caguirofie

哲学いろいろ

ヤスパース

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0 ヤスパースは 後期となると コメントしづらいですね。極みを突いていたと思ったら あとは理知的な世界へ足を踏み入れてゆくようなのですね。

1 ▲ 中山剛史:後期ヤスパース哲学における「包括者論」の倫理的・実践的意義 ―「存在意識の変革」との連関において―

2 (わたしがわたしであること:自己還帰 p.140 ) 
▲ 超在(☆ 要するに神)との連繋における実存の自己生成は,「実存的自由」の確信において,唯一無二の「実存」としての自己存在が己れを超えた不可知(☆ または 非知)のものから「贈られる(geschenkt werden)」ことを自覚することに呼応して生起する

3 ☆ われは ふと――《ふと》である――われに返り わたしという自己に到来し 《わたしはわたしである》という自己還帰を果たす。

 

4 ☆ ところが この《わたし》は 人間性としての知性が重要視されるに到る。

5 ☆ 主知主義ではないようなのだが・・・。
▲ ( p.140 ) 前期の『哲学』では,本来的な自己存在としての「実存」と本来的な存在としての「超在」との根源的な連繋が実存的・形而上的な内実を伴いつつ問題とされていたが,後期の包括者論では,真の「存在」そのものである「包括者」は,「哲学的根本操作(philosophische Grundoperation)」という文脈において,かなり抽象的・形式的に展開されているような印象が強い。

6 ☆ 《操作》は 知性の操作ではなくましてや実存の操作ではないのだが 知性のあり方を今一度顧みて 何らかの思惟の操作があるという。
▲ ( p.142 ) 〈主観―客観―分裂〉の只中にあるわれわれが,プロティノスのような「神秘的合一」によるのではなく,こうした主―客を超え包む「包括者」を通常の対象認識とは異なる仕方で内的に「覚知(innewerden)」するためには,われわれは対象認識への「囚われ」から自らを解き放つ「哲学的根本操作」という独特の思惟操作を遂行しなければならない,ということ

7 ☆ 「包括者」の探求から,「われわれに現前する諸々の空間」としての「包括者の諸様態」の確証へと言う。
▲ ( p.142 ) ①「存在そのもの」としての一なる「包括者」を探求しようとすると,むしろ ②多次元的で多層的な「包括者の諸様態」,すなわち「そのうちで真理と存在とがわれわれに現前する諸々の空間」(PA, 87f.)を見出さざるをえないのである。ここでわれわれは,一なる「存在」としての「包括者」の探求というモチーフから,「われわれに現前する諸々の空間」としての「包括者の諸様態」の確証という多次元的なモチーフに頭を切り替えなければならないだろう。

8 ☆ 包括者の諸様態にあっては 包括者から暗号――と呼ばれたところのメール――が来るのだと言う。
▲ ( p.143 ) ~~~
〔「包括者の諸様態」は・・・〕「現存在(Dasein)」,「意識一般(Bewusstseinüberhaupt)」,「精神(Geist)」および「実存(Existenz)」に分かたれる。

「現存在」は,内界と環境世界からなる生きた全体であり,われわれが何かを実在的に感じとることができるための生命的な空間である。

「意識一般」は普遍妥当的で客観的な対象認識が成り立つための包括的な意識の空間であり,

「精神」はわれわれが「理念」の全体性のうちでみずからを見出す精神的な空間である。

ヤスパースによると,こうした内在的な包括者の諸様態に対して,私が「自由」のうちで自己自身に贈与されることによって本来的な私自身になることができる自己存在の根源の場所が「実存」にほかならず,こうした「実存」の次元において初めて,本来的な存在としての「超在」の言葉である「暗号(Chiffre)」が聴取可能になるのである。
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9 ☆ われわれの立ち場は このメールはいっさいの《操作》無しに授かると言うのだが・・・。
▲ ( p.159 ) ~~~
超在と連繋する「実存(Existenz)」の唯一・一回的な深さとあらゆる包括者の諸様態に開かれた「理性(Vernunft)」の無限な広さというヤスパース哲学における「両極性」

これをヤスパース哲学の前期から後期への発展過程と重ね合わせると,それは「実存(Existenz)」の深さから「理性(Vernunft)」の広さへの力点の変化に対応するもの
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☆ というところに わたしは窮屈さを感じてしまいました。

 

 

★ 無への帰還

☆ それは 《あは! Ah! Oh!》と発することを通じて得られます。

 

お怒りにならないで 回答のひとつに加えてください。

 

世界のものごとについて《あは‐れ(すなわち 天晴れ・または哀れ)》を知ることをとおしてです。

 

言いかえると 或る日或る時《エポケー》を成すこと〔を促されること〕です。判断停止ですが 中止してしまうのではなく中断としたほうがよいと思います。つまり そのときには 《あは! Ah! Oh!》と発しているはずです。

 

さらにつまり 有る無しを超えた無への帰還であり それゆえただの感嘆のことばを発するのみとなるのだと思います。

 

 

条件は要らないというふうに捉えています。ただその時のわれそのままにてです。

根拠は 有るか無いか分からないのですがこのばあい思い切って 根拠無しでよいのだと思います。

 

すべては 世界の大いなる自然史過程が差配してくれます。または 神の――霊性としての・つまり何が何だか分からないかたちでの――ハタラキによるものなのでしょう。

 

釈尊というひとは 無我(アン‐アートマン)説つまり無仏説つまり《〈無いブッダ〉というブッダ》説に立ちますから オシへないし知性・知恵をひとつの鍵語とする基本姿勢を採っており 伝えるものは 知恵の具体的な実践そのものかまたは比喩として語ったかたちの実践であり つまりはその場合の境地こそそれなのだと思われます。