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哲学いろいろ

第十一章 アブラハム

目次→2004-11-28 - caguirofie041128

[えんけいりぢおん](第十章−《存在と時間》) - caguirofie041120よりの続きです。)

第十一章 アブラハム

さて われわれの存在思想の系譜において いわゆるダヴィデの《詩篇》以前にも遡って これを見てみようと思う。
アブラム――のちのアブラハム―― この人にも かのノアの洪水のあと時を経て われわれの誕生の思想が 起こっている。

時に主(ヤハウェー・神)はアブラムに言われた。

あなたは国を出て 親族に別れ 父の家を離れ 
わたしが示す地に行きなさい。
・・・

アブラムは 主が言われたように出で立った。
旧約聖書 創世記 (岩波文庫) 12:1−4)

ある意味で――ノアやあるいは始祖とされるアダムとエワを別とするべく ある意味で―― すべては ここから始まったのだと考えられる。表現が与えられたということに限れば そうなのだと思われる。

  • 必ずしも史実をうんぬんするわけではなく この見方に従えば つぎのごとく考えられる。このアブラハムの誕生の時から 歴史をさかのぼって その祖先(アダムら)の生のありかたを――経験論法でいえば――想像し思索して捉えることとなった。その結果 アダムらの物語が むしろあとから やはり表現として得られたのではないかという憶測である。

《〈行け〉と言われたので 行った》 これだけである。
アブラムにとって 《行け》という声を聞いたことに むしろかれの《わたし》があり そのわたしの自己還帰=誕生があったということである。《きょう わたしは おまえを生んだ》という表現を得たことと 同じことだと思われる。
上の引用のなかで中略した部分は こうである。すなわち 《わたしが示す地に行きなさい》と語ったあと アブラムが聞いたヤハウェーの声として

わたしはあなたを大いなる国民とし あなたを祝福し あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地のすべてのやからは
あなたによって祝福される。
旧約聖書 創世記 (岩波文庫) 12:2−3)

このアブラムの自己還帰についても すべては表現の問題であって むしろ現実世界での社会関係こそが焦点となっているはずだが そうとしても この表現の内容は 一見するに 何と 自信に満ちたものであろう。そしてまた 自己の弱さを誇るようにして表現するとはいえ 反面では その謙虚とはほど遠い自己への過信にあふれていることであろう。まず そう解せられるのではあるまいか。
《わたしは生まれた/ これに油そそがれた(メシア=クリストス)/ これが実現した》というとき 基本出発点としては どこまでも表現の問題であって 自己の弱さが弱さとして認められる=つまり弱さが深められるにすぎないと言える。こう考えていた。このなかから たとえばメシア=キリストが 救世主として表わされたりするのは むしろ基本出発点(個人)を離れてしまって 社会一般の場の問題として 習慣的に社会倫理およびその夢として語られたりする側面がつよいと言ってよい。ところが このアブラハムの自己還帰にかんする初めの表現は なお表現の問題であると言えるにしても 中身には 自己が誰よりも選ばれた者として それにおごるかのように響く意味合いが 捉えられるとさえ考えられる。これは どうしたことか。
まず これは たしかに自信である。自負である。この声を聞いた時点では 時間の問題としては まだ何がどうなるのか(言われたとおりに行って どうなるのか) 何もわからなかったと捉えてみるとき その後の経過をとおして あとで振り返ってみて この声を聞く瞬間にあった自己に 確信をつよめたその結果でもあるだろう。

  • ただし この場合も その過去の瞬間に《回帰》するというのとは 微妙にちがうであろう。声を聞いた時点でも その後の時点でも 《自己の誕生》が確信せられ これは 振り返るなら 自己の同一性(《わたし》の動態)と表現してもよいと思ったのみであるはずだ。

《行く》=《その地を去る》ことが 単なる移住の問題なのではなく 自己還帰の問題として起こったということ このことを示すために まずは やはり主=ヤハウェーという語を用いて 自信に満ちてのように 語る形態をとっている。
ただ ここで 表現の問題であるからには 個々の語の意味内容にも 注目してみなければならない。とくに 《祝福(B-R-K の三つの語根子音から成ることば)》の語は ひとつの仮想としてだが もともと《膝まづく》という意味――つまり ラクダが膝まづく場合も 人が畏敬の念で跪伏する場合をも含めて――だとも思いたくなる。じじつ berek は 《膝》のことである。(ただし 別々の語根だというのが定説である。)仮に考えてみるのだが まず初めの一文では 《わたしは きみを一つの大きな国民にしよう。わたしはきみを膝まづかせ きみの名を高めよう》となる。言いかえると その声を聞く瞬間・またはその前後に かれは みづからが膝まづいたと語っていることと そう違わない。〔われわれなら あるいは 手を合わせる・合掌するなどというかも知れない。〕それだけのことだとも考えられる。
つづく《あなたは祝福のもといとなるであろう》は 《膝まづき〔の際のことば〕は 〔次のようで〕あれ》と直訳されるかも知れない。つまり このため=つまり 《〔次のようで〕あれ》ということのため つづくあとの部分は 全体でひとまとまりとなった詩の如くになっている。すなわち

わたしは 
きみによって(きみをとおして/ きみの姿に接して)膝まづかせられた者たちを 
膝まづかせよう。
わたしは 
きみを呪う(小さく見る/ さげすむ)者たちを 
〔そのことについて〕明らかにし(照らし出し) 
〔その〕きみの中に(きみによって/ きみを見て) 
地上のすべての種族は膝まづかせられるであろう。

このようになるかと空想される。
全体として 《あいまいの美学(!?)》によるなら 《あはれ(憐れ/ 天晴れ)!》と発することと それほど ちがわないとも見られる。
もしこうだとすれば――《今の地を去れ》の部分を除いて――すべては アブラハムの側から見れば 《わたしアブラムは その声を聞き 主(存在せしめる者)の前に 膝まづいた》とだけ 言っていることになる。この自己は 社会的な関係性ないし時間性の中にもいるのだから とうぜん他者そしてすべての他者のことについても 表現上 触れている。触れずにいるというわけにはいかない。そしてただ わたしアブラムの自己の誕生は すべての人に共通であるはずだという自負は うかがわれるのである。
《膝まづいた》というだけだとすれば 《存在の意味への問いは――いや 自己の誕生に出会い これを自らの存在と確信しての表現は―― もっとも普遍的でもっとも空虚です》とたしかに考えられる所以である。また 《もののあはれ》という表現を好むばあいには 《無》ないし《空》の思想だなどとして 表現され その解釈・探求も 展開されたりしていく。
ただし 現実世界との関係は この場合としては みづからの故郷をまったく離れるという現実の情況にあるわけだが いづれにしても 現実の他者との関係という形態を採って 表現され行動されたと言わなければならない。これは――つまり一般的に《自己生誕》の存在思想は―― まったくの幻を見た(まぼろしの声を聞いた)如くであると同時に その想像の世界に閉じこもり空想を生きようということではないと 確認しなければならない。表現上 非経験へと開かれたその想像の世界にも 触れられているというのみである。あくまで 他者の存在ということは 大前提なのである。
物語によれば このときアブラムは 七十五歳であったという。
(つづく→[えんけいりぢおん](第十二章−コーラン) - caguirofie041123)