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哲学いろいろ

第十九章 パウロ・2

目次→2004-11-28 - caguirofie041128

[えんけいりぢおん](第十八章−パウロ) - caguirofie041203よりのつづきです。)

第十九章 パウロの生きた愛

つづいてパウロの語るところに就いて 学んでいきたいと考えます。

すべての人に対してすべてのものになりました

次の文章のなかの《奴隷》ということばは 文脈からもわかるように 具体的な人との関係(あるいは出会い)が ある種 不可避性のもとにあると考えられることを指すものと思われる。

わたしは 誰にも隷属しない自由な者ですが すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては わたし自身はそうではないのですが 律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また わたしは神の律法を持っていないわけではなくキリストの律法に従っているのですが 律法を持たない人に対しては 律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。なんとかして何人でもよいから救うためです。福音のためなら わたしはどんなことでもします。それは わたしが福音の恵みにともにあずかる者となるためです。
コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 9:19)

前章からわれわれは すでに実践の分野にも焦点をあてている。われわれにとっては 話し合いの過程である。このパウロのばあいには 直接に信仰を宣べ伝えるという・かれの生全体にとっての過程である。
また ここで 《奴隷になり》《すべてに耐える》といっても そこに抵抗を排除しないことを 確認しておきたい。あるいは 《福音のためなら》というのだから 不必要なこと・すべきでないと考えること これらのことは しないであろう。
ここで 《救い》というのは かなり特殊なことと見られるかもしれない。もちろん 《自己の誕生にかんする第一および第二の恩恵》のことであるから 基本的に一般性に立っているのであるが とくに現代としては この信仰と愛つまりむしろ 話し合いの過程を 一般的な生活日常の活動として――従って その限り信仰はあくまで間接的に――おこなっていくものと わたしには考えられる。
すでに論じてきたように 《救い》も《福音》も 信仰にもとづく存在思想にとって 一般性(その基礎)に属すると思われるが 逆に むしろ特殊性のほうからも 付け加えて論じるとするならば 次の点が ここでの論点となる。《真理はきみたちを自由にする》(ヨハネによる福音書 (福音書のイエス・キリスト) 8:32))という恩恵の実現のほうから すべてを解釈し 話し合いにおける行為原則ないし行動方針を立てていくということである。
この原則や方針は 必ずしもその内容を規定し いくつか列挙するために言うのではなく ここでなら 《隷属しない自由な者だが すべての人の奴隷になった》というような行為原則のことである。わたしにとって いま目の前の人は その関係と出会いが 不可避のこととして捉えられるのではないかといったことである。
《一期一会》などと言うつもりはない。この一期一会のほうはあまりにも心理的な要素がつよいように思われる。なにか経験思考とその意識によって 出会いの不可避性あるいはいわゆる関係の絶対性を 想像したり また これを念じたりするという要素が強いと。(もし そうでなければ 《会う者は会う。会わない者は会わない。すべては成るように成る》というに過ぎないであろう。)そうではなく われわれの捉え方は 日常性一般に始まり どこまでも日常性一般でありつづけることにある。次のように説明できると思う。《できるだけ多くの人を得るためです》という方針内容にかんして われわれとしては いますでに 表現上 《人びとは 得られている》という地点に立っていると理解しているからである。わたくし個人が《得る》わけではないから やはり存在思想の系譜一般の問題として 捉えられるのではないかと思われる。
われわれは すでに いま・ここなる待ったなしの・のっぴきならない場におかれている。つづけて

競技場で走る者は皆走るけれども 賞を受けるのは 一人だけだということを知っているでしょう。あなたたちも賞を得るように走りなさい。競技をする人はすべてに節制します。かれらが朽ちる冠を得るために節制するのに対して わたしたちは 朽ちない冠を得るために節制するのです。だから わたしたちは やみくもに走ったり 空を打つような拳闘はしません。むしろ 自分の体を鞭打って服従させるのです。それは 他の人びとに福音を告げ知らせておきながら 自分のほうが失格者になってしまわないためです。
コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 承前 9:24−27)

これにかんして (a)道徳とその修練のように聞こえつつ それから自由に 自己・個人の問題――とくに 宣教の時代における――だと考えられる。だから 《節制》も 誕生せる自己の持続が基本であろう。日常性から離れた 特別の修練を言うわけではない。《やみくもに走る》わけではない。
(b)それを受ける者が一人だけだという《賞を 得るように走る》というのは これも 一人ひとり個人の問題だということに基づき 解せられる。それぞれが 《賞を受ける》のである。そのことも 一般的には それぞれの主観真実の問題である。だとすれば これも 愛の実践・話し合いの過程に始まっているとともに この過程に行き着く。しかも 《恩恵がすでに実現した》地点から始めているのであれば この恩恵が《賞》なのであるから むしろ《賞を得た》ゆえ 《走る》ということにもなる。その意味でこそ 日常の社会生活のあらゆる場が 《競技場》であることになろう。
あるいはむしろ さらに言うならば 誕生せる自己の実現という信仰・希望・愛としては すでに競技は終えられているという只今の人生・社会生活なのであると考えられる。もちろんここで 試練の問題を無視するのでないことは ヨブの物語で触れた。(第十三章)この《賞》にかんれんする表現としては キリスト・イエスの語った

わたしはすでにこの世に勝利している。
ヨハネによる福音書 (福音書のイエス・キリスト) 16:33)

を聞くことに基づきたいと思う。
《きょうわたしはおまえを生んだ》というヤハウェーのことばを聞いたという詩篇の作者の自己の誕生〔の表現〕が 歴史的にここまで 進展したのである。《賞》といい《勝利》といい もはやその誕生思想ないし信仰を大前提として この実践においては 日常一般のことばで 語られるようになっている。この種の表現は ひじょうに誤解を生みやすい。ここでは そのような誤解の生じやすい表現について 取り上げていこうとも考えている。
ここにおいて むしろこの章の初めに掲げた引用文が より明らかになるかと思われる。《誰にも隷属しない者》としての《自由》の幅とちからとが――語り手のわれらがパウロはもちろんのこと 聞き手のわれわれ一人ひとりにも―― 大きく増し加わったかたちで捉えられるとわたしには思える。
このようなわたくしの解釈と思いとは ただ想像や自覚にかんする精神(=身体)の問題にすぎない。精神は 経験存在たるわれわれのものであって 有限である。それにもかかわらず この精神によっても 《霊に仕える》ことは 抑制される必要はない。《霊=非経験の領域》であるなら 無限であり 非経験の無限の領域でなす努力は 祈りであり それが 《愛を求めなさい》と言われることのもとに この現実経験の領域での話し合いの過程に帰ってくる。この祈りを 《預言すること=解釈すること》に努める。これの説明表現を得ようと努める。
これは ここで 《すべての人の奴隷となりました》という表現とまた実際上の活動に 対応する。直接的な宣教を前提しなくとも 一般の話し合い / 出会いにおける問題として 依然 有効である。《すべての人》というからには その活動によって互いに向上を目指す《教会》は 社会全体のこと すべての人びとの社会的な交通関係総体のこと すなわち いま隣にいあわせる互いのわれわれのことだと解せられる。《独力でなしうる》わけではなく しかも事は《やみくもに走る》わけでもないから 基本として 個人個人の自己の歩みにかかっている。
われわれは 日本人に対しては 日本人のようになろうではないか。哲学者に対しては――われわれは 哲学という迂回路のみで満足するわけにはいかないが―― 哲学者のようになって話し合いを進めよう。ブッディストに対しては ブッディストのように ムスリムに対しては ムスリムのように なろう。《サマリアの女》に対しては かのじょのようになろう。それは 自己の歩みが基本であり この自己は 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在であると考えるゆえに。自由意志の主体であること・つまり個人として主体の自由は 個人相互の自由関係すなわち平等であるから。
これをめぐる日常生活での具体的なふるまいにかんして かなり細かいことがらにまでわたって 前章では 考えたと思う。

  • 《すべての人に対してすべてのものになりました》について 次のユングの文章は――そこだけを取り出すのだが――関連しているように思われる。

集合的無意識とは個人的な心の仕組みが顕わにされたものでは絶対にない。それは全世界へと拡がり 全世界へと開かれている客体性である。その中では私はあらゆる主体にとっての客体であり それは私がつねに主体であって客体を所有しているというような通常の私の意識とは正反対の状態である。そこでは私は世界との直接無媒介の一体感にはまりこんでいるので 私は現実には誰であるかをあまりにも簡単に忘れてしまうほどである。《自分自身の中へ迷い込む》という表現が この状態をぴったり言い表わしている。しかしそのばあいの《自分自身》とは世界のことである。というより 意識が《自分自身》を見ることができるならば それが世界だ と言うべきである。だからこそ自分が誰であるかを知らなければならないのだ。

元型論

元型論

 (p.50)

主の霊のあるところに自由がある

あらためて説き起こすなら 経験思考によって捉えられるところの自己の誕生という存在思想を 主観真実の限りで その自同律として つまり《わたしはわたしである》という自己同一性(ただし可変的)として 生きるとき 信仰にかんする表現としては 《文字やもろもろの思想・道徳・社会慣習に仕える》のではなく 《霊に仕える》と表わす。《義の奴隷 / 神の奴隷》と表わす。この表現は やや嫌悪感を催させるかも知れないので これをめぐって説き起こしていこう。
《神の奴隷となり 霊に仕える》とき われわれは 同語反復としてでも 自己が自己であり 自由である。このとき自由に 話し合いの過程において 相手に応じて相手と同じようになり その人の奴隷になることも出来る。

  • これは 誕生せるわたしの自己実現という恩恵が成ったということが 神の奴隷として霊に仕えることなのだから 自由なわたしは自由であるというふうな同語反復ではある。自由が実現したとき 自由に実践することができる と言っている。
  • これは F.ドルトの《欲望》の理論に通じるところがある。(第十五章)現実の交通関係におけるさまざまな欲望関係にかんして それをひとまず すべて不可避のことと捉え その場ないしその人との関係じたいとしては 従うということである。ただし 欲望そのもののまま 振る舞うということではないであろう。《やみくもに走る》わけには行かない。《すべてを信じ すべてを忍び すべてを望み 〔抵抗を排除せず〕すべてに耐える》自己が やはり持続過程のもとに 存在していると言うべきかと思われる。 

すなわち 《同じようになる》けれども その人と《同じ人》になることではない。ここで 《自己同一性》は じっさいの事実関係の中にあって 他者との非同一性・差異をも見ていることは 明白である。〔もしくは むしろどう転んでも 他者と《同一》になることは ありえないとも考えられる。〕

こういうわけで 兄弟たち 神のあわれみによってあなたたちに勧めます。自分自身を 神に喜ばれる聖なるいけにえとしてささげなさい。これこそ あなたたちのなすべき礼拝なのです。あなたたちはこの世に同化してはなりません。むしろ 考えを新たにして自分を変えていただき 何が神の み心であるか 何が善いこと・神に喜ばれること また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
パウロ

ローマ人への手紙〈1〉 (コンパクト聖書注解)

ローマ人への手紙〈1〉 (コンパクト聖書注解)

 12:1−2)

祈り その祈りを解釈すること その説明表現に努めること これが 説かれていると摂ります。言いかえると ここでは 《われわれはこの世に同化してはなりません》という部分のほかは すべて 主観真実のなかの信仰にかんする表現の問題であると思います。《神の心 / 善いこと》などは あくまで 個人の主観真実の内にとどまる問題であろう。そのことを 自分の真実として 人にも表明してよいわけだが 話し合いの過程としては 一般に経験合理性にもとづき判断しあうということが 基礎にある。たとえば倫理・道徳も この基礎にもとづき処理し合われていく。つまり 上の文章もやはり 道徳として語っているところは ないと確認しておくことができる。
この文章はローマのキリスト信仰者たちに宛てて書かれているわけであるが この部分にかんして〔も〕表現の問題としてでも 自己満足による想像・幻想にすぎないと言われかねないところである。
つまりは 実質的に あらためて《祈り》の部分である。《この世に同化しえない》と同時に 人びとの奴隷となってのように その人と同じようになる――その話し合いの過程での――ことは 自己の信仰の持続として・愛の動態として このような祈り(つまり表現を得る努力)が あるはずだとまず言える。

  • ちなみに エポケーという言い方がされている。自由な判断を得るために 祈りに逃がれることである。

そして重ねていえば むろん経験論法から見て 神の心をわきまえるための祈りの努力は すべて主観真実の領域におさまることである。得られた表現が 経験思考にとって 妥当でないなら 自己満足の問題となる。――そしていま消極的にいうなら この祈りは 信仰・希望・愛として 主観真実の現実的な動態であろう。《この世に倣うな / 同化しえない / 経験領域によって自己の誕生を得たのではなかった》という自己の自乗として その祈りとして 語ろうとしている。《自分自身を神に いけにえとして ささげなさい》というのが 誕生せる自己の自乗である。

  • 繰り返すなら あたかも現象学的還元とよぶおこないのことだと解される。

たとえ経験思考にとって合理的で妥当なことしか語らず すべてそのように科学にもとづき 非経験の領域については 一切語らないという人も その人じしん 非経験の領域に接していることは 現実なのであるから けっきょく実際のところ 類型的には同じような信仰を持ち そこに立って その人じしんの祈りの過程をたどっているものと思われる。いうとすれば 何がもっとも合理的で妥当であるかの認識と判断に専念するのは 表現上 神(真理)のいけにえとして 自己をささげるかの如くである。
以上のような考え方を確認したところで さらに 長い文章を引用しよう。

だから 兄弟たち わたしがあなたたちのところに行って異言を語ったとしても 啓示か知識か預言か教えによって語らなければ あなたたちに何の役に立つでしょう。

  • というように 異言と預言 つまりさらには ふつうの日常生活の話し合いの問題に たどりつくと思われる。

また 笛であれ竪琴であれ 命のない楽器のばあいも同じで もしその音に変化がなければ 何を吹き 何を弾いているのか どうしてわかりますか。・・・同じように あなたたちも異言で語って 明確なことばで語らなければ 何を話しているか どうしてわかってもらえるでしょうか。空に向かって語るはめになるからです。・・・ですから 異言を語る者は それを解釈できるように祈りなさい。わたしが異言で祈るばあい それはわたしの霊が祈っているのですが 頭は役に立ちません。では どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り 頭でも祈ることにしましょう。霊で神を賛美し 頭でも賛美することにしましょう。・・・わたしは あなたたちの誰よりも多くの異言を語れることを 神に感謝します。しかしわたしは 他の人たちを教えるために 教会では異言で一万の言葉を語るより 自分の頭を使って五つの言葉を語るほうをとります。
 兄弟たち 物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり 物の判断については 大人となってください。・・・
コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 14:6−21)

信じる者の集まりである教会でも このようであるなら 社会一般においては すべては話し合い一般に 焦点が移ると言ってもよいのではないでしょうか。〔もっとも 焦点は経験合理性でわかる話に移るのですが 祈りが そのひとつの源泉なのであるから 非経験との関係という信仰がそのような幅を持った全体としては やはり 基本出発点の問題でありつづけるはずです。〕
むしろこの第3部に移って 信仰を直接に前提して述べる段階となったとき この信仰が 人に対して間接的にはたらく道を基本的に歩むこととなったと考える。これが しかも 世の中の知恵に同化することではないと思われることであり そのことは 科学者とて 同じであろう。さらには すでに第二の恩恵の側からこそ 祈りによって得られた表現をあらわしていくことと思われ それは もはや 自然身体の誕生から 自己としての第二の誕生へと到る方向と過程とでの語りでは必ずしもなく また この第二の誕生という自己に対する第一の恩恵から さらにそれの完全な実現という第二の恩恵へ向けての方向で語ることでも 必ずしもない。つまり繰り返すなら すでに第二の恩恵の側から 自由に社会の交通関係(これとしての教会=民会)に入り 一方では基本的に 霊に仕える信仰でありつつ これがもはやその持続として 間接的にはたらく過程にあって 他方では 頭を使って・つまり経験合理性にもとづく妥当性の領域と表現とで 同じく自由に話し合いを進めていくということ このように結論づけられる。
そこには 一つの処方箋が 得られている。《悪事については幼子となり 物の判断については大人になってください》。――《悪事については幼子となり》すなわち 欲望の問題ないし他者の主観真実とそのもろもろの思想(生活態度)については それとの関係の場じたいはこれを 不可避のこととして受け入れ しかも《物の判断については大人となりなさい》つまり 誕生せる自己の自乗の過程に従う。人生訓に見られかねないけれども 奴隷になるとさえ言うごとく人と同じようになり しかも 同化してはなりませんということだと思われる。

存在思想の系譜は もはやあたかも信仰を離れてのように ここまで来ていると思われる。基本的な一面では 信仰そのものにかんしての・あるいはさらに《異言》ともいうべきいわゆる神学としての 祈りの追究が つねになされるとともに それと並行して すでに一般的な日常生活の領域に じゅうぶん問題が 具体的に入って来ている。いわゆる宗教・社会慣習としてのキリスト教文明(?)が しかるべく行き詰っていると言われるなら その現代において 問題のありかは 以上のように考えられる。《霊でも祈り 頭でも祈る》とすでに二千年近くの昔に語られていたなら このことの実践をさらに進めていくべきだと考えられる。余計なことを付け加えるならば われらが信仰にかんする限り 経験領域におけるそのような日常生活の具体的な実践をおこないうるのは そのわれわれの頭をこえて どこまでも 試練を乗り越えつつ 非経験へと無限に開かれていくところに 推進力が得られるものと信じる。この祈りは その祈りのまま・異言のままでは 表現されて来ないということである。
人生訓に近い内容の議論になったところで ここでの課題は 終わりに近づくこととなったと思われる。パウロの表現する存在思想にかんして もう一章を当て 残る最後の三章では あらためて いくらかの理論的な整理と発展とを期して思索をつづけ それにて おしまいとしたい。
(つづく→[えんけいりぢおん](第二十章−パウロ・3) - caguirofie041205)