caguirofie

哲学いろいろ

人生におけるめぐまれ

【Q:人生は 互いにひとしい価値の交換ではないのでは?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa9058732.html

A№2

恵みという考え方は、本来大地の恵み、太陽からの恵みなどなど、この自然全体から人間が受け取っているものに対して言われるもので、これすらも見直しが進んでいるのが巨大な力を得てむさぼりすぎた今の文明です。自然全体から見ればローカルな人間関係の中でそいういう考え方をするのは新鮮ではありますすが、ちょっと違うのかな、とも思ったりします。
もちろんそのひたすら謙虚な思想が普遍化されれば、人間世界はどれほど住みやすくなることかと思いますが、人間は傲慢、自分主義的なな生き物であり、これは一朝一夕ではなおりませんし、多くの別の考え方があるので、それが一般になる可能性は少ないでしょう。

経済行為は少なくとも、持ち出しの一方では成り立ちません。交換、あるいは贈与という概念から始まったのですから、基本的にプラスマイナスゼロでなくては成りません。その後貨幣が導入されて、バーチャルな利益主義に毒されてどんどん全体が無駄に膨らんできた、その辺りに問題があるのだろうと私は睨んでいます。

自分が常に負い目を感じて、ひたすら他者への貢献を考えるのは、一見素晴らしい考えですが、やはり実践的ではなくマイナーで収縮的なな宗教でしかないでしょう。もっと普遍へ戻って胸を張り、自信を持って合理的に始めなければ多数の賛同は得られないのではないでしょうか。

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ふうーむ。なるほど。わたしの側から言えば 誤解をあたえる書き方をしていたと いま思います。

 つまり 問題は――言おうとしたことは―― ひとえに《振り返ってみてわが人生は めぐまれていたんだなぁと思い返すことが多い。あるいは 多少はある》ということであり そのあと この《めぐまれ》の地点を出発点とするのもよいのではないか。でした。

 力点は 最初のものとしては 過去への感慨であり そのありがたみを感じることにあります。
 負い目という言葉を使ったことも どうもマチガイであったようで ありがたさであり めぐまれの問題でした。

 あるいは その時々の持ち出しも 考えてみればそれら以上のものを 社会からあたえられているといった思いもあるわけです。
 帳尻は合っているゆえに めぐまれです。


 
 ですから 《謙虚主義》でもなければ まして《犠牲志向》ではないと考えます。
 もっと言えば:
 ★ その後貨幣が導入されて、バーチャルな利益主義に毒されてどんどん全体が無駄に膨らんできた
 ☆ というその世界にわれわれも位置しているし そのおこぼれをさえもらって棲息しているのかも分からないわけです。

 つまり そのような大きなツナミをまぬかれるすべは 一人ひとりの人間にはほぼ無いと考えられましょう。
 言うなれば こういった或る意味で不可抗力の世界の流れの前に・その中にいて わざわざ:
 ★ 自分が常に負い目を感じて、ひたすら他者への貢献を考える
 ☆ という一見すると殊勝に見える行き方をとるというのではないのです。


 ただし・もっとも そのとき:
 ★ もっと普遍へ戻って胸を張り、自信を持って合理的に始めなければ多数の賛同は得られないのではないでしょうか。
 ☆ という考えについては こう思います。:
 つまり この場合の《普遍》が 人生におけるわづかのことであってもその《めぐまれ・ありがたさ》に思いをめぐらせるような気持ちにこそ――それこそ 《非合理的に》――ある。のではないか。とも考えています。

 気持ちのほうが 普遍的な基礎となるのではないか。
 そういう資本主義論です。




 ★ 人間は傲慢、自分主義的なな生き物であり、これは一朝一夕ではなおりませんし
 ☆ わたしのこういった思い上がった心の側面 そして人びとの同じくこの《よくもわるくも とにもかくにも強く生きようとする心》の側面について これらをわが《めぐまれとありがたさ》の内にそうっとつつみ込んで互いに胸を張れるホモ・エコノミクスにまで揚げてふるい自分たちは棄てて行こう。という路線です。

 《むさぼり》が無くなるとは思っていません。少しは良質のホモ・ムサボリクスになれればと考えます。

投稿日時 - 2015-10-06 10:23:37

中日関係者が心配する谷繁監督と小笠原二軍監督の“冷たい関係”

東スポWeb 10月6日(火)6時0分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151006-00000004-tospoweb-base
・落合GMが問題であるらしい。