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哲学いろいろ

哲学・信仰・宗教・科学

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie


 エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。
 その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。
 
 言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。

 ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。

 こうなると 自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自由意志とその自由がある。したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。

 このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を 仏性とも神の霊とも言った。これは 非思考として《信仰》と呼ばれる。


 この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。



   神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っている
  ならば――つまりは へそを曲げウソをつくのではあるが これをあ
  やまちとして気づくときその自由に留まるならば―― ひとは ひと
  を殺すこともなければ むさぼることも裏切ることもなかろう。

 といった規範を得る。

 この規範を どう思ったか 《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》という戒律としてまた道徳として 神の霊に代えて崇拝するやからが現われる。つまりそのときこれを神のおきて(法)として 説き始めたのが 《宗教》である。

 一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。
 やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それにあざむかれて従う阿呆な人びとがいるということだ(欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。


 《科学》は哲学をさらに詳しく問い求めたものである。それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられるからである。あるいは どの人の思考や行為であるかにはかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。

 《芸術》は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。ゆえに手段は 言葉に限らない。哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――が描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。

再考:

哲学を 信仰と宗教そして科学や文学・芸術と比べて捉えてみます。

    *

 エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。
 その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。

   *

 言いかえると 言葉は 人が物心のつくにつれて わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らないものだと知る。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができるし 実際に つくことがある。そういう意味でも 表現は自由なのだ。と知った。
 このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。

   *

 ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。

 こうなると ひとは自由であろうと望む。そのときには この自由あるいは人の自由意志を擁護したいと考えるならば  たとえば《われ欺かれるなら われ有り》という考えをいだくようになる。これが 《哲学》である。人が思惟をつうじて哲学を生んだ。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。

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 《われあやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自然本性の能力がある。そこには 自由意志とその自由がある。《われあり》なのだ。
 したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びるものだという自戒を持たせた。と同時にその責任についての自覚が芽生え これが持たれた。自由と責任というもんだいである。

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 このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を 仏性とも神の霊とも言った。
 《責任をともなう自由》が人には生まれつき自然本性としてそなわるということであれば その自然本性には 人間のチカラを超えた何ものかのハタラキがあるに違いないと見た。これは 思惟を超えて・という意味は あたかも哲学を超えて わが心に《非思考の庭》を捉えることにまで行き着く。思考に非ず なのに そこに何かチカラのハタラキがあるのではないかと。これが 《信仰》と呼ばれる。
 仏性があらゆるものに宿るであるとか 神の霊が宿るといった見方である。

   *

 この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。

   神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っている
  ならば――つまりは へそを曲げウソをつくのではあるが これをあ
  やまちとして気づくときその自由に留まるならば―― ひとは ひと
  を殺すこともなければ むさぼることも裏切ることもなかろう。

 といった命題(判断)を得る。

 この命題を どう思ったか 《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》という戒律としてまた道徳として抱き 神の霊に代えて崇拝するやからが現われる。《わが心の内なる非思考の庭》の問題ではなくそこから離れ 戒律や道徳としてその《人間の言葉》に代えた。つまりそのときしかもこれを神のおきて(法)として 説き始めた。これが 《宗教》である。

    *

 宗教は 一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。

 やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それにあざむかれて従う阿呆な人びとがいるということだ(われ欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。自由から出発し 自由を問い求めて来たひとつの結果が 何ものか上に立つチカラによってその自由がおさえつけられるということになった。

    *

 《科学》は 哲学をさらに詳しく問い求めたものである。
 それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられるからである。あるいは どの人の思考や行為であるかにはかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。

 《芸術》は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する。そのような人間の自己表出および自己表現なる行為である。ゆえに手段は 言葉に限らない。哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――が描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。

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 このようにして 世界のすべて・歴史上の人間のあらゆるいとなみについて考えこれを 認識し整理しておく仕事が 哲学である。つねに より妥当性のある認識をもとめてその仕事はつづきます。
 ちなみに 哲学はこのようにしてあらゆるものごとを視野におさめ 想像上においても論理的に考え得るあらゆる可能性について考え尽くすことをもおこないますが このとき その時代やその社会に視点を絞り込む場合があります。それは そのいま・その場(社会)で必要有益な事柄に集中して 認識をおこなうと同時にさらにはそこから問題を取り上げそれについての取り扱いを考えるものでありこれは 《思想》と呼ばれます。
 もっとも思想も 哲学にもとづくものですから それほどの違いはありません。