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哲学いろいろ

第十章 存在と時間

目次→2004-11-28 - caguirofie041128

[えんけいりぢおん](第九章−ハイデガー) - caguirofie041112よりの続きです。)

第十章 つづいて ほんの少し《存在と時間

これまでの議論に基づいて ハイデガーの思想には できるだけ簡単に触れることにしたいと思います。
その著書《存在と時間》を最初に自己紹介した文章の中では 次のように語られている。

《存在》〔これはむしろ《非経験ないしそれと経験存在たる人間との関係のことだと考えられる――引用者〕の意味への問いを具体的に仕上げるのが 以下の論文の意図なのです。すべての存在了解が可能になる視界としての時間を解明することが この論文のさしあたっての目標なのです。
存在と時間 上 (岩波文庫 青 651-1) まえがき 桑木務訳)

《時間》は 現実世界のことであるから それをも解明するというこの哲学思想は 存在思想の系譜を いわゆる迂回してのように 側面から吟味してみようということだと解せられる。あるいは あらかじめ言うとすれば 《存在》を《了解》するという捉え方(そこに自己が位置する構図)じたいが 迂回する《哲学》の領域での表現だと考えられる。哲学としての表現というものは 判断(つまり自己の誕生にかんする)のための前提をなすということであり 思考としてのその資料提出のことである。
そして ここでもあらためて確認すべきことは そのこと=《時間を解明すること》によって 《すべての存在了解が可能になる視界》が開かれたとしても――つまり 哲学的な・側面からの思想研究として・われわれの最終的な判断のための資料提出として それが目指されているというとき これを実現したとしても―― 《わたし》の誕生は そこで得られるかどうか これは 何とも判断しがたい。問題は 現実世界で自己がどのような情況に置かれているか それをどう扱い判断処理するかにあって そのような現実の思索をしている人が このハイデガーなり誰なりの思想に接して 《わたしは生まれた》という時を持つに至ることは したがって あり得るわけである。哲学が きっかけになりうる。
言いかえると このつてでは すべての言語表現〔なり自然や社会の現象の一つひとつ自体〕が 自己との関係で 自己の誕生の契機となりうる。《時間》の問題であるからには そう言える。これが――いま えらそうに言えば―― 《時間》の解明されたすがたである。つまりたとえば ニーチェの思想は 明らかに言って限界があるとわたしは考えるが それでも かれの思想に接して むしろそうだとすれば一つの反面教師としてでも 別様に 自己の誕生の時を迎える人が いても おかしくはない。話し合いの持続過程――つまり時間――は このような要因を秘めている。
この意味で 《時間》は 《わたし》自身の問題でしかない。第二の誕生のとき以前の状態にある場合にも 同じことだと思われる。わたしたちの言うこの《ヤハウェー》思想としての第二の誕生も 内容が まちがったものであるかも知れないのだから。
このような見方で 一般に現代思想にも接していくことができる。また この《えんけいりぢおん》では このような基本の見方でのみ 取り扱うというのが 基調である。
もう少し ハイデガーに かれとの話し合いの時間を 割くべきであろう。


ハイデガーは次のように述べて われわれの思想における《誕生=単一・前進》の説をとらえていると思われる。すでに引用文の中に われわれの見解も挿入するかたちを採りたい。

存在の意味の解釈が課題となるばあい

  • 〔であるにしても すなわち われわれにとっては 《意味》はすでに 誕生した我れとその持続過程にあるからには 哲学の課題として 《存在》(むしろ《非経験》)の意味の解釈は 二の次である としても〕

現存在(《わたし》)は 第一次に問いかけられるべき存在するもの(つまりこの全体でやはり《わたし》)であるに止まりません。現存在はさらに この問いにおいて問われているところのものへと 自分の存在においてかかわっている存在するものです。

  • (すなわち むしろ別様に言えば 現実世界=また他者との関係が あくまで基礎となるということ。言いかえると 《非経験》〔われわれとしては《存在せしめる者=神》と表現する〕としての《存在》にしても それは 認識対象かつ到達目標として目指すべき対象実体のごとく立てて つまりそれを概念としてすら立てて 人が 詮索するものだとは 考えられないということ。従って じつは これを 《問われているところのもの》であるとも 必ずしもわれわれは 認識していない。強いて表現するなら あたかもこの《非経験》のほうから われわれに語りかけてくる関係にあるとでも 言うことになる。 その意味あいで 上の文章は 首肯できる。そしてただし そう言うときには 事を表現の問題(経験思考の領域)に限るという設定を どこか逸脱して 思考経験を超える非経験の領域(神)への信仰に 踏み入っている。)

しかしそのときは 存在の問題は 現存在自身に属している本質的な存在傾向 すなわち存在論以前の了解の徹底化にほかなりません。
存在と時間 上 (岩波文庫 青 651-1) 序説・1・4)

最後の一文については すでにわれわれは その出発点のありかたとして――《存在の問い/存在了解》といった構えを 基本的に持たないゆえ―― それとは ちがって来ているが その言おうとするところは 《存在論以前の存在了解の徹底化》という認識にしたがえば われわれの新しい誕生の瞬間とその自己の持続過程とは なお どこまでも おのおのの主観真実であるにすぎないということであろう。すべては 相対的なことに属するのだと。この意味では ハイデガーのばあい《信仰》問題を 経験科学的に扱おうとする内容を 実質的に・また結果的に 持っているとも思われる。
そして そうだとすれば 確かに 《存在了解一般が可能になる視界》を哲学によって究明することは 必要かつ有益であることになる。また なるのだが しかもこのことは われわれにとっては 第二次的だと考えるということでもあった。――このような意味合いのもとに ハイデガーの存在探求としての思想は われわれの存在思想の系譜に 関係してくると思われる。
この点で もう少し引用を――評注つきで――かかげておこうと考える。

現存在(《わたし》)は いつも自分みずからを その実存(具体的な立ち場をとっている《わたし》)から 換言すれば 自分みずからであるのか あるいは自分みずからでないかの いずれかの 自分みずからの可能性から了解しています。

  • (実際問題として 当然だと思われる。また まさに《誕生=自己到来》の問題だと考えられる。)

現存在は このどちらかの可能性を みずから選んだのか あるいは 現存在がその可能性のなかに這入りこんだのか あるいは すでにそのなかで成長しているのか いずれかです。

  • (まことにそのとおりだと思われる)

実存は 自分をつかむか・つかまぬかにしろ そのつど現存在自身だけによって決定されます。

  • (さらにこのとおりだ。この認識・判断としての《決定》によってすべて自己の行動を律することは 難しいはずだが そうだとしても その判断までは 決定しうる。)

実存の問題は いつもただ実存すること自体によってだけ 処理されねばなりません。・・・〔このような事態のもとでの〕現存在(わたし)の実存論的な分析論(わたしであるのか・ないのか)という課題は その可能性と必然性とについて 現存在の存在的な構えのなかで(――すなわち これに従えば 《わたしとは何であるのか》の基本出発点のありかたのなかで――) 見取り図が描かれています。

  • (第二の誕生のあと 闘い=話し合いの過程では 実際問題として このように分析されるかと思われる。現実関係すなわち他の真実・他の思想に 全面的に直面しているからには その意味で実際には 思索と選択とが おこなわれている。たとえば ニーチェの思想との異同を明らかにすることも 《見取り図》である。)

 さてしかしながら

  • (と ひるがえって かれハイデガーがここで言おうとすることは われわれの側からいわば誕生論という第一次的な問題にかんする補助科学としての哲学にとっては 《存在の意味》を根本的に問い直すことから 出発すべきであるということのようである。)

この存在するもの(わたし)の存在構造の分析は いつもすでに実存性(具体的なわたし)へ予め眺めやることを必要とします。

  • (あらためて このことは 大事だと思われる。個として・あるいは個からしか われわれは出発しないであろうということ。)

ところでわたしたちは 実存性を 実存している存在するものの存在構えとして理解しています。

  • (具体的な《いま・ここなるわたし》が そもそも 初めの出発点たるわたしの問題であり そのほかの形態ではありえないということ。)

しかしこのような存在構えの理念(この《理念》については 疑問がある。次の場合も同じ。)のなかには すでに存在の理念が含まれています。それゆえ 現存在の分析論をおこなう可能性もまた およそ存在なる意味への問いの まえもっての検討にかかっているのです。
存在と時間 上 (岩波文庫 青 651-1) 序説・1・4)

すなわち結局 哲学の立ち場から 存在=誕生に ある理念をとらえている場合には このような議論になるものと思われる。《さてしかしながら》のあとに注釈をほどこしたとおりだと考える。
この結果 いまの《序説》のさいごに《論究の構図》と題して 次のように語る。

存在の意味への問いは 最も普遍的で最も空虚です。しかし同時にそのなかには それぞれの現存在への固有の最も鋭い単純化の可能性が含まれています。《存在》という根本概念の獲得と それによって促された存在論的な概念化ならびに その必然的な変転の略図は 具体的な手引きを必要とします。・・・
存在と時間 上 (岩波文庫 青 651-1) 序説・1・4)

誇っていうとすれば これは すでにわれわれがたどって来たところである。誕生においてすでに《現存在の固有の単純化〔の可能性〕》から出発しているということだ。その出発点に立って(出発点じたいの自己動態として) このハイデガーの思索を読むなら 必要で有益な概念整理が得られるものと思われる。われわれはすでにそう言ってよいと思う。
一般的にいって 側面からの迂回思考たる哲学は 道草を踏むようなものである。道草(chemin de l'écolier / l'école buissonière)が必要かつ有益であるだけでなく そこにこそ学ぶべきものがあるという議論に われわれは 反対しない。むしろあらゆる事柄が――存在問題として=すなわち 表現かつ時間の問題であるというからには―― 自己にとってその誕生の契機となると考えた。
《存在の意味への問いは――そして自己の誕生せる存在にかんする表現は―― 最も普遍的で最も空虚です》ととらえておくべきだと思われる。《超人》なる存在思想は この《空虚》の部分を無にするかに見える。非経験へと自己を開かないようにさせかねない。ハイデガーの思想は 総じて 中立的だと思われた。わたしは――このわたしは―― あたかもその道草の謙遜を通り超えて われわれの基本出発点にかんして えんけいりぢおんなる《手引き》を書こうとしている。
ハイデガーの所説の中で 《存在の意味への問い》にかんしては つづいても視野の中に保ち のちのちには 《信仰》を表現上も直接に扱うところで 間接的にせよ 触れることができると思われる。あとは 哲学として また哲学をこえようとする探求として その意味でハイデガーの思想は 有益であると思われた。ほとんど同じような読みとしての叙述がつづくことになると思われるので ここで打ち切ることとする。
(つづく→[えんけいりぢおん](第十一章−アブラハム) - caguirofie041121)