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哲学いろいろ

甘えの哲学

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10023697.html

1. 《甘え》の歴史をとおして考えます。

2. 甘えと言えば 基本的に赤子が母親に身も心もゆだねる聖なる甘えを
言うと見ますが この母子関係から離れた人間としての依り縋りなどを甘え
一般と ここでは します。

3. エワは 光が陰の部分にも入り込んでいるのを見て 光も曲がると思
っていたところ或る日 夫アダムのつくった料理に対して なぜか遠慮して
まづいのに おいしいわと言ってしまった。

4. その以前では アダムもエワもそれぞれ互いのつくった料理に対して 
遠慮なくおいしいとか・まづいとかと思ったとおりを言っていた。甘えてい
た。

5. だが まづいものをまづいと言うのを遠慮することも 甘えではない
か。――ん? ――勝手に自分の考えで遠慮する。――ん?

6. ふたりは知った。わが自由意志はその自由度がまさに縦横無尽に自由
自在なのだ。

7. 光も曲がるのか。曲がり得るということは まっすぐに行くこともあ
るということだ。でも こわいほどにわが意志は――思考においてだけとし
ても―― 自由自在だ。





8. 子どもたちの内 弟のアベルは 兄のカインから見て そのアマエに
ついては遠慮しないタイプであった。少しは遠慮せよと何かにつけカインは
思っていた。

9. カインのつくった畑の野菜は 羊を放牧しその肉を食べるアベルには
まづい食べ物だった。

10. 或る日カインは ついに頭に来て弟アベルをなぐり殺してしまった。

11. 甘え合戦の結果 ついにここにまで来てしまった。




12. かれらの子孫の一人でアブラハムなるぢいさんは まっすぐ行くの
も曲がるのも同じ光だと思った。遠慮のあるのも無いのも 同じ甘えだと。




13. その後さらにモーセという男は 人びとのあいだでこの《甘え》に
ついて共通の取り決めをするのがよいと考えた。世の中の秩序のためである。

14. 《なんぢ ころすなかれ》と。そして遠慮するにせよ・しないにせ
よ 《いつはる(偽る)なかれ》と。

15. モーセ自身は アブラハムと同じく独りなる人間の主観そしてその
内面を重んじる人であったが 人びとの生活共同にとっては 倫理規範が必
要だと思った。

16. 甘え合戦をめぐる交通法規であり交通信号である。

17. 自由意志の自由な想像力の問題であるとも考えられる。《甘え》と
いうことがである。甘えていない者はいない。





18. のちにイエスという男は ふたつ言った。:
アブラハムの言う《同じひとつの光》は その同じはらから(同胞)の内に
閉じ籠るのではなく そうではなく 外に開くのだと。
――そうして モーセの交通信号は 人びとそれぞれの心根の中にすでに植
えつけられていると。



19. 世界の人びとよ。自由に互いにあまえたまえ。自己チューをつらぬ
きたまえと。ちぢこまることなかれ。

20. もっと自由に! もっともっと自由に! もっともっともっと自由
に! 

21. マチガヒをおかしたその同じ思考の形式と過程を 情況全体として
のナラハシについて捉えるかぎり――外に開きつつだが―― むしろそのま
ますすみゆくことで あたらしい・よき考えがわが心におとづれるのだ と。
トンネルを出るのだと。



☆ 思いっきり自由なご見解をどうぞ。