―第二十三章a つづいて第三項排除の問題
目次→2004-11-28 - caguirofie041128
(photo=le Furon a Sassenage)
([えんけいりぢおん](第二十二章-第三項論b) - caguirofie041209よりのつづきです。)
第二十三章aーつづいて第三項排除の問題〔(44)〜(51)節〕
(44)第三項排除効果は 《欲望》の問題としても解き明かされている。そのような新しい観点を交えて 現代社会論へと進めることが この章の課題である。ここでは いわゆる方法の問題に絞り 入り口に漕ぎつける程度となる。
今村仁司氏は書く。
承認欲望は 第三項排除効果の原動力である。人間が社会関係のなかで生きるのは 欲望をもって 欲望につき動かされて生きることである。ほとんど所与ないし《自然》とみなしてよい無意識的な欲望につき動かされるだけではない。そのような自然史的前提の上で人間は群れのなかで 相互の交通関係のなかでさまざまの欲望を他者に向かって投げつけながら 生きる。社会関係が運動するためには 人間の他者への欲望 とりわけて他者による承認の欲望を必要不可欠とする。これなしには いっさいの社会関係が成り立たず 動的にもならない。承認欲望は 社会関係に《生命》を吹き込む。
(今村仁司:排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫)Ⅵ−鄱)
われわれは この原動力(つまり経験領域でのそれ)である承認欲望から 自由になったと表現し宣言する。
《自由な変身》とは そのことであり この《ユートピア的契機》は 現在のもの(こと)だと捉える。経験事実の領域で 最大限に猛威を振るう限りでの原動力として これまで見てきた《理法・原理・根本条件》のことが さらに説明された。承認欲望。ただし 《承認》は われわれの誕生思想にかかわるコミュニケーションと限りなく内容が重なるから かんたんに斥けることなどできないし 斥ける必要もないのだが その微妙な違いについて明らかにしなければならない。
(45)たしかにこの《承認欲望》が結局どこまでいっても無くなるわけではなく われわれがそれから完全に自由になっているわけでもない。むしろその力に突き動かされるかたちと同じようになって 生きているのであるが しかも自由になった恩恵の地点(信仰)に生きる。その原動力とは別の《生命》を吹き込まれたと信じている。《油を注がれた》と。この実践は たしかに《前望的》であるが 自由とそれに対する経験現実の制約とが 互いに交錯しつつも いまここに信仰として――その信仰として――わたしはわたしであるという持続過程に すでに ある。これじたいは すでに実現されているのである。あらためて 《血筋(すなわち《自然史的前提》)によらず 肉の意志によらず 人間の意志(つまり《承認欲望》)にもよらず 神によって生まれた。》と思っている。その結果 ユートピア的契機による自由な変身が 現実のものだと捉える結果となっている。
もっとも このことは 現実の話し合いに活かされなければ成らない。その意味では いま述べていることは 主観真実であることにとどまっている。それだけではなく 話し合いのための助走ないし独り言のようなものである。《自由な変身》の内実を 探求している過程ではある。
(46)この世の《強制的変身》の作用するかぎりでは さらに別の一側面として 《メデューサ効果》があると続く。
排除の視線による物化は メデューサ効果とよばれる。この場合の物化は 石化である。石化とは 物化の具象化である。メデューサ効果による石化は 単なる比喩ではなく 実際の経験のなかでもしばしば見られる現実である。石のように硬直する経験は 誰もが経験するはずである。排除の視線は 排除されるものを物化=石化するだけではない。排除するもの自身が 排除されるものの同定とそれの排除行為を通して自己自身を物化・石化する。視線を介して 排除行為の両極が相互に物化・石化しあう。
(排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫)Ⅵ‐酛)
ここでわれわれは これまでに扱ったところの 懺悔と悔い改め / これらを通しての聖性の内面化 / これを観念化し社会心理の共同態とする / これによる社会的な均衡調和の実現・・・これらは すでに人間が物と化し石となった姿の中での心理運動に過ぎないとさえ 言うことになる。これらすべてが 《視線を介して》なのである。
- 視線を介して現実に行なわれているのを わたしは 知っている。そのとき承認欲望が 互いに満たされ合っている。その場が 出来ている。つまり 儀礼制度化である。これらは すべて 暗黙の相互了解があるかのごとく当然のごとく遂行され すでにそこでは 成文化されていないとは言え 式次第が成立しており まるで秘密結社のようである。
石の心(承認欲望)や 模倣欲望の場を知らず 石の視線たる情けに倣わないとき われわれは ヨブの《苦しみ・試練》の問題に直面する。まさに《わたしたちは あなた(キリスト)のために一日中 死に渡され 屠られる羊のように見られている。》(第二十章/旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)44:22)そして その視線を投げつける排除する者のほうも 《物化・石化》するというのは 人が 第三項と見られて キリストのゆえにこのメデューサ効果の視線を受けるばあいのことではなく(――われわれは そんなものは知らない――) むしろその視線の送り手の側――つまり実際には 送り手と受け手とに互いが互いに交替しつつ お互いを強制的に変身させあうこの世の側――であることを物語るものと思われる。
この《視線》からもわれわれは 自己の信仰のうちにおいて 自由であると宣言すると同時に(――わたし自身は この問題にかんしては 送り手としては まったく自由である――) この苦しみの事態に勇敢にも耐えているというわけではない。言い換えると この苦しみなる涙の谷のなかからこそ つまりこの苦しみから将来の栄光へ向けての方向と過程のなかから 自己の存在思想に進んだり話し合いに入ったりするのではないと言うべきだとわたしには思われる。
そう言わずに もし涙の谷にあって勇敢にもその悲惨に耐えているのだとすれば それは 石化の視線を飛ばしあいながら その中で 互いに承認欲望を満たしあい その基礎の上に 文化をきづこうとするこの世に 我々は同情している〔のみである〕ことになる。われわれは 同情を知らないのではない。しないわけでもない。つねに話し合いとしての闘いの過程にある。人びとのふつうの接触のなかに 間接的には 互いの自己還帰を願い 促す姿勢にある。自己に還帰すれば 同情を必要としなくなる。
(47)宗教儀礼としての信仰=信念において 結局 その自己のうちに《聖と俗 善と悪》をたずさえると言ってのように 交通関係のなかで 互いに所を替えつつ 相手を 《俗・悪・呪わしいもの・憎むべきもの》と見なしてのように この《視線》を互いに投げかけあう ということのように解される。つまり この意味での《承認欲望》の実行であるのだろう。
これが あくまでこの世の生を生きるための《原動力》となり それによって《〈生命〉を吹き込まれる》と信じて(思い込んで)いるという一分析だと思われる。《排除行為の両極》が これによって社会をいとなみあい(また 現代では 貨幣経済を介して いとなみあい) 承認欲望が満たされたなら そこに大いなる文化(および好景気)の花が咲くという人びとの信念にかんする一分析内容のように思われる。《人という字は ふたりが互いに支えあっている》というのが その一つの信条となっている。
(48)すなわち このように今村理論をたどって来た結果 一つの締めくくりとしては 次のような新しい議論へと ともに すすめていくことが出来る。今村氏は 次のように論じ 排除の問題に挑む。
深くて重い伝統と一体化した排除の視線を 解体するためには 主観主義的倫理学の諸命題では どうにもならない。倫理学的態度の深化は もちろん重要であるが それ以上に 視線の認識論 認識論的訓練の方がはるかに排除批判に貢献するであろう。
(排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫)Ⅵ−酛)
《排除の批判》には この《訓練》を含んだ広い意味での哲学が 《貢献するであろう》と思われる。そしてその貢献の初めに(つまり 時間的にも・考え方としても その初めに) 存在誕生の信仰という先行領域があるだろうとも 考える。必ずしも《前望的実践》だけではなく いわば待ったなしの場で われわれは あたかもすべての人びとの奴隷となってのように 話し合いを継続する。《継続じたいが 力だ》とも人は言う。この意味では――信仰とその持続なる実践に限っては―― 《倫理学の諸命題》から まったく自由な《主観主義》の歩みである。
《排除の視線を解体する》こと これをも われわれは 望んでいるが 信仰の基本に従うなら 《解体》したから《自己存在に誕生する》(自由な変身を得る)とは 見ない。つまり 順序は その逆であろうと思っている。自己の誕生を見た人は 排除の視線を投げかけることは ない。(この点じたいは 経験的にも事実として実現した。)つまり 《解体》は その解体が実現したと考えられるその人の自己にかんして もはや必ずしもわづらうことは ない。そして他者にかんしても その他者の排除の視線を解体することにわれわれが努めるというよりは その他者じしんが 自己還帰することを祈るほうが 筋だと考える。これは 実際には 主観真実におさまってしまう問題であるから その意味で 《主観主義》である。もちろん 《倫理・道徳》の訓練ではなかった。そしてこの祈りは 話し合いであった。
(49)また――その論証は まだまだ弱いが―― この主観主義に立ててこそ(あるいは 主体の主観をも排除しない地点に立ってこそ) 認識論的訓練も 誕生せる自己の無限の自乗過程としてこそ おこないうると考えている。このような一つの立ち場を主張することまでは ごくふつうの一般的な議論であると考える。――従って実際には 話し合いの過程なのであるが そこでは 各自の主張内容の妥当性を判断するのは 一般に 経験合理性による。すなわちわれわれが この過程で 間接的には誕生思想をめぐる外交活動を展開するということであり そこでは この世のあらゆる経験思考をすべて活用していく。倫理学の諸命題からまったく自由に 認識論や哲学あるいは要するにあらゆる経験科学の成果を 活用していくことになる。たとえばここでわたしは この今村理論を あたかも無断で活用しているかのごとくである。
(50)このあと今村さんは 次のように現代社会を 《資本》の問題ないしその観点から捉え これの分析的認識および批判に移る。
真に自由な変身(自己の誕生にかんする第一および第二の恩恵の実現)の可能性の条件は どこに求めたらよいのだろうか。われわれは 近代資本主義経済に注目したい。近代資本主義とそれが包摂した近代市民社会は 物象化した〔強制的〕変身の極致である。資本の体系は 可能な限り物象化した変身の体系である。
- 内面的な犠牲の儀礼制度化が 経験的な《存在論的原理》として 《排除の視線》の具体化として もはや全般にゆきわたった情況を呈する。通俗的に・かつ冷たく言えば お金に泣いた者も それを呪いつつ 同じそれ(お金)を至福をもたらすものとして 社会制度と連携しあって 自己のもとに内面化しているというものである。この情況では 仮りに観念的にイエスを持ち出して来ようとも あるいはブッダの慈悲にすがると言おうとも そのような儀礼的な内面化〔の信条〕では 役に立たない。つまりは そういう信条を身につけたとしても それは 資本主義経済の《変身》とまったく同じ心理的にして現実的な構造内容に終わるしかないと知ることになる。《可能なかぎり〔全般的にゆきわたっての〕物象化した変身の体系》の中にいると知るのみである。
・・・資本の変身運動と自由な変身の可能性との関係が問われるべきである。
(排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫)Ⅵ−醃)
このとおりだと思われる。さいごの結論課題も そのとおりだと思われる。
話し合いの過程でも――それは 日常生活の問題なのであるから―― 基本問題として この資本〔としてのわれわれ人間の関係〕が 大きな内容事項を為すと思われる。
そして これに関連しても 《主観主義》は すでに《自由な変身》が《実現した》という地点から 出発している。抽象的にいえば われわれの愛が信仰をとおしてはたらくという実践の過程にあり これを歩みつつ たとえばこの《資本の運動と自由な変身との関係が 問われるべきであ》り じっさい――目の前の人びととの関係としては――すでに・つねに 問うている。その行動がすでに理論でもあるとさえ言いつつ そのとき 認識論の成果をも勉強し摂取し活用していく。
(51)今村氏が さらにこのような視点と課題とで 現代社会に焦点をあて論じていくところは ここではもはや 割愛することになる。それは 見過ごすべきでないものを 見過ごすことになるとは必ずしも思われず もはや たとえばその政策課題(個人的な生活態度のそれとしても)としての実践は 誰もがそうであるように まだ 入っていないように思われる。
また 《認識論的訓練》は 資本関係たる社会を 第三項排除効果に《〈生命〉を吹き込む》承認欲望の観点からも 分析して理論化しているはずであるが いまは その認識論ないし哲学にさらに《生命を吹き込む》のは 経験領域を超えた信仰ないしその存在思想であると思われ われわれは このことに 焦点をあてている。
(つづく→[えんけいりぢおん](第二十三章b−第三項論と現代社会) - caguirofie041212)