caguirofie

哲学いろいろ

デカルト


【Q:デカルトの「我思う故に我あり」は間違ってないと肯定出来る方はいますか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9157259.html?pg=1&i
☆ その回答№5です。


1. デカルトのこの命題は アウグスティヌス(354−430)の

( a ) 《われあやまつならば(あざむかれるならば) われあり。 Si fallor, sum. 》

の二番煎じです。次の回答№5を参照してください。パスカルがその二番煎じ問題につ
いて議論しているところを扱っています。

 【Q:"cogito"(コギト・エルゴ・スム)は真か?】
 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7902812.html

2. アウグスティヌスは どう言っているか?

( a-1 ) もしわたしがあやまちを侵したと気づいたときには 考えや振る舞いについ
て間違う行為とそれに気づき正す行為とがあると知られ このふたつの――時間的な隔
たりのある――コトをとおして わたしはそのどちらについても わたし〔が行為主体〕
であることを確認します。自己同一性(アイデンティティ)です。――この自己・この
わたしがあると知られます。

( a-2 ) わたしはもし誰かにあざむかれたとしますと そうだとしてもその欺かれた
というコトは わたしが存在していなければ成され得ないことです。犬や猫も存在して
いるとすればそう見なされると思うのですが つまりもしそれらを人間がだましたとし
て ひとつに 存在しているとする限りで だからだませたとなるでしょうし 存在な
どしていないと見るなら そのダマシなどは あって無きがごとしとなるでしょう。そ
のようにです。

3. このアウグスティヌスの命題( a )を デカルトは――人びとが思うには――わ
るく言えば パクッたということになります。《あやまちに気づく》ならば なぜそう
したのかなどについてわれは考えますし あるいは《騙された》とするならば やはり
どうしてそうなったのかと思いをめぐらし考えます。だから 《思う・考える》という
表現に替えたのでしょう。

アウグスティヌスの原文(翻訳ですが)と併せてその点については たとえば次の趣旨
説明欄を見てみてください。
 【Q:デカルトは《コギト》をアウグスティヌスからパクった】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8937694.html

4. ただし デカルトはすでに生前にそのこと(パクリ疑惑)について指摘を受けて
それについては 反論して答えています。――いや そうぢゃない この《思う・考え
るわれ》は 決してあやまちや欺きといった経験的な事態にかかわるわれではない。そ
うではなく むしろ《霊としてのわれ》なのだと。その《考えるわれ》とは英訳で《非
物体的なもの( an immaterial substance / incorporeal》なのだそうです。

5. すなわち
▲ Renati Descartes Epistolae (デカルト書簡集)(*註)
http://catalog.hathitrust.org/Record/009287973
(ここから cogito で検索して p.404 をクリックしてください。次のページです)。
http://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=ucm.532354

( d )(= p.404 )  ego vero illud adhibeo adprobandum me cogitant-
em esse immaterialem  & incorpoream substantiam;

( d-E ) Appendix IV. Augustine's "Cogito Argument:"
http://www2.fiu.edu/~hauptli/AppendicestoDescart

I use it to make it known that this “ I ” who is thinking is an
immaterial substance, and has noting in it that is incorporeal.

( d-J ) アウグスティヌスの《あやまつならわれあり》をわたしは次のことを明らか
にするために応用しました。すなわち 《考えるわれ》は 非物質的で非物体的な実体
なのであると。

☆ (ぶらじゅろんぬの自由な解釈) あやまちに気づかされるときには われなる人
間としての思考を超えて(思考によってだけではなく思考を超えて) ヒラメキが得ら
れると見ることもできる。ヒラメキは インスピレーションとして 神の霊としてのハ
タラキに属するという見方だと思われる。

6. さらにこの話には後日譚のようなことがついています。
(あ) 《考える〔そのみなもとの〕われ》は むしろ《霊》であるとなったところで
これを承けて 18世紀の科学者のゲオルク・クリストフ・リヒテンベルクがその霊の
ハタラキを例の《エス( Es :それ・あれ)》と言ったそうです。

(い) ( a-d-Lichtenberg :《エス・デンクト( It thinks. それが考える)》
https://blogs.yahoo.co.jp/hiraokakimihiko/12445447.html

 稲妻が走る〔es blitzt〕と言うのと同じように、それが考える〔Es denkt〕と言わね
 ばならない。

(う) この《エス(英: it )》が 《無意識》といった意味合いを帯び ニーチェ
経てフロイトに行き着いたのだそうです。

☆ この(6)は特に孫引きが多く さらに精確を期したいとは思います。おしえてく
ださい。なお この《エスないしムイシキ》をその作用としてあたかも脳の独立した部
位において想定したところでは もうついて行けないと言うべきだと考えます。

7. *(5)の註:デカルトの書簡については 『デカルト全書簡集』全六巻として 
ちょうどいま日本語訳が刊行中のようです。

8. デカルトの反論は その場のデマカセくさいように感じられます。そうでなくて
も もし霊のハタラキを言うとすれば 《考える》とは別にそれとして持ち出せばよい
はずですし そういう問題はアウグスティヌスがすでに言っていないわけがないのです
から。(デカルト書簡集をすすめましたが いまこの意味では あまり生産的ではない
かも知れません)。