caguirofie

哲学いろいろ

日蓮は なぜ党派を問題とし その宗派を断絶させるのか

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

1. 次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げて問います。
中では (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。

2. なお 信じる対象は 《神》という用語を用います。ダルマ(法)もしく
はダルマ・カーヤ・ブッダ法身仏)のことを 一般性を持たせてそう呼びます。

3. ◆(日蓮:当体義抄 第三章) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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(α) 南岳釈して云く

  「一切衆生法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、

   ☆( α‐1: bragellone 註) これは ブラフマニズムにおけるブラフマ
     ン神とアートマン霊我との一体を表わす《梵我一如》として 一般化
     して捉えてよいと考えます。
     《一切衆生は 霊としての神をわが霊我――信仰の庭――において宿
     す》。つまりは 《一切衆生 悉有仏性》です。
(β) 是の故に法華経に云く

  「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」

   ☆( β-1) 《自性清浄心》とも言います。生まれつきの自然本性は 清浄
     だと言います。

(γ) 文、又云く

  「問うて云く 
    仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為すや、

   答えて云く
   ( γ‐1) 大強精進経の中に衆生如来と同じく共に一法身にして 清浄妙
    無比なるを 妙法蓮華経と称す」

   ☆ ( γ‐1 )=( α‐1)=( β-1)です。

(δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、
大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり 

   ☆ ( δ-1) 《同共》とは 梵我一如の《一如・一体》でしょう。

(ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり

   ☆ ( ε-1) 梵我一如ないしブッダター(仏性)をやどす体(当体)を 
     ここでは 法華経に依拠するとことわった場合として言うのでしょう。
     すなわち 日蓮の立ち場なのでしょう。
 
(η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざる
なり、

   ☆ ( η-1) 念仏宗は 《不同共》だと言う。つまり 《一切衆生》――
    として生まれて来たであろうが のちに念仏に恃むようになったら 仏性
    をやどす人間――には入らないと言う。
    あるいは 法華経に依拠する場合の《梵我一如》の当体に非ずと。
    念仏宗は 《すでに仏性・法身如来――つまり 神――に背く》ゆえと。

(ι) 所詮 妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の
肉身 是なり、

  ☆ ( ι-1) これは 梵我一如の当体を 法華経に依拠する《妙法蓮華の当
    体》に特化させ さらにそこから 《日蓮の弟子旦那たち》のことだと規
    定した。
    すでに日蓮派に限ると言っているかどうか。

(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦
の三道〔が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ其
の人の所住の処は常寂光土なり、

  ☆ ( κ-1) 日蓮派の人びとは 娑婆即寂光土なる境涯を享受することができ
    ると言う。これは 日蓮派に限ると すでに言っているか?
    法華経以前のオシヘは 《方便》であるゆえ 捨てなければいけないとは言
    っている。

(λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは 
日蓮が弟子檀那等の中の事なり
 
  ☆ ( λ-1) ここで おそらくはっきりと 《日蓮のオシヘのみ》と言ったよ
     うに思われる。自然本性の花を咲かせ得る当体は 日蓮派に限ると。

(μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可から
ず 之を疑う可からず、
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4. まづ(α)から順に説き進むその内容は (α‐1)等として解釈したごとく:

  ○ 一切衆生 悉有仏性 (法華経

ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。
一般的な類型としては 《梵我一如》でしょう。
《プシュケー・トゥー・コスムー(宇宙霊魂)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》。


5. ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。

 (ε)  法華経に同共して信ずる者
 (η)  不同共の念仏者等

すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は

◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり

と言います。この一文の意味を問います。




6. 《妙経の体に非ず》というのは
 
6−1  一般の《仏性を宿すひと》であり続けているが 《その仏性の発現が妨
げられているだけ》というのか? それとも

6−2  人と生まれて宿していた仏性が或るとき真実のブッダ(ないしダルマ)
に背いたがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないと
いうのか?

7. もし後者=(6−2)だとした場合  それでも 法華経如来寿量品第十六
の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神
――( μ ) 《自在神力》の源泉――であって 普遍であり遍在であり 一方で時
には依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の
発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?



8. この疑問は (κ)の文章につながります。
 
◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人

すなわち ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほ
どの念仏者等は《方便のオシヘを捨てていない》。

けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。神の名は異な
っているが その心のまことは 日蓮派の人びとと まったく変わらない。はずだ。
 
あるいはつまり 《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――その
オシヘは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就
いている》。

9. のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者
等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないで
あろうか?


 
10. ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる
☆ とは どういうことか?
 
10‐1 《法華経を信じ》というのは そのオシヘを信じることは出来ないもので
ある(オシヘなる教理は 思想として表現されているからには 考えるものである)。
ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ)《自在神力》の源泉――を信じるというこ
とにほかならない。

10‐2  ならば 念仏者等が――名はアミターバ・ブッダやマハーワイロ―チャ
ナ・タターガタ(大日如来)などなどとして違っていても―― 真実の神を心にい
だくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられること
はない。

10‐3 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項に継ぎま
す。


11. ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 
法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・

☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろ
うか? ほんとうにそうであるか?

12. つまり――唱題が それは称名念仏と同じようであって わるいと言おうと
するのではなく―― 仏性の発現は 人間の能力と努力〔のみ〕によって 実現する
ものなのか? という問いでもある。

13. 親鸞の言うには 念仏は 《非行非善(往生するための 修行ではなく善行
ではない)》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさ
らさら言っていない。




14. すなわち:
◆ (γ‐1)〔=α‐1 =β-1〕 大強精進経の中に衆生如来と同じく共に一法身
     して清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す
   
☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生
まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・と
いう意味は 人間の能力も及ばずというかのごとく一切の努力を超越して――自然史
過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがた
いことに 見ることになる。のではないであろうか? 宗派に関係なく。

15. 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは ほかの信仰の場合と――梵我一
如の類型を共有して――同じであり 互いにそれぞれが真実の神であるのではないか? 
普遍神のことではないか? なぜ分派をみづからつくる党派を成すのか?