caguirofie

哲学いろいろ

#22

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

"La foi cherche, l'intellect trouve."

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第十三章a 余論ふうに(アマテラス予備軍が解放される)

――アウグスティヌス 《神の国について》《三位一体について》語る――


ここでは いつも愚か者のごとく語っていては ついにわたしたちは仲間をもつまづかせかねないと考えられるなら 愚か者のそしりを覚悟して賢くなって 次のようにも 前章の主張を引き継ぎ うらづけすることができるかも知れない。
例によって 引用また引用のやり方で。――

しかし もし為すべき敬虔な仕事において 〔この〕賢い人が善き業(わざ)に協力する他の人の奉仕を採用するとき しかもかれらが かれと同じ意志で神に仕えず 自分の肉につける欲望の報いに到達することを欲し 肉的な態度で自分にとって不快なものを避けるとしたら どうか。・・・
〔終わりに〕この賢い人が全く感覚を欠くかつ例えば穀物 葡萄酒 香油 着物 銀貨 その他この類いのもののように その仕事に必要なものを用いた場合はどうか。この仕事のために使用された生物 無生物を問わず すべての物体的なものはみな動かされ 消費され 回復され 破壊され 再形成され そして種々な仕方で場所や時間の影響を受けて変えられる。だが もし神のあの不可視的・不可変的な意志が 知恵の座としての正しい魂 終わりにこれらの魂によって生命を吹きいれられ活気づけられたもの さらに感覚を全く欠いた物体をすべて 使用する――その際に敬虔にして宗教(信仰)的な服従のため〔神〕ご自身に服せしめられた善き聖なる(サンクトゥス)魂そのもの(賢い人自身)が先ず用いられる――のでないなら すべての可視的・可変的な事象の原因はどこにあるであろうか。
(三位一体論3・3−4)

さて 今なお可死的な身体を担って 部分的にしか神を観ていない(コリント前書13:12)一人の賢い人について例を挙げて論じて来たが このことは もし人間的なものの支配と管理が 賢い人びとや神に対して敬虔に全き仕方で服従した人びとの手中にあるなら このような人びとの交わりが存在する家についても あるいは都市 または世界についても考え得る。
〔しかしこの状態はまだ存在していないから(私たちはこの地上の巡礼の旅路において何よりも先ずこの可死的な身体において習練されまた柔和と忍耐の力をとおして鞭によって教育されなければならない) 私たちの長い巡礼の旅路の始点である あの上なる天の故国を憶い見よう。・・・〕
(三位一体論3・8−9)

《天の故国を憶い見る》とき それは 神的権威(聖書)の言葉によってであるが 人間にとって 現実のやしろの資本連関をとおしてである。この点はいま措くとして アウグスティヌスが 《アマアガリする共同主観者の交わりが存在する家 あるいは都市 または世界》について 《考え得る》と言ったということ この点に注目してみたい。
《しかしこの状態はまだ存在していないが》と言うインタスサノヲイストの団結 連帯の結果のヤシロ資本連関についてである。それが 《天の故国》のこの世での歴史的進展にほかならない。前章の最後で 時として実現するであろうと触れた新しい時代とは とりもなおさず このことを言っていたのであるから。マルクシストは このこと(アマアガリするプロレタリアの結合した個人たちの時代)を 非現実的な議論だとは言えまい。また ナシオナリスムの共同性において 《国家》すなわち一つの家族なる共同性を アマテラス語理論した人びとも 同じくであろう。この前提に立って。
われわれは 《これからどうなるのかは わからない》(ヨハネ第一書3:2)が 神的権威に支えられて――つまり 神ゆるしたまうならば―― この時代について考えて見よう。
しかし よく考えてみると 《時代》とは言わなくとも やはり《やしろ》の共同主観としては このようなインタスサノヲイストらの連帯という思想ほど われらに身近なことがらはない。たとえば パスカルが 

神は その権能のうちにある愛(資本)の賜物を神に求める・愛(やしろS圏の資本)にみちた人びとに とりまかれておられる。したがって神はまさしく愛の王である。
パスカル:大貴族の身分について・第二講話 前田陽一・由木康訳)

と観るその動態のことにほかならない。かれは 同じ箇所でつづけて 次のように述べてゆく。

あなた(或る貴公子)も同様に あなたの流儀で君臨している少数の人びとにとりまかれている。この人びとは邪欲にみちている。

  • だれもがそうであったように。つまり 善悪を知る木から採って食べるという人間の時間的なる――無時間知(神の知恵)にとっては――無知によって想像力がかき立てられて知る人間の知恵の停滞が 邪欲である。

かれらはあなたに邪欲の富を求めている。かれらをあなたに結びつけているのは邪欲である。あなたの王国はあまり広くはない。しかし 王である点では あなたは地上の最大の王者に等しい。かれらもあなたのように邪欲の王である。かれらの力となっているのは邪欲 すなわち 人間の貪欲が願望する事物を所有していることである。

  • おそらくパスカルは この点では むしろ価値自由的に あの必然の王国というほどのこの世界に対する認識を このように 語っているにすぎない。《邪欲》を 必然の王国つまり世間と読み替えよ。

しかし あなたは生来の身分を知って それがあなたに与えている手段を用い あなたを王としている道以外の道によって君臨しようとしてはならない。すべてこれらの人びとがあなたに服従しているのは あなたの生来の力や権能によるものではない。だから かれらを力によって治めようとしたり 苛酷によって遇しようとしたりしてはならない。かれらの正しい願望を満たし かれらの窮乏を和らげ 恩恵を施すことに喜びをおぼえ できるだけかれらの求める利益を与えるが良い。そうすればあなたは邪欲の真の王としてふるまうことができよう。
〔――かくして――〕
わたしがあなたに話していることは 決して高邁なことではない。・・・邪欲とその王国とを軽蔑して 愛の王国 すなわち すべての国民が愛のみを呼吸し 愛の富しか願望しない王国を切に求めるべきである。

  • 自由の王国は その理論形態である。われわれは 全体として この方法について 自己形成しようとしている。

その道を語る人は わたし(パスカル)のほかにあろう。わたしとしては あなたと身分を等しくする多くの人が その身分の真相を十分知らないところから陥りがちな あの残忍な生活から あなたを遠ざけただけで満足である。
(大貴族の身分について 結語の部分)

現代では 主権が市民に存するとすれば貴族なるA者・《あなた》とは われわれことである。この点は措くとしても このように〔語って〕生きたスサノヲ者の系譜は いくらでも例示できるとも考えられる。また それにも引き換えて この《〔愛の〕王国》はまだ 一向に 実現されていないとも考えられるその点について。
しかしながら 問題は すでに解決済みであったと言わなければならない。《その道を語る人は わたしのほかにあろう》と言うパスカルを受けるわけではないけれども――つまりこのように言うのが この章の冒頭に語った《賢い人》のやり口だと思うのですが―― それは(解決済みだというのは) この《神〔の国〕から人間の中へ到来し 人間に近づく》方法であったわけです。前向きに上昇していくのではなく 後ろ向きに前進していくそれです。
それは 《必然の王国》からひとり抜け出してアマアガリするのではなく 先に引用したアウグスティヌスの文章にあるように 《ある賢い人》が この《邪欲の王国》をも《為すべき敬虔な仕事》のために用いるというやり方。それなのです。《自由の王国》は この邪欲の王国に取って代わる別の世界なのではなく この《仕事》のための理論作業の過程として ある。また この自由の王国は 必然の王国の元のくに(エデンの園) その王である神について 語ることを 省略したのであるから この神について しかも宗教形態として(宗教社会学ふうに)アマテラス語理論によって明らかにする作業が 必須となるというのでも ない。これはアマテラス予備軍の仕事であった。
わたしたちは この必然の王国の流れを たしかに木の船に乗って渡るその生活(アウグスティヌスは 祖国への巡礼の旅路と言っている) これを からだごと 明らかにしていく また その過程で ひっくるめた言い方をすれば 自由の王国として理論する。このことでなければいけないのであった。たしかに このことでなければ いけない のであった。また ほかならぬこのこと でなければいけないのであった。
なぜなら 《これら二つの国――すなわち 地上の国と天の国――は この過ぎ行く地にあっては言わば絡み合い 相互に混じり合っている》(アウグスティヌス神の国について11・1)のだから。
(つづく→2007-01-15 - caguirofie070115)