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《南無妙法蓮華経》は 真実の神ではないのか?――創価学会への公開質問状――
あらためて次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げて問いま
す。
(ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。
≪神≫と言ったのは ダルマ(法)もしくはダルマ・カーヤ(法身)のことを言いま
す。
◆(日蓮:当体義抄) 〜〜〜〜〜〜〜〜
http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.ph …
(α) 南岳釈して云く
「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、
☆(α‐1: bragel. ) これは ブラフマン神とアートマン霊我との一体を表わす
≪梵我一如≫として 一般化して捉えてよいと考えます。
(β) 是の故に法華経に云く
「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」
(γ) 文、又云く
「問うて云く
仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、
答えて云く
( γ‐1) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして
清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」
☆ ( γ‐1 )=( α‐1)。
(δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、
大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり
(ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり
(η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざる
なり、
(ι) 所詮妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の
肉身 是なり、
(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・
苦の三道〔が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ
其の人の所住の処は常寂光土なり、
(λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏と
は 日蓮が弟子檀那等の中の事なり
(μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可か
らず 之を疑う可からず、
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(1) まづ(α)から順に説き進むその内容は (α‐1)として解釈したごとく:
ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》
と。
(2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。
(ε) 法華経に同共して信ずる者
(η) 不同共の念仏者等
すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は
◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり
と言います。この一文の意味を問います。
(3) 《妙経の体に非ず》というのは
(3−1) 一般の《仏性を宿すひと》であり続けているが 《その仏性の発
現が妨げられているだけ》というのか? それとも
(3−2) 人と生まれて宿していた仏性が或るとき真実のブッダ(ないしダ
ルマ)に背いたがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》 もはや芽を出し得
ないというのか?
(4) もし後者=(3−2)だとした場合 それでも 法華経・如来寿量品第十
六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の
神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で時には依
怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現を
わざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?
(5) この疑問は (κ)の文章につながります。
◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人
(6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほど
の念仏者等は《方便のオシヘを捨てていない》。
けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。
《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシヘは〔特に親鸞
にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。
のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の
発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?
(7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる
☆ とは どういうことか?
(7‐1) 《法華経を信じ》というのは そのオシヘを信じることは出来ないも
のである(オシヘなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神
――(μ)《自在神力》――を信じるということにほかならない。
(7‐2) ならば 念仏者等が――名はアミターバ・ブッダやマハーワイロ―チャ
ナ・タターガタ(大日如来)などなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ)《自
在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何
ら妨げられることはない。
(7‐3) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項に継ぎ
ます。
(8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕
法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・
☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろ
うか? ほんとうにそうであるか?
つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく――
仏性の発現は 人間の能力と努力〔のみ〕によって 実現するのものなのか? とい
う問い。
親鸞の言うには 念仏は 《非行非善(修行ではなく善行ではない)》であるらしく
これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。
(9) すなわち
◆ (γ‐1=α‐1) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして
清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す
☆ この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として
生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・
という意味は 人間の能力も及ばずというかのごとく一切の努力を超越して――自然
史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありが
たいことに 見ることになる。のではないであろうか?
(10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか? 普
遍神のことではないか? なぜ党派を成すのか?