―第二十章 パウロ・3
目次→2004-11-28 - caguirofie041128
([えんけいりぢおん](第十九章−パウロ・2) - caguirofie041204よりのつづきです。)
第二十章 パウロの信仰動態
この世に対してすでに勝利している
パウロの文章をわたしは勝手に解釈していることになるが さらにこれを進めておこうと思う。
たとえば次のような一節で 《苦しみ》の問題に触れられているのを見出す。これにかんして あらかじめまず 基本的に自己の歩みの過程で 抽象的にいえば その誕生を妨げる声の誘惑として その試練はなくならないのであるが そのことじたいは ヨブの物語で やはり基本的に 論じた。簡単に言って その声は 精神のものではなく また身体の感性にかかわっているがその身体のものでも必ずしもなく 外から来る心理上の現象だととらえることを 第一とした。そしていまは その観点からの問題ではなく すでに第二の恩恵の実現へ 自己としても歩を進めるときの姿勢の問題としてある。これを言い換えるなら すでに論点としてもわれわれが持ちつつあるように 問題を 《苦しみ》のことからのみ捉えることを――むしろパウロ自身の表現に従って――転換したいという考えである。あるいはつまり 《現在の苦しみから将来の栄光へ》という方向での 苦しみについての捉え方・語り方 これを もはやわれわれの祈りにおいて うしろにあるものとし そのあとさらに 前にあるものへ手をさし伸べるという方向で 受け取っていきたいという考えである。
現在の苦しみは 将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると 取るに足りないとわたしは 思います。被造物は 神の子たちの現われるのを待ち望んでいます。被造物は虚無の力に服していますが それは 自分の意志によるものではなく そうさせたかたの意志によるものであり 同時に希望を持っています。
- 虚無の力に服さざるを得ない状態になったのは 人間じしんの意志の自由な選択による行ないの結果だと考えられる。これを いわゆる罰したというのは そうさせた方の意志による。罰の現われることを通じて 自由意志の選択を促す。細かい話しとしては (a)経験領域における経験行為の因果連関がわかる場合と ( b)そうでなく この(a)の事態が あたかも非経験の領域と接触するといった側面が考えられる。つまりこの(b)の側面で たしかに因果応報として現われたと見られる場合もあれば そうではないと思われる場合・あるいは 応報であるかどうか分からない場合もあるかと考えられる。というよりも これら(a)(b)両方の要因が 同時に想定されると思われるのである。この意味で 《そうさせたかたの意志による》といった表現を得る。
- すなわち 経験思考で考えても 《自己が自己である》存在にもとづくなら その自由意志=主体性は その自己の存在性(つまりは 意志内容としてほんとうに望むところ)に反するおこないも 自由に持ったのであり これに対して あたかも経験論法では 自らがその自らを罰しているというのが 必然のことではないかと考えられる。このかぎりで われわれ人間は 新しい第二の誕生を思考するようにも 出来ているのだと。
- このことは 表現上 この自己を造り・生み さらに自由意志による自己への背反に対しては 自己による自己の処罰をもなすようにさせた非経験のちからは なおもその人に対して《希望》をも持たせている。そして この自己への背反・自己欺瞞に対するあたかも自己処罰といった経験論法での表現は 信仰にかんして 次のように表現し直される。
だから言っておく。人が犯す罪や冒涜は どんなものでも許されるが 聖霊(つまり真理に対する自己の関係〔としての主観真実〕)に対する冒涜は 許されない。〈人の子〉(人の貌としてはイエス・キリスト)に言い逆らう者もゆるされるが 聖霊に言い逆らう者は この世でも後の世でも 許されることがない。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書 12:31−32)被造物も いつか滅びの奴隷状態から解放されて 神の子どもたちの光栄ある自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで ともにうめき ともに産みの苦しみを味わっていることを わたしたちは知っています。被造物だけでなく 聖霊の初穂をいただいているわたしたちも 神の子とされること つまり 体のあがなわれることを 心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は真の希望ではありません。見えるものを誰が希望するでしょうか。わたしたちは 目に見えないものを希望している以上 忍耐して待ち望むのです。
( ローマ人への手紙〈1〉 (コンパクト聖書注解) 8:18−25)
初めに述べた転換――《現在の苦しみから将来の栄光へ》という方向の逆転――をここに捉えたい。いますでに《忍耐して待ち望》んでいる以上 この希望が実現されることを すでにわれわれは この今 信じている。《恩恵のうえに恩恵が与えられた》と信じている。この希望を持っている信仰とその愛じたいは いま現在のものなのである。この今げんざいの自己の姿に 《現在の苦しみ》があると同時に 《将来の栄光》が いうとすれば かすかに見えているということになろう。すなわち この《将来の栄光》=第二の恩恵は 信仰としては いま・ここなるわたしに すでに実現されている。と言っていい。従って この希望あるいはそれにかんする祈り(表現の尋究)に立って すでに第二の恩恵の側から 自らの存在とそれにかんする・まだわれわれには必ずしも明らかには知られていない仕組みとそのはたらき(つまり神)を愛し どこまでもこれを愛し――この愛を持続させ―― 経験領域に向かって人との関係の場に 話し合いの言葉を表現していくことができる。あまりにも単純すぎると思われるかもしれないが。
このことが 《忍耐して待ち望むのです》ということと同じ内容としての時間過程なのだと考える。言い換えるとそれは 《現在の苦しみ》に対して あたかもその悲惨を愛するというようにして 勇敢にも耐えることではないと考える。試練や心の中のうめきが 決してなくならないとしてもである。
同様に 聖霊(われわれの存在の仕組みとそのはたらき)も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどのように祈ったらよいのか知りませんが 聖霊ご自身が 言葉に言い表わせないうめきをもって執り成してくださいます。人の心を見抜くかたは 聖霊の思いが何であるかを知っておられます。
- 神が ここでは その位格として 《人の心を見抜く方》と《聖霊》との二つに分けて 表現の問題として 語られている。のちに触れられる《み子》すなわちキリスト・イエスも 同じ神の もう一つの位格として 説明される。
聖霊は 神のみ心に従って 聖なる人たちのために執り成されるからです。
- すべては 経験存在たるわれわれおのおのと非経験のはたらきとの関係である。表現上ヤハウェーがそのようにさらに詳しく分析的に説明されている。
ご自分を愛する人びと つまり ご計画に従って召された人びとに対しては 神が万事が益となるようにおはたらきになるということを わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた人びとを み子の姿に似たものにしようと予定されました。それは み子が多くの兄弟の中で長子となるためです。神はこの予定された人を召し出し そして 召し出した人を正しい者とし 正しいとされた者に栄光をお与えになったのです。
(ローマ人への手紙〈1〉 (コンパクト聖書注解) 承前8:26−30)
この部分は きわめて特殊な主観真実の領域である。ただし 《予定》にかんして その対象が 特殊性にとどまるものではないことは 確認しておくことができる。
神は すべての人びとが救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
(パウロ(?)テモテ前書2:4;
牧会書簡―テモテへの第一の手紙 テモテへの第二の手紙 テトスへの手紙)
あたかも自己処罰の結果 われわれは《虚無の力に服さざるをえなくなっている》としても そこに《希望》が絶えたわけではないとするなら それは 存在思想の一般性に立ったふつうの議論である。わづかにこの《予定 / ご計画》という表現は 自己の誕生を見る人びとのあいだに 時間的なあとさきがあることをいうのみである。
同じく《予定》にかんして それが いわゆる予定調和説としての特殊性でないことも 確認しておける。なぜなら 非経験の領域にかんして 《予定》という表現を用いたとしても われわれが経験思考でそのことがわかるということは ありえず このテモテ前書の引用文にもとづくなら それは 信じた者への《励まし》のことば程度のものと解される。特殊性は その励ましとしての予定の到達点が 《み子キリスト・イエスに似たものになる》という第二の恩恵のことだと思われる。しかも この特殊性は 時間過程の問題であり 矛盾すべき特殊性ではない。また もはや信仰のことはすべて放っておいて あとは 経験領域での活動に専念すればよいという意味での予定調和にはならない。――いま現在の情況で キリスト者が キリスト信仰ではない存在思想に立つ信仰者と その信仰の具体的なあり方として 区別されるという意味での《予定》であるにすぎない。けれども このことは その時どきの時点での情況としては 非キリスト者から見ても・またはその非キリスト者の信仰と存在思想との内容にかんして見ても 類型的に同じことであるだろう。――どちらが先に誕生を得たか その誕生はほんものであるか こういった問題にすぎない。このキリスト信仰が 自己の信仰と違っていると言う人は その人自身の《予定》の問題を捉えていることになる。
類型的に見れば すべての人が 同じ信仰の形態を持って時間過程的に 歩んでいるものと思われる。聖書の表現は 一定の立ち場に立って そのことばも特殊であるが 基本出発点としては 一般的な内容をもったものである。
キリスト・イエスをわれわれの長子としてという特殊性
もう少し細かい議論に入るとするなら まず 《前もって知っておられた / ご計画》ということも 表現の問題である。この真理=神が 父なる神 / 子なる神 / 聖霊なる神の三つの位格にして一体(つまり唯だ一つの真理)であると説く部分が 特殊である。《聖霊》が 自己生誕なる第一の恩恵や将来の栄光たる第二の恩恵へと うめき苦しむわれわれを 父なる神に《執り成す》というのも 表現の問題で処理できる。すべては 真理とわれわれとの それぞれ個人としての関係の問題であるから。ということは 少なくともここでは 信仰する者がその現実経験の過程で話し合いや生活をすすめる上で 愛と祈りとをはたらかせようとするとき その祈りの行為が やはり神〔との関係〕という想定のもとに 《聖霊なる神が父なる神に執り成す》といった表現で 説明されるというのにすぎない。
われわれが そのうめきをも持って祈るとき 《執り成し》がありうると表現するのは 子なる神キリスト・イエスが 確かに《〔そのことばが〕 肉となった》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書1:14)というドグマにかんけいする。つまり――このドグマはもちろん一般性に立つ特殊性であるが―― み子キリスト・イエスが人間でもあることは われわれ人間が 《虚無の力に服する》状態にのみとどまるのではないことを 主観真実の限りで 言おうとしている。けれども これも 表現の問題として処理しうる。なぜなら 存在思想一般においても その自己存在の実現にかんして 決して悲観的でなく 絶望してもいないとすれば やはり類型的には同じ内容を語ろうとするにすぎないから。わざわざ神なる真理が 三つの位格としても示されうると説くことのみ 表現上 特殊というに尽きる。存在思想一般が その探求者じしんにおいて 思索し努力を積み重ねるという〔従って実際には 祈り一般も そこに含まれるはずの〕過程を 《われわれは霊と理性とで祈る / またこの時 聖霊なる位格が 父なる位格に この祈りを〈言葉に言い表わせないうめきを持って執り成す〉》と 表現している。表現形態を別にすれば まったく同じこと(一般的)である。
また三つの位格が一体であるしかないのだから 聖霊が父に執り成すことは 一体なる真理の神じしんの内に あたかもそのようなことがおこなわれると 表現するにすぎない。さらにまた この時 子の位格が どこかに行っていて かかわらないということも ありえない。すべては 祈る人と非経験の領域とのかかわりの問題を あたかも おとぎ話のように 表現し説明しようとしている。自己の誕生にかんする表現に 存在せしめる神ヤハウェーを ことばとして 用いたところから・すなわち そのような表現上の想定から 出発している結果である。
要は その《執り成し》が 《み子が多くの兄弟の中でその長子となるため》だということにある。ここには 一般性と特殊性とが 混在している。すなわち み子たるキリスト(=非経験)・イエス(=経験)が われわれの長子であるということは 存在思想によってその自己存在の実現をいうとき 一般的にも そのことにわれわれが 悲観しないことを表わしている。この一般性のもとに 《イエスなる一人の歴史的人物を 長子とする》というところが 特殊性である。
- 特殊性についての説明は この書物全体での課題である。これからは あとに残った三つの章の議論とともに この特殊性が 一つの具体的な立ち場なのだということ そして経験論法では それ以上でも以下でもないということ このような説明になると思われる。第十七章でも論じたと考える。
それでは これらのことについてなんと言ったらよいでしょう。もし神がわたしたちの味方であるならば(=われわれが 決して悲観主義に陥らないのならば) 誰がわたしたちに敵対できるでしょう。
- つまり 当然のことである。
わたしたちはすべてのために そのみ子をさえ惜しまず死に渡されたかたは み子といっしょにすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
- われわれが一般的に 自己の自由意志によって 自己に背むき はじめのおのおのの自己同一性そのものによって この自己背反者である自己を その自らが 処罰したというように表現するときにも この《虚無の力に服する》状態にあっても われわれはこの虚無を克服する希望を捨てていない。――われわれのほうの特殊性は この虚無およびその力の克服が完全に実現する第二の恩恵をも見ていると言い張るところにある。
誰が神に選ばれた人たちを訴えるでしょう。だれもできません。
- これも 表現上 信仰内容の自同律に属する。と同時に 一般的に 信教の自由を表わしている。
人を正しい者とするのは神だからです。
- これは 人間の有限性・受動性を表わす。きわめて一般的な内容である。
誰が罪に定めることができるでしょう。誰もできません。
- 一般的には 自己への背反が 自己によって処罰されるのが基本であり 誰も人を罪に定め 基本存在ないし単純にその生存にかんして 人を処罰することは 不可能である。または 人間のあいだで その自由意志によって取り決めあった上で その法律にもとづき 処罰がありえている。
というのは 死んだかた いな むしろ 復活させられたかたであるキリスト・イエスが 神の右に坐っていて わたしたちのために 執り成してくださるからです。
何が キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。
- 依然として 表現上 自同律である。わづかに その信仰が わたしにとって 事件として始まっているかどうかで 実際問題が ちがう。
艱難でしょうか。苦しみでしょうか。迫害でしょうか。飢えでしょうか。裸でしょうか。危険でしょうか。剣でしょうか。
- これは 実際問題として 《励まし》のことばである。ただし 試練やその経験現実の過程における因果律が われわれの存在そのものではないことを明らかにして たとえば《この世に倣うな(つまり そもそもこの世に同化しえない)》ことを示し 一般にも経験思想を超えて 存在基本の 究極の《励まし》となっている。
聖書に
わたしたちは あなたのために一日中 死に渡され
屠られる羊のように見られている。
(旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1) 44:22)と書いてあるとおりです。
- ここで 再び《苦しみ》の問題となった。
しかし わたしたちは これらすべてのことにおいて 愛してくださるかたによって輝かしい勝利を博しています。わたしは確信しています。死も 生命も 天使も 支配するものも 現在のものも 未来のものも 力あるものも 高い所にいるものも 低い所にいるものも 他のどんな被造物も わたしたちの主キリスト・イエスによって示された 神の愛から わたしたちを引き離すことはできないのです。
- この箇所について 次に考えよう。
(ローマ人への手紙〈1〉 (コンパクト聖書注解) 承前8:31−39)
最後の箇所は まず 《励まし》のことばである。本文の中に触れたように 世の中のふつうの励ましだけではなく 信仰とその持続にかんする自己存在についての 究極のそれであると思われる。《究極の》というのは 自同律として循環して やはり信仰のことに行き着く。《信じなさい》 つまり話し合いの過程としては 《信じさせなさい》 これである。つまり 《ともに自己が自己であるように しなさい》。
実際に《輝かしい勝利を博している》かどうか それは ここでは 《苦しみ》とも言っているのであるから 経験的な因果過程において その勝利や栄光を手にしているかどうかは むしろ 言い及んでいない。従って この時 《信じない》という自由な選択をとるか それとも《受け容れよう / 信じる》というそれを採るか それが 一つの時点で 人によって分かれるものと思われる。キリスト・イエスにおいて(すなわち特に キリスト=神の貌において) またはキリスト・イエスをとおして(とくには イエス=人間の貌をとおして) 自己の誕生を むしろうめきと真剣な探求心とをもって求めている者が そこに 《真理がすべてにおいてすべてとなる》第二の恩恵=神の愛を見るかどうか これを見る人は もはやその神の愛から引き離されることはないと パウロは語っている。単純な激励であると同時に 究極の信仰だと思われる。――この決断は――賭けでもあるが――それを徹底させればさせるほど それ自身の間違いがあるなら そのことに 容易に気づくことになると思われる。従って 重荷でも 危険でも ないと考えられる。
しかもわれわれは この現在の苦しみから将来の栄光へという方向において 信仰や一般日常のことがらを捉えたり語ったりするのでは必ずしもなく そうではなく 逆の方向で ごく普通に話し合いを敢行していくことができると思う。《わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から わたしたちを引き離すことは 何ものも できない》とすれば この《引き離されえない》信仰と愛とそして祈りとをつうじて 社会一般としての教会(社会じたいが教会)の中へ入り 進んでいくことができる。
《わたしたちは あなたのために――義の奴隷となって―― 一日中 死に渡され / 屠られる羊のように見られている》とき この社会そのものとしての教会の中で 信仰が直接にではなく 間接的にはたらくという形態をも採って すべての人の奴隷になってのように・すべての人とそれぞれ同じようになって 自己の存在現実を 自由に堂々と示しつつ 歩み進んでいくことができる。《十字架上に死んだかた いな むしろ 復活させられたかたであるキリスト・イエスが 神の右に坐っていて わたしたちのために執り成してくださるからです》というわれわれの紛れもない幻想である。幻想であることが まぎれもないと同時に この信仰と愛とが 自己の自己であることにとって まぎれもない現実であると思うからである。
また 余計なことを付け加えるとすれば この主観現実は 一人ひとりのキリスト者を得て また立ち場はちがっても同じ存在思想の系譜に立つ人びとを得て 人類社会の中で歴史的に 表現の展開として 進展していく。すなわち どこまでも 話し合いの過程である。
(つづく→[えんけいりぢおん](第二十一章−排除された第三項) - caguirofie041206)