アウグスティヌスの《さとり》:情念編から伸びて・・・
1.
▲ (アウグスティヌス:動物と共有する情念にかかわる愛について) ~~
2. したがって 愛の力は非常に大きく 愛によって長らく思惟しており
気遣いの膠(にかは)によって固着していたものを 自己を思惟するために或
る仕方で〔自己に〕還帰するときでも一緒に連れ込むほどである。
3. それは 精神が肉の感覚をとおして外側で愛好した物体である。
4. 精神はそれとの長くつづいた或る種の親密な交渉によってそれと縺れて
いる。だがいわば非物体的な本性の領域である内面へ物体そのものを一緒に引
き入れることは出来ないから 物体の似像(にすがた)を思い廻らし 自分で
つくり上げたものを自己自身の中へ引き入れるのである。
5. その似像をつくり上げるとき 自分自身の或るものをそれに与える。
6. しかし精神は自分のうちに このような似像のかたちについて自由に判
断する能力を保持している。これは適切な意味で精神であり 判断するため保
持されている理性的な知解力である。
7. 物体の類似によってかたちづくられるあの魂の部分を私たちは動物と共
有していることを知っている。
(アウグスティヌス:『三位一体論』第十巻・第五章 中沢宣夫訳)
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8. ところが 聖書は こう言う:
▲ (パウロ:情念を超える?)
9. キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十
字架につけてしまったのです。
(『ガラテヤ人への手紙』5:24)
10. ならば キリスト者は 《二重基準 double standard 》を持つのか?
11. この二枚舌の壁をクリアしようとするのが 〔このいまの情念編から
伸びて〕煩悩ないし欲望一般にかんする思想≒生活態度としての《無住処涅槃》
ではないかと思われる。
12. いまの主題のままでアウグスティヌスの考えるには こうである。:
▲ (アウグスティヌス:肉の情念とよき意志と人間の試練) ~~~~~~
13. さて生殖器に内在する肉の欲望を婚姻の純潔は善く用いるのであるが
しかもその欲望は〔アダムの〕堕罪後の今は 欲望は精神の法に反しつつ 生
むべき原因がないときにも 性交すべき刺激を与えるようなものであると私た
ちは考える。
14. もしそれに人が屈服するようなら罪を犯しつつ満たされる。もし屈服
しないなら 同意しないで 制御される。
(『三位一体論』13・18)
15. だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく公共的
なものとしてこのようなものを愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉み
なく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えよ
うと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なものの無知
によって――魂はこのことを時間的に為すから――或る点で誤り そして為す
べきようになさなくても それは人間の試練に他ならない。
16. 私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって
常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。
17. それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがって容
易に許されるのである。
18. しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そし
てそれらの中に自分の善をおこうとして それらを経験し それらに卓越し
それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも
恥ずべきことをなしているのである。・・・
(同上 12・9)
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19. 果たして この思索において人は タテマヘとホンネの溝を埋め得て
いましょうか。
20. 無住処涅槃とは 《肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった》
とみづから宣言しつつ 《欲情や欲望のかたまりである凡夫(凡人)である状
態に いつも激しく接している》という生活者である。
21. ということは 実際問題としては 生活日常の中におけるふつう一般
に出遭われ紡がれてゆく二角関係が いわば巡礼の旅路でありまた《帰郷の道》
であるごとく おくられている。
22. ニルワーナ(涅槃)を言うからには 《試練》をともなっているので
あろう。
23. ▲ [16] 人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉する
ように送ることは偉大なことである。
☆ か?
24. この二角関係における相互主観性をめぐって いまかえって問題をあ
いまいにしてしまうおそれのある提案をあえてするとすれば そこに《ものの
あはれを知る》といった一つの参照事項をおいてみたらどうであろう?
25. 《時間的なものの無知》についての知を得ておこうというコンタンに
おいて。