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哲学いろいろ

第二十二章b第三項論から現代社会のこと

目次→2004-11-28 - caguirofie041128
[えんけいりぢおん](第二十二章−第三項論) - caguirofie041208よりのつづきです。)

第二十二章のつづき――第三項論から現代社会のこと〔(28)〜(43)節〕――

(28)いわゆる宗教の問題としての聖性の内面化について さらに議論をつごう。
まずたとえば イエスは みづからが《木に懸けられた者となる》かたちで 《この世を去る》ことにかんして 弟子たちに次のように語っている。

わたしがこの世を去るのは お前たちのためになるのだ。わたしが去らなければ 弁護者(聖霊 / 存在せしめる者)はお前たちのところに来ないからである。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書16:7)

もはや キリスト信仰の特殊性を一焦点として論じているので いちいち特殊であるとことわることをしない。
この 十字架上の犠牲の事態を介して 聖霊が人びとに送られるようになるという表現は 宗教的な聖性の儀礼的内面化に たいへんよく似ている。あたかも かのやや後ろめたい《サマリアの女》として わたしは 悔い改めが必要であると もししたならば(これはむろん 個人の問題である しかし個人として そうだとしたならば) そのこと(悔い改め)が あたかも因果応報の思想での懺悔と同じくのようにして ゆくゆくは 組織的・制度的な宗教儀礼による各自の心理内面化へと 導かれる可能性があるのではないか という議論である。だから 第三項排除効果に似ている いや そのものではないかと。《生命の水》なる神が 人びとの心理共同のうちに 《聖なるもの》とされ これを つまり観念の共同化の過程として 社会構造的に誰もがあがめなければならなくなるのではないかと。
これは むろん――すでに見たように―― 信仰および存在の自由にかんして そこに すき間(つまり自由)があって そのような宗教儀礼化が作り出される余地があったということであるが なおかつ もう少し細かく見てみよう。
(29)まず《聖霊なる神 / 弁護者として執り成すはたらき》が イエスの去ったあと 送られるという そしてこれを受容するなら――このことじたい われわれは 存在思想の系譜に立って あらためて受容すると表現するのだが―― 《儀礼》の問題に限りなく近い。いけにえを作ってしまったという事後的な自責とその解除としての心理的な内面儀礼に限りなく近い。
(30)近いけれども われわれの信仰が この宗教儀礼と異なるというその理由は ①《あくまで個人の問題でしかないもの そうありつづけるもの》でなければならない。②《当時のユダヤ社会から強制的変身を迫られ これを拒み 基本的にどこまでも逆らいつつ いけにえとなったそのあと 逆に聖なるものとして受容され そのようにして〈自由な変身〉をとげた》と見ることは 信仰の中には ありえないということ ここにある。この②項の内容にもとづき イエスの去ったあと聖霊が送られ それを受容するのだという筋合いは ありえない。たとえそうだとしても この《自由な変身》は イザヤからの・アブラハムからの もともとの 信仰および思想の系譜なのである。
言うとすれば イエスは 歴史的な存在思想の系譜に立ち 初めに・そして終わりまで《自由な変身》の信仰の人であった。こう見るということは われわれが その自己が あくまで表現をとおして すでにそこに自己自身の誕生(自由な変身)にも出会ったという事件を経て 再び振り返ってのように それと同じく・そしてまた旧約時代のあとの新たな先駆者としてのように イエスをとらえるというに尽きる。儀礼などありえない。内面心理における聖化だの さらには その観念の社会共同化としての宗教現象 これは 冗談でしかありえない。つまりは 第三項排除効果という悪霊のしわざであるのかもしれない。
たしかに かく言う信仰者のわれわれも うえの認識から始めて仲間(同志)が集まり共同の活動をすることはあるであろう。だが そうあったとしても 宗教儀礼の内面化は 出て来ない。儀礼もなければ 内面化も 出て来ない。内面は すでに 誕生せる自己という中味で満ちている。これを持続して歩むのみだと言っているのに なんで儀礼が必要なのか。
たとえ わたしに 心理経験的に 罪の念による自責と恥とまた悔い改めとが 伴なわれたとしても そのこと自体によって わたしは わたしの誕生に出会ったのではない。逆に すでに 誕生を与えられたというのであって なんらかの懺悔をすること(人間の意志)によって誕生したのでもない。悔い改めは その誕生の際に事実問題としては伴なわれたであろうが それも 誕生という恩恵をうけてのよろこびにかき消されてしまうというものであろう。その《事件》は あたかも非経験的に・無条件に すでにわたしにやって来たのである。そうでなければ それは 信仰ではない。
ただしこの時 《わたしは生まれた / そこに油を注がれた / これが実現した》のあと 《そのために――イエスが去ったあとでこそ―― 聖霊がおくられる》という表現を 付け加えていることは ありうる。つまり キリスト信仰という一つの具体的な立ち場であるゆえ 少なくとも表現上 そのような特殊性の部分をも含んでいる。(これは  誕生思想と形容されうる信仰の内容が 人それぞれ個人においてだが・歴史を経て やがて満ち足りてくることを アブラハムらが待ち望んでいたとすれば それが イエスにおいて実現したと表現されたのであるから 完全な実現という恩恵をもたらす聖霊が イエスのあと送られるとやはり表現するのは これも しごくとうぜんである。そういう特殊性である。)
けれども考えてみれば 《自由な変身》にかんする《ユートピア的契機》というばあいにも ことばや表現につきものの 観念化のすき間が つねに生じている。この観念は 倫理的であることを目指し 内面化し道徳として共同化されるならば 簡単にこれをしりぞけることも むづかしい。言い換えると ここではもはや 表現の問題として扱うという構えじたいにも 限界があると言わなければならない。
一言で説明しようと思えば 片や《自己の生誕に信仰として立ちあい 〔仮りに〕そのあと〔イエスの場合にかんしては あたかも約束されていたと表現するところの〕聖霊をあらためて受容したのだと表現すること》と 片や《第三項の排除 / 犠牲の殺害に対する悔い改めののち 犠牲となった第三項を聖なるものとして捉えるように自己自身を変換し その経験思考によって内面化した心理を 自己の信仰すなわち宗教とすると表現すること》とは 似ても似つかない二つの別のことだと考える。後者は自由であるが 単なる自律の思想である。そこでは 自己自身がまぎれもなく教祖である。この自己自身たる教祖にもとづき たとえばキリスト・イエスをさらに体裁としての名誉教祖にいただく場合もあれば 社会的に組織共同の指導者を一教祖とする場合もあるだろうし あるいは 単に社会慣習にかんする心理共同のもとに 無という教祖を立てている場合もあるだろう。いづれも 非経験が 経験思考の観念として捉えられ その神や愛や慈悲や また道徳やの体系化のもとに みづからが自らの信仰=いや宗教を 形成したことになっている。悔い改めが悪いことだと思わないが それだけでは 経験思考の領域と同じ問題なのである。だから 信仰ではなく 一種の社会運動なのだと自称すればよい。
(31)ありうべき誤解は 多い。もう少し聖書から引いて 検討しておこう。この章の初め〔(20)節〕に述べた課題は 追い追い 煮詰めて行こうと思う。
エス自身のことばとして伝えられるもの――。

この世がお前たち(弟子たち・また信仰者いっぱん)を憎む(つまり第三項化する)なら その前にわたし(イエス)を憎んでいたということを覚えていなさい。もし お前たちがこの世に属する者であれば この世はお前たちを身内として愛した(つまり第三項化しなかった)はずである。だが お前たちは この世に属しておらず わたしはお前たちをこの世から選び出した。・・・人びとがわたしを迫害したのであれば お前たちをも迫害するだろう。・・・しかし こうして 《人びとは理由もなく わたしを憎んだ》(旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)35:19/19:4)と かれらの律法に書いてある言葉が実現した。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書15:18−25)

一つに これが むしろ《第三項排除〔効果〕》の現実的な事態のことを 語っている。つまりそれから自由な立ち場に立って語っている。また そういう理論である。現実の人びとの振る舞いそのものとしての理論である。さらにまた このイエスの実践と理論とが 《きょうわたしはおまえを生んだ》のダヴィデや 《主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った》のイザヤらの存在思想を 綜合していると思われる。キリスト=神のことば / 真理という特殊性に立つなら そうである。従ってそうだとすれば このイエスのわざに触れて あらためて かれの去ったあと送られるという聖霊を われわれは受容すると表現していく。
そして このいまの引用文での表現に従うなら むしろイエスは この経験現実の《根本条件》たる社会的な排除のちから(構造)に沿って 十字架上に死ぬ=すなわち第三項として排除されるということを 信仰ないし存在思想の表現行為のための一手段としたとさえ 考えられる。むしろ そういう一つの理論として捉えられる。
エスが 大声をあげて泣きながら(抵抗しつつ) 信仰において 自らこの手段を欲しつつ採ったと考えられる。つまりいまは この手段――そしてつまり 経験現実の《理法》からは 確かにこの手段にかんしても 《呪わしいもの》であった者が 《聖なるもの》へ変身するというふうに内面化されうる――によって われわれは キリストを信じたのではなかったその前提に すでに立った上での話しである。
(32)存在思想の系譜に立って キリスト・イエスの存在とその表現行為をとおして わたしは わたしの信仰を得た。このとき このわたしに思われることは かれは 社会一般の供犠制度にあたかも従うという一手段をも採ったと見られる。そもそも 俗的な呪わしさ(《木に懸けられた者》)から聖なるものへの変身として のちに見られ受容される一つの可能性は すでにそのとき 織り込み済みであったとも考えられる。――むろんこの場合の《変身》は 生前に強制的変身を拒んだ結果 迫害され ついに犠牲とされ その死のあと 一般に強制的変身を迫る側が この犠牲を聖なるものとして 自らの内に受容し内面化するという意味での変身である。
(33)《ゆえなく(理由なく)憎んだ》〔(31)節の引用文〕というのは 第三項選択の偶然性を表わす。と同時に その個人としての偶然性に 個としての必然性もあると見ていいと思われる。《この世に倣うな(あるいは 同化しえない) / この世に属していない(あるいは《異者》)》という 個としての必然性である。一般的な必然性は 《存在者の運動一般の理法》から来る。またはわれわれは単純に わたしの表現行為における自己矛盾(とくに いつわり)とその放置・あるいは 意思的な自己背反(とくに 他者にたいする欺き)とそのことの自己正当化 これらに対する自責の念と悔い改めとその自己による自己の処罰から来ると考える。この《自己》は 《社会関係》でもある。つまり《一般的な必然性》。すなわち 悔い改めや自己処罰じたいが あらためて他者の第三項化を求めるようにもなり その他者を排除することによって むしろ自己処罰が完了したとさえ考えるようになることから 一般的に・社会関係の累積的に 現象すると考える。
(34)ただし この《現実存在の根本条件》が 《第三項排除の不可視の効果の下に》 まったく《社会と文化》の側から 社会と文化そのものの《運動一般》として――つまり さらにいえば 《主体なき過程》として《構造因果性》のもとにのみ(つまりは 《不可視の効果によって》のみ)――生成するというだけではないと わたしには思われる。それの消極的な理由は 一つに 《この世に属していない》と見られ この世の和からは呪うべき・おぞましき者とみなされる人間がいるとすれば その個としての現実存在をめぐって 敢行されると思われるからである。その積極的な理由の一つに 次のような物語におけるいきさつが 介在していると考えられる。すなわち イエスが第三項として形作られていく過程にかんしてのことであるが たとえば次の如く。

・・・そこで 祭司長たちとパリサイ派の人びとは 最高法院を召集して言った。《この男(イエス)は多くのしるしを行なっているが どうしようか。このままにしておけば 皆がかれを信じるようになるだろう。その上 ローマ人が来て 我々の聖所も国民も滅ぼしてしまうだろう。》

  • たしかに 共同体の秩序と存続の問題となっているのを見る。

かれらの中の一人で その年の大祭司であったカヤパが言った。《あなたたちは何もわかっていない。ひとりの人間が民に代わって死に 国民全体が滅びないですむほうが あなたたちにとって好都合だと考えないのか。》・・・
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書11:45−50)

(35)すなわち このカヤパの説くとおりになったのであるが 第三項排除およびその効果ないし のちの儀礼的な内面化の制度 これらの問題とそしてその理論的な内容も ここに捉えられているのではないかと思われる。第三項形成が 個にかかわって偶有性と必然性とを同時に含むと考えたように その一般的な必然性にも われわれ個人の意志の及ばない構造的な関係過程のちから(つまりまさに 一般性)が はたらくと見るだけではなく(――もしくは 構造因果性として 間接的に・累積的にのみ 個人のそれぞれの意志による一つひとつの行為が あずかっているとだけ見るのではなく――) 個人の主体的な一個の行為も 関与していると見るべきではないだろうか。
(36)ただし この個人の自由意志による選択としての主体的な行為の一つひとつも すべて不可視の構造過程(つまり 実際には そこに心理共同の観念的な・その意味で概念としては可視的な交通関係をも含むものとは思われる それ)によって 決定されていると反論されたなら 話は別である。つまり この反論の内容じたいには もはや経験思考による議論は ついていけなくなる。
すなわち 《自由な変身》が 《ユートピア的(非経験・信仰)》の契機にとどまるというだけではなく 《強制的変身》は その経験的事態のすべてが あたかも同じく非経験によって 決定されていると言った内容となる。早くいえば 表現上 自由な変身をつかさどる神もいれば そのほかに 強制的変身を人びとにおこなわしめる神(悪魔?)もいるといった議論になる そうなれば もはやわれわれには 経験思考では ついていけない。というよりも 人間のおこなうすべての議論は その価値判断の点で まったく意味がないようになる。すべては 《飲めや歌えや》となる。悪魔つまり それがとりおこなわしめる強制的変身に対して われわれ人間は どうしようもないようになるのだから。
(37)これにかんして 経験思考がなおはたらきうるとすれば それは 仮りに《これら神と悪魔とが 互いに矛盾対立しない》というのなら その議論も想定として 成り立つかもしれない。すなわち 善神と悪神との根源的な(=非経験にかかわる)二元論でないとするならば である。さもなければ――つまり 非経験の《真理X》が 互いに分割され対立しあう二元(神〔X〕と悪魔〔別個のX〕)から成ると想定(信仰)する場合には―― 《自由な変身》がそこでも部分的にはありうるとしても 《強制的変身》が 人間にとって まったく否応なしの不可避・絶対的なこととなるのだから もはやいちいち志を持とうとしても 何にもならないようになる。早くいえば つまり《飲めや歌えや》となり この世で上手にふるまい 自らが排除されるべき第三項とはならないように努め 自らの悪(誰かを第三項化する強制的変身の行為)が ばれないようにやはり努めるのが いちばんだということになる。
このような慣行は けっこう一般的な事態ないし考え方であるようにも 見受けられる。従って いまの結論は 消極的にでも このような第三項排除効果の横行するこの世に倣うなという表現をもって 自己でありつづけるという生き方も 自由に ありうるとしなければならないということであろう。悪行も じつは ――人間の論法では 驚くなかれ―― 自由なのであるから この悪行に抵抗する人生も 同じく 自由なのである。
悪魔にかんしては 非経験の真理Xではないと言えるであろう。真理Xとしての《存在せしめる者・生きさせる者(ヤハウェー)》は キリスト信仰者(Z)の主観真実(X−Z)であり これに対して悪魔は 経験領域(Y)から来る心理内面の声として その主観真実(YnonX−Z / またはYminusX−Z)のことであるだろう。ノンXまたはマイナスXとは その経験思考としての主観真実(Y−Z)内で 自己を誕生(自由な変身)せしめずにおこうとする声のことである。



(38)つづいての議論であるが――(34)節の引用文をめぐって―― 大祭司カヤパを含むかれらユダヤ人たちは かれらが 十字架上に去ったイエスを 聖化したわけではなかった。けれども 経験現実のあたかも《理法》に従ってのように ゆくゆくは広く 聖性の形成と内面化とを伴なう宗教儀礼の制度を どこかで――人間の社会関係としては――構想していたとさえ見る余地が 出てくるのではないだろうか。そしてこのことも イエスの行動に 前もって 織り込まれていたのではないかと考えられる。しかも そのような一般的な必然性だけの問題ではなく 個としての(たとえば祭司長カヤパなる一主体の)具体的な行為としても 必然性が あずかっているのではないだろうか。

  • ユダヤ教徒は 自らがどれだけ悲惨な歴史事態をこうむることを余儀なくされても みずからが第三項として排除したイエスを聖なる者とする方向への転換をおこなわないのであるから――第三項排除効果の理法に その点で 合致しないのであるから―― 上の議論は 一概に言えない。イエス以前のアブラハムらの存在思想として説明される信仰にとどまっていると捉えられる。

(39)もっとも そのあと このヨハネによる福音の語るところでは 一方で たしかにそのような見方を提出していると解されるかに思われるとともに 他方では  これまたやっかいなことと思われるには この第三項排除効果の理法こそが むしろ神のわざであると解されかねないところが 見られる。そのようにして キリスト・イエスの神が あたかも悪魔なる神の役割をも引き受けていると語っているかのごとくである。

これは カヤパが自分の思いつきで話したのではない。その年の大祭司として イエスが国民のために死ぬことを預言したのである。イエスが死ぬのは 国民のためばかりでなく 散らされている神の子たちを一つに集めるためでもある。この日から かれらは イエスを殺そうと計画した。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書承前11:51−53)

《預言》とは この神の意志を解説したのだと読めるから かんたんに捉えてしまうならば 次のようである。自由な変身をつかさどるのも この神であれば 強制的変身をあたかも執り行なうようにさせるのも 同じ神であるという見方に限りなく近いと。
この誤解を解く事由として 次のように考えられる。イエスが この《社会と文化の本質が語りうる〔あくまで経験領域にかんする限りでの〕根本条件》に自ら従ってのように 十字架上の死をこうむったのは あくまでそのような手段を採ったというに尽きる。その限りで 一方では イエスないしキリストの神が カヤパらユダヤ人をして 経験現実的に あたかも最後の強制的変身=第三項排除をおこなわしめたと見られると同時に 他方では これを終わらしめようとするためであったと考えられることである。その意味で かれは まさに 《〔木に懸けられ〕呪われた者》となった。これを 聖なる者とし その聖性の形式と受容によって 儀礼化すること(すなわち 再びの限定された強制的変身)を 一面では それがなおも続けられていくことを見つつ もはや拒みとおした。《みづからも欲して 犠牲となるとの手段を採った》という事由によって 拒みとおした。
かんたんに言えば その行動によって この理論をも提示した。われわれにいえることは もはや第二のイエスは 要らないのである。その 聖性を伴なおうと伴なわなかろうと 観念化は なおさら 要らない。
(40)まったくの特殊性の部分に入って来ているが それを 信仰の一般性に立ってありうべき一つの具体的な立ち場とする限りで 大いにこの特殊性の部分にかんする・なしうる限りでの説明にすすむ。
人間の貌=つまりその意味でナザレのイエスその人が みづからでのみ そうしたのではない。人間の意志で・またはその意志と企てでのみ 十字架上の犠牲の死を 欲したのではない。かれは その前に 

父よ できることなら この杯(第三項排除の対象となること)を過ぎ去らせてください。でも わたしの望みどおりではなく お望みどおりになさいますように。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書26:39)

と祈った。すなわち 

キリストは この世におられるとき 烈しい叫び声をあげ 涙を流しながら ご自分を死から救う力のあるかたに対して 祈りと願いとをささげられました。
(ヘブル書5:7)

すなわち 

キリストは 人間としての弱さのゆえに十字架につけられましたが 神の力を帯びて生きておられるのです。
コリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)13:4)

すなわち 神の貌としては――信仰にかんして―― みづから欲してこの十字架についた。(この限りで われわれは 《自由な変身》は 《事実としてあった》という。)これは・その行き着くところは カヤパの発言のあと 《かれらはイエスを殺そうと計画した》ことを 神みづからが そうとすれば 計画したと表現することである。つまり この限り 早い話が 人間社会の経験領域での《根本条件》を利用したということである。誕生せんとする者を妨げ迫害し排除する構造的なちからが 悪魔だとすれば この悪魔をも利用したということである。この悪魔のちからも もはや及ばない真理の領域が存在するという信仰を 一面でそのすき間としては なお悪魔のちからのはたらきつづける宗教化の別種の系譜が生起することを見つつ 指し示し 与えたものと考えられる。
感傷的に言えば モーセアブラハムも ダヴィデもヨブもイザヤも かれイエスの歴史的な出現を 待っていたのである。皆かれを見て よろこんだ。イエスののち イエスのことをまだ知らなかった旅人も人麻呂も 同じようによろこんだとわれわれは見る。
(41)これは 特殊性つまりドグマであると同時に 表現の問題でもある。ただし 人間の歴史にもかかわっている。この限り 経験現実の第三項排除の理法を 排除する計画であったと言う。ただし この《計画》は 非経験のものである。わづかに 信仰として人びとの主観真実であり 現実である。
これが――この特殊性をも含んだ表現での誕生せる自己の問題が―― 《ユートピア的契機》の内容だと考える。他の内容も考えられるであろうが それらにしても すべては主観真実であるから このようなイエスにかんする主観真実をわれわれは 現実から排除しない。そのわれわれにとっては イエスは 初穂であり われわれそれぞれの長子である。
(42)細かい議論としては 《ユートピア的契機 / ないし前望的実践の先取性・自覚性・選択性》が 《存在者の運動一般の理法》を 《主体なき過程》としての一般的な必然性のもとにのみ 捉えるときには――たしかにそれが 経験合理性一般にもとづいていると見られると同時に――それは いわゆる《認識論的切断》をまだ 途中までしかおこなっていないのではないかと われわれには疑われる。《個としての〔有限だが〕自由な意志によるそれとしての自由な変身にしろ あるいはまた 強制的変身にしろ その個人としての行為(従って 後者のばあいには 個としての必然性)》を 認めない場合には 《認識論的断絶》にまで到っていないのではないかというのが 率直な感想である。個の意志による自由な選択(その意味での主体性) これを認めないときこそ 認識論が いわば宙に浮くかたちになるのではないか。その意味では(つまりメタ言語による言説として 宙に浮くようなかたちとなる意味では) 具体現象からの《切断》は 実際になされている。しかも 認識論を敢行する人(つまり主体)からの断絶は むしろなされておらず 逆にいえばそのとき 《主体なき過程》をまだ 捉えきっていないことになる。われわれのほうは 逆に この《主体なき過程》の内容として 《人間主体にとっての〈主体なき過程〉》という意味では 非経験とのかかわりたる信仰内容をも 表現上 含ませようとしている。信仰の特殊な部分の内容をも 表現上与えようとしている。けれども この具体的な立ち場ということにかんしては 各自 自由であると思われる。だとすれば 《主体なき過程》をとらえる認識論の主体である人びとも 自己それぞれの具体的な・けっきょく信仰の立ち場を それとして 明示すべきだと考えられる。そこから あらためて話し合いが進められていくことになるだろう。そうでないと その認識論は まだ宙に浮いていて(一種の神秘を語る《異言》の如きありかたにとどまり) なかなか一般的な話し合いの場には そのままでは 立ちがたいと思われるのである。
もし認識論的断絶に立つならば 個〔の関係〕としての現実一般的な不可避性・必然性をも その《これから実現されるべき実践》のなかに 取り入れていると思う。それぞれ個として自己のおかれたいわゆるのっぴきならない情況(交通関係)から――つまり 《いま・ここなるわたし》から―― 出発していると思われる。そのとき この人(いま・ここなる我れ)は 《主体なき過程》のなかの一人間主体であるだろう。いま述べてきたキリスト信仰の内容は 信仰一般の中で その一例にすぎないと言わなければならないかもしれない。これまでの歴史上 まだ ほかには出ていないとわたしには 考えられた。
(43)一つの確認事項として 宗教儀礼における 呪わしきものが聖なるものへと観念的に変身したそれの内面化は やはり大きくいわゆる二元論の思想に属すると思われる。単純には イエスに聖性をあずけ みづからは俗にとどまり その聖俗二元論による均衡をもって 自己が誕生したという信仰(信念)だと思われる。しかも イエスに聖性をあずけるのは ほかならぬ自己であり じっさいには その自己は 聖性の観念の保持者として 言わず語らずに 君臨しているとうそぶいていることになる。
人間界というべき《俗》の領域では――つまり経験領域では その思考と欲望とにとって当然のごとく―― さらにその中に《聖 / 俗 あるいは 善 / 悪》が 同時にひとりの人間において おさめられつつ 均衡するというものである。すなわち その均衡が破れたばあいには 誰か犠牲つまり第三項をさがして来て これを排除することによって 均衡を回復するということであるらしい。この経験思考――つまり基本的には 理性的に・もしくは 天才的に感情によって振る舞いつつ 結果的に理性的に おこなわれるようであり――にもとづく内面心理は その《同志》を集めて 共同化されていく。そこでは 犠牲として排除された第三項をも 聖性のもとに 受容し内面化しているとすれば これは 儀礼制度とよばれうる。礼にのっとり 善悪・聖俗の均衡心理の《和を以って 貴しと為す》。この《和》を乱すものは もちろん 第三項へと追いやられるという寸法である。
われわれは 信仰において 歴史的に現実的に この第三項排除効果という現象の終焉を見ている。これが なぜ 十字架上の死という手段が採られたこととかかわるのか その特殊性の説明に もう一章をあてたい。――なお このようにまで・そのようにまで 考える必要はないだろうと見る人は 自力による強い人であり 《善人》であると思う。そういう人びともいるかもしれないし 一般にそのような人びとは われわれの味方だと思われる。話し合いにおいて説明をしなければならないという時には 妥当な表現の展開が必要である。十字架上の死という手段をとるという行動そのものによる理論表現は そのような行動をとることにおいて 認識論的断絶が 敢行されたのだと考える。 
(つづく→[えんけいりぢおん](第二十三章a−第三項論つづき) - caguirofie041210)