としても 先行させている。
このとき 誕生思想は 次のように表現された。――まずわれわれは 両親から生まれたのであるが その存在は この因果関係を自らの誕生そのものとはしない。ゆえに 《血筋によらず》。――精神分析学者F.ドルトらによれば われわれは《肉の意志・欲望》を指し示され これを不可避として受容し かつ これにも導かれつつ しかも一つの最終的には それ以外の非経験の領域に生まれるということであった。(第十五章)
たとえばこのようにして 《肉の意志〔に導かれつつも 誕生としては それ〕によらず》。
さらにあるいは 哲学とそれによる自律や道徳とその修練による彼岸への到達 このような《人間の欲望・意志によらず》 そのような人間の意志からさえ――いわば絶対的な受動性において――自由となること(第十三章ヨブ)が われわれの一つの結論内容であった。
これらを総合すれば 表現上 《われわれは 神X(狭義に X/nonX)によって生まれる》というのが 正統な誕生思想であろう。

  • ちなみに なおくどいように言えば われわれは とうぜん 父と母との相互の合意のもとに 両者の生殖行為によって 生まれたのである。誕生の思想は その経験領域とは 別のところに自らの姿を われわれに 示したということである。

(9)ただちに続いて述べるべきは いま上に結論した理論のほかに 《光りなる特別の人(つまりキリスト・イエスであるが)を受け容れた人びとには 神の子となる資格を与えた》と記されたことである。この表現じたいにも 一般的な存在思想の部分と特殊な主観真実としてのそれとが 含まれる。《わたしは生まれた / これに油そそがれた(メシア / クリストス)》というのは 一般的な存在思想の系譜である。このことが 《はじめにあったことば=神 しかもかれが世に来たこと》を信じる人びとに 実現するというのは 特殊の主観真実の部分である。
表現上 われわれ人間は ヤハウェーなる神によって生まれ 神の子であり この存在に油そそがれた(メシア)というばあいには 一人ひとりがメシア=キリストである。と同時に 特殊性としては ヤハウェーなる神そのものとして世に来た人が さらにひとり イエス・キリストとして 特別に存在しているということである。

律法(信仰の規範表現。道徳となりうる)は モーセをとおして与えられ 恵みと真理とは イエス・キリストをとおして来たのである。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 1:17)

これは 論証しがたい。そして そこにドグマを含みつつも 一般的な信仰・存在思想に立つというときは(そのように立つのであるから) まずは ひとりの個人の内面におさめられた主観真実であり そのようにして 現実である。
(10)その反面において 考えられるところとして 《真理を受け容れなかった人》には 真理の子としての誕生が少ないというのは このような表現としては 当然のことを述べていると考えられる。自己の誕生宣言をしていない人は 誕生していないであろうと言うにすぎない。と同時に 特殊性の部分では 受け容れた人びとも受け容れなかった人びとも かれキリスト・イエスにとっての《自分の民》であると表現され また すべてはかれによって造られたとも言っている。つまりここでも キリスト(非経験)・イエス(経験)について 非経験の《光・ことば・生命・神》の部分では 同じく信仰にとって表現上 とうぜんのこと・一般的なことであるとともに 経験のイエスなる一人物の部分では ひじょうに特殊である。――つまり これ(あくまで 信仰の一般性にもとづくところの一つの具体的で特殊な立ち場)は このわたくしの書物全体をつうじて ひととおりの説明をなそうと試みている部分である。さらに 神秘と表わさざるを得ない表現がつづく。

ことばは肉体となり わたしたちの内に宿った。
わたしたちは その栄光を見た。
それは 父のひとり子としての栄光であって 恵みとまこと(真理)とに満ちていた。
ヨハネは かれについてあかしをし 叫んで言った。

《わたしのあとに来るかたは わたしよりも優れたかたである。わたしよりも先におられたからである。》とわたしが言ったのは この人のことである。

わたしたちすべての者は その満ち満ちているものの中から受けて恵みに恵みを加えられた。
律法は モーセをとおして与えられ 恵みとまこととは イエス・キリストをとおして来たのである。
神を見た者はまだ ひとりもいない。
ただ 父のふところにいるひとり子なる神だけが 神をあらわしたのである。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 1:14−18)

(11)あかしをする人ヨハネは 《いったいあなたはどなたですか》と尋ねられて 

預言者イザヤのことばを用いて答えた。
《わたしは 荒れ野で叫ぶ声である。
〈主の道をまっすぐにせよ〉と。》
〔と。〕
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 1:22)

《主なる神の霊がわたしに臨んだ / これは主がわたしに油を注いで(マーサハ〜メシア〔マッシーアハ〕・・・》(旧約聖書〈7〉イザヤ書61:1)というイザヤの表現を承けて イエスは《これが きょう あなたたちに実現した》と語っていた(第六章)その系譜に立っている。ムハンマドのばあいは これとは 微妙に・しかし基本的にちがっていると思われるから このようには(つまり 《誕生 / 塗油〔メシア・キリスト〕 / その実現》というようには) 誰も言わなかったとすれば 人は この聖書の系譜を葬るか もしくは それに注目して受け容れるなり反論するなりするか これらのほかには なしえないであろうとは言える。
(12)《ことばは 肉体となり わたしたちの内に宿った》という表現も 一般性と特殊性の両部分に解される。それが ひとりイエス・キリストにかんする《父ヤハウェーのひとり子としての栄光》であるというのは 特殊性である。一般に真理(ことばたる非経験X)が 経験(YおよびZ・つまり ここで 《肉体》)とかかわるという表現は 一般の存在思想であるにすぎない。まずは この一般性を見ずに 信仰一般なり聖書一般なりを受け付けないというのは ありうべからざる誤解に立っている。《ことば(この場合あくまで 非経験X)は 肉体となり わたしたち(経験存在)の内に宿った》というのは 何の無理もなく明らかに 存在思想の一般性(X−Y−Z)に立っている。
(13)この存在思想一般においてやはり 実質上われわれの存在が経験領域に限られないというところのまこと(真理)が 恵み(恩恵)としても 明らかにされている。恩恵とは 《只で》であり いわば絶対的な受動性を言っていると思われる。この限りで――ことは表現の問題であるから―― われわれは もはや一人ひとりが 《誕生せるキリスト(つまり いわゆる小文字の・一般性としての)》である。ここまでは 問題ないはずである。このキリスト信仰ないしキリスト存在思想のことを知らずしても 《わが存在の誕生》に出遭う人も いると考えられる。わざわざそれを キリストと言うのは嫌だというのは 別の問題である。《真理による恩恵》ということがらは 存在思想の一般性として捉えられる。
(14)けっきょく歴史的人物たるイエスなる経験領域が 一般的なキリスト(恵みを受ける存在者一般)であるだけでなく 真理のことばたる神=キリスト(大文字の)なる非経験であると表現する信仰ないし思想にかんしては その特殊性は 《この恵みのうえに さらに恵みを加えられた》(1:16)というところにあると思われる。《わたしたちは皆 このかたの満ちあふれる豊かさの中から 恩恵のうえに恩恵を受けた》と。それは 《ただ父ヤハウェーのもとにいる独り子である神(キリスト・イエス)だけが 神をあらわしたのである。》(1:18)というようにである。
(15)《第一の恩恵》については すでに触れたとおり 存在思想一般に共通である。(たとえば無信仰者が 我れは無神という真理Xを信じると宣言して 自己の誕生に立つ時である。)そこにさらに増し加えられる《第二の恩恵》とは 《真理がすべてにおいて すべてとなる》(パウロコリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 15:28)ことである。《復活 / 天の国》などと言われることもある。(依然として 表現の問題であると思われる。)
《自己の存在が非経験の真理とかかわる関係としての信仰(信仰一般)・つまりその自己の誕生》が 《第一の恩恵》である。自然身体の誕生を 第一の誕生とするなら この第一の恩恵は 新たな自己の生誕として第二の誕生のことである。
《第二の恩恵》は この《第二の誕生=第一の恩恵》が 表現上《実現した》というだけではなく 想定上・従ってやはり表現上 《完全に実現した》ということだと思われる。この世ではありえないことと思われるから その経験存在たるわれわれにとっては 希望に属している。それが なお経験領域ともかかわるとするなら いま・ここでの誕生せる自己の持続過程すなわち愛にかかわっている。――だとすれば この〔第二の恩恵という〕特殊性の部分も やはり信仰一般から導き出されるということも 可能である。
(16)すなわち もし仮想として考えることがありうるとすれば 一般の存在思想においても説かれる恩恵の上にさらに増し加えられる恩恵によれば そのとき 世界は もはやキリストのキの字も言わずして 第一の恩恵(誕生せる自己)が実現していることである。――経験と非経験とが もはや区分けもつかないほど あいたずさえて わたしと世界とに 実現していることである。あるいはむしろ これら両領域が まったく明らかに人間の能力によって区分されえて それぞれの領域でしっかりと一人ひとりの生が いとなまれていくことである。もしこのとき 経験科学がすべてを明らかにするというとすれば それは あくまで すべての人の自己生誕の実現の結果として成り立つ情況のことであり なおも科学は そこで手段としてありつづけるものと考えられる。実際には この経験合理性の領域のほかに なおもそれを超えた領域があって そのことをも 経験科学がそれとして 可能であるなら 明らかにして捉えているといった情況だと考えられる。
この仮想は 必ずしもありえないそれではないと思われた。

(17)以上において まずは キリスト信仰の特殊性の部分は あくまで信仰ないし存在思想の一般性に立ったものであることを 明らかにしようと試みた。特殊性そのものの説明にかんして たとえばいま現在それが 説明しがたいのは そのことを《光りは闇の中に輝いている》という表現が捉えるなどと言ったりしても 解決にはならない。それでは ドグマを深くするだけである。そして 個人の主観真実は 自由であり その自由は 他の具体的な信仰の立ち場にとっても その主観真実の特殊性の部分(たとえば 無神論なり唯物論なり)とともに まったく同じことだとまでは 言わなければならない。このような交通整理までは 明確にしうると思われた。ということは どの信仰の立ち場であれ 《何もしない闘い》に基づいてのように 実際には 話し合いを自由に進めていくこと これが 大切である。
何のために? と言うなら それは われわれ人間の存在にとって 無条件におかれた姿だと 答えることになる。われわれの特殊性の部分では――それは ヨブの物語の問題でも見て来たように――たとえばパウロによれば《わたしにとって生きるとは キリストを生きることである》(ピリピ人への手紙 1:21)というごとく 確かになお自同律(自己の自乗)で答えることが その基本とならざるをえない。とは言っても すなわち他の信仰の立ち場に立つ人にとっても じつは――その動態過程において―― まったく同じことなのである。その一定の信仰において 自己の誕生を見た / その誕生せる自己を自乗していく以外にない ということになっているはずである。(究極の二分された形態は 表現上 キリストに触れて説明するかたちを貫くか それとも それ以外の表現形態を貫くか いづれかであると考えられる。)
ここに至れば それぞれの立ち場でその特殊性を容れた普通の一般性――存在・表現・時間の過程――の問題となったと思われる。
(つづく→[えんけいりぢおん](第十八章−パウロ) - caguirofie041203)