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お早うございます。
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
◆ (御義口伝巻下) 〜〜〜〜〜〜
http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=752&gn=%E5%BE%A1%E7%BE%A9%E5%8F%A3%E4%BC%9D%E5%B7%BB%E4%B8%8B&a1=34&a2=61&re=&pl=&c=10&p=1
日蓮所立自寿量品至開結二経
寿量品廿七箇の大事
文句の九に云く
如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり
別しては本地三仏の別号なり、
寿量とは詮量なり、
十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す
故に寿量品と云うと。
御義口伝に云く
此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり 神力品の付属是なり、
如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり
別しては本地無作の三身なり、
今日蓮等の類いの意は 惣じては如来とは一切衆生なり
別しては日蓮の弟子檀那なり、
寿量品の事の三大事とは是なり、
六即の配立の時は 此の品の如来は 理即の凡夫なり
頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時 名字即なり、
其の故は 始めて聞く所の題目なるが故なり
聞き奉りて修行するは 観行即なり
此の観行即とは 事の一念三千の本尊を観ずるなり、
さて惑障を伏するを 相似即と云うなり
化他に出づるを 分真即と云うなり
無作の三身の仏なりと究竟したるを 究竟即の仏とは云うなり、
惣じて伏惑を以て 寿量品の極とせず
唯凡夫の当体本有の儘を 此の品の極理と心得可きなり、
第二如来秘密神通之力の事
御義口伝に云く
無作三身の依文なり、
此の文に於て重重の相伝之有り、
神通之力とは 我等衆生の作作発発と振舞う・・・
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☆ つまりは 本地無作(もしくは本有無作)の法報応の三身なる存在がいると言う。
無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、
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☆ それにしても なんで日本語で表わさないのでしょう?
そしてこの質問ではすでに《南無妙法蓮華経》を 法身のブッダとして 《真理にひとしい・真実の神》と名づけています。
そのダルマの場ないしチカラを言うときに 神と呼んで捉えたほうが うんと早いし 分かりやすいと考えられます。
すなわち本地が無作――つまり 自然法爾(じねんほうに)――であるゆえに 朽ちることのない真理としての神であると。
そしてこれを《南無妙法蓮華経》とも ここでは 言いかえているのですが 問題は
◆ 無作の三身とは 末法の法華経の行者なり
☆ というふうに――確かに存在を身につくっているからには 応身のブッダだとも見られうるでしょうが それにしても問題は―― 日蓮(有名人は 呼び捨てがふつうです)というひとりの人間が この法身のブッダであり 真理であり神である。と言ったことになります。
ここでしょうね 問題は。
おそらく かんたんに済まそうとするなら ブッダと神とは違うと言えばよいかに見えるのですが。
だったら けっきょく《ブッダ》とは何か? の問いに哲学として答えなければならないでしょうね。
人間のことではないか? なら それが法身として真理でもあると定義して使ってもよいはず。だけれども 人間である日蓮が この法身であり真理であり神であるブッダであるというのは くるしい。でしょうね。
■ 無作の三身とは、久遠元初自受用身の“仏”を指す。
☆ とおっしゃっていますが。
ずばり
すなわち 法身の――また本地無作の法報応の三身としての――ブッダであるとすれば
○ 理即や名字即から究竟即までの段階など関係なく――あるいはまた
無明と明知との区分などはいっさい関係なく―― 初めから
神としてのブッダである。
となります。それでよろしいですか?
神としてのブッダと人間とのあいだには もはやいかなる想定も妥当性のある存在としておこなうことは出来ないはずです。
人間が 有限の程度問題としての高い段階であるブッダに成ることは出来ると言えましょうが 神としての(法身としての)ブッダであることは かないません。
もし 人間であると同時に法身であり神としてのブッダでもあるとすれば そういう想定は 人間イエスが神なるキリストであるという場合です。
もしそういう想定に踏み込もうということでしたら それ相応の――物語としてながら――理論としての整理をしておかねばならないでしょう。