拘束と自由について
☆
No.3
- 回答日時:
人間の存在や人格を何かの手段に用いるということが ないように
自由も 目的にこそ成れ 手段には成りません。
自由を手段に使うことは あってもそれは――おのれの意志をつら
ぬくために相手の意志を道具として用い けっきょくないがしろに
してしまうからには―― 人間性を勝手に削除しようとする無効の
行為であり 不法行為です。
拘束は 人為的なものです。自由という人間性にもとづくなら つ
ねに・例外なく・無条件で その拘束を解くことが 要請されてい
ます。
誘拐という不法行為は言うにおよばず 人事権なる権限をちらつか
せて 相手の意志をこちらの思うようにはたらかせる要求(強制)
も 拉致と同じ無効のおこないです。
なお 拘束は 自由を制限するものですが 無効の行為であるから
には ひとの精神を傷つけるといったことは ありません。あり得
ません。(不法行為者本人の心を傷つけており その事情をおもん
ぱかって こちらも傷ついた感じになることがあります。つまり
感じです)。
☆
No.8
- 回答日時:
拘束は 不法行為です。
意志と心とをないがしろにするからです。自由と同じ世界観における同じ次元で 成り立つものではありません。
もし そうではなく意味が対立するだけで 互いに相対的な価値の次
元に置かれている概念であるとしましょう。そうすると 次のような
論理が通ることになりましょう。
▲ 〔ヰキぺ:ポア (オウム真理教)〕 ~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%A2_(%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%83%A0%E7%9C%9F%E7%90%86%E6%95%99)
§ 1 概要
△ (麻原彰晃 1989年) 例えば、Aさんという人がいて、Aさんは生ま
れて功徳を積んでいたが慢が生じてきて、この後悪業を積み、寿命尽きるこ
ろには地獄に堕ちるほどの悪業を積んで死んでしまうだろうという条件があ
ったとしましょう。
このAさんを、成就者が殺したら、Aさんは天界へ生まれ変わる。(略)
すべてを知っていて、生かしておくと悪業を積み、地獄へ堕ちてしまう。
ここで、例えば生命を絶たせた方がいいんだと考え、ポアさせた。
この人はいったい何のカルマを積んだことになりますか、殺生ですか、それ
とも高い世界へ生まれ変わらせるための善行を積んだことになりますか。
人間的な客観的な見方をするならば、これは殺生です。しかし、ヴァジラヤ
ーナの考え方が背景にあるならば、これは立派なポアです。
そして、智慧ある人─ここで大切なのは智慧なんだよ。─智慧ある人がこの
現象を見るならば、この殺された人、殺した人、共に利益を得たと見ます。
ところが、智慧のない人、凡夫の状態でこれを見たならば『あの人は殺人者』
と見ます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 自由は――その意志自由の基体を成す生命存在は―― 無条件で無根拠
にてとうといものであると〔公理として〕捉えられています。
拘束は 一定の条件のもとに〔だけ〕成り立ちます。
全体としての自由をまもるためです。
☆
するもの、と言えるかもしれません。
☆ いいえ。 しかるべき条件のもとに拘束が成り立つのは そのことより
広い範囲の全体としての自由をまもるためのことでしょう。
拘束のために拘束をすることは 不法行為においてでなければ ありません。
引力は――自然環界における自然法則は―― 拘束という人為的な行為によ
って起きることがらとは まったく別の話です。生まれながらにしてすでに
成り立っていることがらは 人間にとってあくまでも与件です。
第二の自然として 人間が社会的動物であることも 与件でしょう。社会と
いうことの制約も その前提の上で 自由が無条件において想定されている
という問題です。
★ 拘束を自主的に解除する自由も、私たちは持ち合わせています。
☆ 必要がなくなったら解除できるし するんだという拘束は もともとの
全体としての自由という基礎の上でおこなわれるただの仮りの現象です。
めちゃくちゃな議論が横行しています。
○ 完全な自由だとなるとひとは何をするか分からなくなる。
☆ といった議論もありました。
完全な自由をかかげていとなまれる社会と
拘束が必要なら自由と同じほどに必要とされ敷かれている社会と。
どちらが 暴走や不法行為がより多く起こりますか?
せいぜい同じ程度において秩序がみだされる――と推測されますまいか。
けれども 昔のほうが道徳がさけばれ 戒律がそれなりにきびしかった。
なら その時代のほうが 秩序立った社会がいとなまれていた・・・か?
道徳による治安や秩序維持は 何にもならないのです。
もっとも日本社会は 理念をかかげるのでは必ずしもなく クウキによっ
て 〔既存の〕秩序を維持しようとします。同調圧力です。
規律――哲学的な倫理規範――によるか。それとも きわめてあいまいな
雰囲気によって行動や思想をもしめつけるか。いづれの拘束も それに反
抗する暴走を惹き出すことがあります。
ただし 後者の場合には 前者にくらべると テロなどの凶行に走る事例
がまだ限られていて むしろ内向的になりメンタルな病いに落ち入ること
になります。
他人(ひと)に迷惑をかけないようにという明示的な規範もあって これ
が効いているのでしょう。
もっと自由に もっともっと自由に もっともっともっと自由に!
No.13
- 回答日時:
★(補足欄) 車の両輪に例えると、拘束と自由は二つ揃ってはじめて機能
するもの、と言えるかもしれません。
☆ いいえ。 しかるべき条件のもとに拘束が成り立つのは そのことより
広い範囲の全体としての自由をまもるためのことでしょう。
拘束のために拘束をすることは 不法行為においてでなければ ありません。
引力は――自然環界における自然法則は―― 拘束という人為的な行為によ
って起きることがらとは まったく別の話です。生まれながらにしてすでに
成り立っていることがらは 人間にとってあくまでも与件です。
第二の自然として 人間が社会的動物であることも 与件でしょう。社会と
いうことの制約も その前提の上で 自由が無条件において想定されている
という問題です。
★ 拘束を自主的に解除する自由も、私たちは持ち合わせています。
☆ 必要がなくなったら解除できるし するんだという拘束は もともとの
全体としての自由という基礎の上でおこなわれるただの仮りの現象です。
めちゃくちゃな議論が横行しています。
○ 完全な自由だとなるとひとは何をするか分からなくなる。
☆ といった議論もありました。
完全な自由をかかげていとなまれる社会と
拘束が必要なら自由と同じほどに必要とされ敷かれている社会と。
どちらが 暴走や不法行為がより多く起こりますか?
せいぜい同じ程度において秩序がみだされる――と推測されますまいか。
けれども 昔のほうが道徳がさけばれ 戒律がそれなりにきびしかった。
なら その時代のほうが 秩序立った社会がいとなまれていた・・・か?
道徳による治安や秩序維持は 何にもならないのです。
もっとも日本社会は 理念をかかげるのでは必ずしもなく クウキによっ
て 〔既存の〕秩序を維持しようとします。同調圧力です。
規律――哲学的な倫理規範――によるか。それとも きわめてあいまいな
雰囲気によって行動や思想をもしめつけるか。いづれの拘束も それに反
抗する暴走を惹き出すことがあります。
ただし 後者の場合には 前者にくらべると テロなどの凶行に走る事例
がまだ限られていて むしろ内向的になりメンタルな病いに落ち入ること
になります。
他人(ひと)に迷惑をかけないようにという明示的な規範もあって これ
が効いているのでしょう。
もっと自由に もっともっと自由に もっともっともっと自由に!