だまされたなら われあり
0. この命題を以下のように考え 問います。果たしてどうでしょう。
1. 存在するのでなければ だまされることはない。ゆえ。
2. だますという概念は その犯行者が相手を自己と同じ存在だとみとめないなら 成り立たない。
2-1. 犬や猫をだましたとて それは 次元の違う現象である。犬や猫に仮りにだまされたとしても それは 人間どうしの場合とはカテゴリが違う。
2-2. 犯行者は自己自身において 自分も同じようにだまされ得ることをみとめたことになっている。
2-3. だます・あざむく行為は 自己欺瞞をふくめ得るので 大きく基本として ウソの問題であると考えられますまいか?
2-4. すべてのヤマヒ(不自由)は ウソ・イツハリから来ている。
2-5. ウソ・イツハリがなければ 往々にして人はだまされる。そこで わが存在の確認が成される。
3. 《あやまつなら われあり》とも言える。相手のだましに乗ってしまった。
4. すなわち あやまちに気づくなら われはわれに還る。ゆえに 《われあり》。
5. この《われあり》としての存在を基礎として 人格が形成される。
6. だまされたりあやまちを冒したりすると われ考える。なぜそうなったかと。
――だからと言うので われ考えるゆえにわれありとする命題が生まれた。果たしてどうか?
7. それは 《考えているわれがある》と言うに過ぎない。けれども 考えていないわれも・つまり だまされ得るわれも われであり むしろ存在である。
8. なおこの問い求めは わたしの解釈で アウグスティヌスに拠っています。