caguirofie

哲学いろいろ

コギト

Q&Aのもくじ:2011-03-26

【Q:デカルトの「我思う故に我あり」は間違ってないと肯

定出来る方はいますか?】その回答№5
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9157259.html?pg=1&i

1. デカルトのこの命題は アウグスティヌス(354−430)の

( a ) 《われあやまつならば(あざむかれるならば) われあり。 Si fallor, sum. 》

の二番煎じです。次の回答№5を参照してください。パスカルがその二番煎じ問題
について議論しているところを扱っています。

 【Q:"cogito"(コギト・エルゴ・スム)は真か?】
 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7902812.html



2. アウグスティヌスは どう言っているか?

( a-1 ) もしわたしがあやまちを侵したと気づいたときには 考えや振る舞いに
ついて間違う行為とそれに気づき正す行為とがあると知られ このふたつの――時
間的な隔たりのある――コトをとおして わたしはそのどちらについても わたし
〔が行為主体〕であることを確認します。自己同一性(アイデンティティ)です。
――この自己・このわたしがあると知られます。


( a-2 ) わたしはもし誰かにあざむかれたとしますと そうだとしてもその欺か
れたというコトは わたしが存在していなければ成され得ないことです。犬や猫も
存在しているとすればそう見なされると思うのですが つまりもしそれらを人間が
だましたとして ひとつに 存在しているとする限りで だからだませたとなるで
しょうし 存在などしていないと見るなら そのダマシなどは あって無きがごと
しとなるでしょう。そのようにです。


3. このアウグスティヌスの命題( a )を デカルトは――人びとが思うには―
―わるく言えば パクッたということになります。《あやまちに気づく》ならば 
なぜそうしたのかなどについてわれは考えますし あるいは《騙された》とするな
らば やはりどうしてそうなったのかと思いをめぐらし考えます。だから 《思う
・考える》という表現に替えたのでしょう。


アウグスティヌスの原文(翻訳ですが)と併せてその点については たとえば次の
趣旨説明欄を見てみてください。
 【Q:デカルトは《コギト》をアウグスティヌスからパクった】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8937694.html


4. ただし デカルトはすでに生前にそのこと(パクリ疑惑)について指摘を受
けてそれについては 反論して答えています。――いや そうぢゃない この《思
う・考えるわれ》は 決してあやまちや欺きといった経験的な事態にかかわるわれ
ではない。そうではなく むしろ《霊としてのわれ》なのだと。その《考えるわれ》
とは英訳で《非物体的なもの( an immaterial substance / incorporeal》なのだそう
です。


5. すなわち
▲ Renati Descartes Epistolae (デカルト書簡集)(*註)
http://catalog.hathitrust.org/Record/009287973
(ここから cogito で検索して p.404 をクリックしてください。次のページです)。
http://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=ucm.532354


( d )(= p.404 )  ego vero illud adhibeo adprobandum me cogitant-
em esse immaterialem  & incorpoream substantiam;


( d-E ) Appendix IV. Augustine's "Cogito Argument:"
http://www2.fiu.edu/~hauptli/AppendicestoDescart


I use it to make it known that this “ I ” who is thinking is an
immaterial substance, and has noting in it that is incorporeal.


( d-J ) アウグスティヌスの《あやまつならわれあり》をわたしは次のことを明
らかにするために応用しました。すなわち 《考えるわれ》は 非物質的で非物体
的な実体なのであると。

☆ (ぶらじゅろんぬの自由な解釈) あやまちに気づかされるときには われな
る人間としての思考を超えて(思考によってだけではなく思考を超えて) ヒラメ
キが得られると見ることもできる。ヒラメキは インスピレーションとして 神の
霊としてのハタラキに属するという見方だと思われる。


6. さらにこの話には後日譚のようなことがついています。


(あ) 《考える〔そのみなもとの〕われ》は むしろ《霊》であるとなったとこ
ろで これを承けて 18世紀の科学者のゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク
がその霊のハタラキを例の《エス( Es :それ・あれ)》と言ったそうです。


(い) ( a-d-Lichtenberg :《エス・デンクト( It thinks. それが考える)》
http://blogs.yahoo.co.jp/hiraokakimihiko/1244544


 稲妻が走る〔es blitzt〕と言うのと同じように、それが考える〔Es denkt〕と言
 わねばならない。


(う) この《エス(英: it )》が 《無意識》といった意味合いを帯び ニー
チェを経てフロイトに行き着いたのだそうです。


☆ この(6)は特に孫引きが多く さらに精確を期したいとは思います。おし
えてください。なお この《エスないしムイシキ》をその作用としてあたかも脳
の独立した部位において想定したところでは もうついて行けないと言うべきだ
と考えます。


7. *(5)の註:デカルトの書簡については 『デカルト全書簡集』全六巻
として ちょうどいま日本語訳が刊行中のようです。


8. デカルトの反論は その場のデマカセくさいように感じられます。そうで
なくても もし霊のハタラキを言うとすれば 《考える》とは別にそれとして持
ち出せばよいはずですし そういう問題はアウグスティヌスがすでに言っていな
いわけがないのですから。(デカルト書簡集をすすめましたが いまこの意味で
は あまり生産的ではないかも知れません)。