caguirofie

哲学いろいろ

シュウキョウ批判

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
そもそも《宗教》とは どういうことか? 
個人の信仰と集団としての宗教とは 似ても似つかないしろものであるというのが 趣旨です。




 1.
 宗教の発生の過程をどう捉えるかという視点に立ちます。

 2.
 アニミズムとは なにか?

 人間には 広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき人と人との関係性を この宇宙の中で持っていると考えられる現象が見受けられます。その昔 アイヌの間でこういうことが起こったそうです。

  一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
  巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た
 してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。

   ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし
    の体を重ねてみる。
     そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに
    あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。

 おそらくこの現象は 非科学的であっても 反科学的ではないでしょう。
 神体山であるとか神木とよばれた樹木 これらにひとが身心ともに寄り憑くというのは ふつうに素朴に 原始心性だと捉えます。その山の石や木が神との交流の依り代になっているということのようです。
 人間の自然本性にそのような《交感 correspondance 》のはたらく余地があったのだと思います。アニミスムともよびますよね。

 2.
 アニミズムからのへそ曲がり。としてのシャーマニズム

 ところがこれをいいことに そこからは 自分でこのアニミズム交感なる現象を操作しようとする動きが出ます。シャーマンです。
 何か身のまわりのことでも或るいは広く共同体全体のことでも 揉め事があったり衝突なり戦争があったりすると もはや初めのアニミストたちの素朴な対処法ではなく そうではなく このシャーマンの出番となったという場合です。

 何が何でも 自己の努力によって 自己の意識を突き抜けて 何ものかの世界――つまり言わゆるかみがみのでしょうか――に身を置き さらにそこから 何らかの答えを得て戻って来るというのが シャーマニスムです。
 占いのようなものです。

 3.
 さらに時を飛んで 《時間的存在》としての人間の誕生。

 やがて あたかも初源のアニミスムの自然性を取り戻してのように しかも新たな心性を 人は獲得したと思われます。単純にそれは 時間の獲得によるものでしょう。
 農耕をとおして・つまり麦なり稲なりの栽培の過程をとおして・つまりその種蒔きから穫り入れまでの時間の経過をとおして 自己も 時間的な存在であることを知ります。

 要するに 自分たちは老いると ただ倒れるのではなく眠るのでもなくそうではなく死ぬのだという認識を得たことがからんでいるはずです。時間的存在であることは その心性を高めて 精神および身体において 《歴史知性》を獲得したと考えられます。世界の内へ その時間的存在なる自覚において 入った。

 4.
 ここまでの経過とその後の転回をも交えて 整理すると 次のようです。
 
 −1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り
 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
     社会力学上(政治的に) 寄せる。

 ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では なぜ 最後にヨセが 出て来たのか。ここでは これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言ったりします)。そして これが 宗教の始まりです。

 5.
 歴史知性を獲得したひとの抱く信仰。

 言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミスムの要素を備えているでしょうから(つまり むやみに捨て去ることはないでしょうから) その非科学的な心性として いわゆる信仰をも持ち得ます。単純に 超自然のちからを かみと呼んだことでしょう。

 これが ふつうの知性のあり方だと考えられます。経験世界を超える場については 個人として・あくまで個人の主観内面において その神とよぶむしろ非対象をいだいた。という信仰。

 6.
 さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。

 単純に言えば ヨリ・アニミスムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神との共生をふつうの社会的な(村の)人生としており 実際に或る種の儀式として 神との共食を持ちます。つまり 食物の収穫に感謝し供え物をして 共に味わうわけです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。どんちゃん騒ぎをもともないます。

 ヨセは このマツリを 一段高いところから(ふつうのイリ歴史知性を超えたところの精神において) 《まつりごと》として制度化したというものです。マツリゴトとは 個人の信仰を束ねる宗教であり政治です。

 7.
 古事記には こうあります。

   その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメのミ
  コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。
  
 四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には九州のクマソもしくは半島の新羅を討つというくだりで出て来ます。
 これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして 違いは すでに人びとは一般に イリ歴史知性なる有限な存在としての自覚を持ったあとだということです。かくて ヨリ・シャーマニスム+イリ歴史知性で ヨセなるスーパー歴史知性の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。



 8.
 《ヨセ》なるスーパー知性とは何か?

  《一段高いところから(ふつうのイリ歴史知性を超えたところの精神において) 村々のマツリを寄せたばねた》というのは そのように《神のごとくいかなるものの下にも立つまいと堅く誓った知性であり人間精神である》と考えます。

 つまりは その昔のシャーマ二ストは まだ人びと(アニミスト)と同じ地平に立っていたところがありますが このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌ったようです。
 嫌ったので 強引に社会のいわば第二階に みづからアマアガリして行ったのか それとも人びとが その新型シャーマンに辟易してこれを敬遠し 人びとの合意で これを社会の神棚に据えてまつることでもしてやろうと考えたか いづれとも推し測られます。(《国譲り》説は 後者です。社会が 二階建てになりました)。

 9.
 要するに ここに 神の代理が 出現しました。

 村における人びとの見えない神との共食(供え物をしてのまつり)が 村々をたばねた統一集団として一段高いところからおこなう・見える神との共食(貢税を伴なうまつりごと)になったという話です。これが 宗教の始まりを説き明かす一つの歴史事例(そのたとえ話)だと考えます。

 《神の代理》を名乗るという要素は シュウキョウ一般に共通です。

 要するに 一人ひとりがそれぞれその心の内に おのれの神を抱き きよらかなおそれを持ってこれをとうとび人生を生き切ればよいものを いちいちわざわざこの個人の信仰をおれがおしえてやろう おれの言うことを聞けと言って オシエを垂れる。そのオシエに対する従順さの度合いに応じて人に権限を分け与え その集団をヒエラルキアなる組織につくり上げる。こうしてあたかも一個の国家のごとく人びとに対して君臨する。

 10.
 宗教カテゴリを立てるということは せいぜいこのニックキ宗教についての批判をすることくらいでしょう。意義があるのは。そしてそれなら 哲学カテでじゅうぶん行なえます。
 
 11.
 《神の代理》との共食なるマツリゴトとしての共同自治の制度 これは一般に 国家という形態です。ヒエラルキアないし教会なる組織も国家のようなものです。信教・良心の自由なる公理をいいことに その宗教組織には政治権力は手を出すなとさえ言おうとしています。マツリゴトが 政治と宗教というふたつの国家に分かれただけです。このような結社の自由とは いかなる意義があるか?

 国家あるいはヒエラルキア国家は やがて歴史的に しかるべく揚棄されていくことでしょう。捨てられて行きます。わたしたちは 永く働き蜂に甘んじていたというわけです。いまはすでに慣性の法則で存続しているのみです。つまり 死んでいます。
 イリ歴史知性の回復 万葉集いや億葉集のルネサンスを迎える未来しか来ないでしょう。


別論

(1) アニミズム

 人間には 広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき人と人との関係性があり 確かにこれを この宇宙の中で 持っていると考えられる現象が見受けられるようです。その昔 アイヌの人たちの間で こういうことが起こったそうです。

  一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
  巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た
 してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。

   ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし
    の体を重ねてみる。
     そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに
    あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。

 おそらくこの現象は 非科学的であっても 反科学的ではないのでしょう。
 神体山であるとか神木とよばれた樹木 これらに身心ともに寄り憑くというのは ふつうに素朴に 原始心性だと捉えられます。人間の自然本性にそのような《交感 correspondance 》のはたらく余地があったのだと思います。アニミスムともよびます。





 (2) シャーマニズム

 これをいいことに そこからは 自分でこの現象を操作しようとする動きが出ます。シャーマンです。
 何か身のまわりのことでも或るいは広く共同体全体のことでも 揉め事があったり衝突なり戦争があったりすると もはや先ほどのアニミストたちの素朴な対処法ではなく そうではなく このシャーマンの出番となる場合です。
 何が何でも 自己の努力によって 自己の意識を突き抜けて 何ものかの世界に身を置き さらにそこから 何らかの答えを得て戻って来るというのが シャーマニスムです。

 言ってみれば 何でもいいから 自信を持って・また人びとが確信を持てるように 《正解》を言い放つ。そういう役目です。人びとのためにではあるのかも知れません。





 (3) 時間的存在たるヒト

 さらに時を飛びます。
 やがて あたかも初源のアニミスムの自然性を取り戻してのように しかも 新たな心性を 人は獲得したと思われます。単純に それは 時間の獲得によるものでしょう。
 農耕をとおして つまり麦なり稲なりの栽培の過程をとおして つまりその種まきから穫り入れまでの時間の経過をとおして 自己も 時間的な存在であることを知ります。

 要するに 自分たちは老いると ただ倒れるのではなく・また眠るのではなく そうではなく 死ぬのだという認識がからんでいるはずです。時間的存在であるということは ひとの心性を高めて その精神および身体において 歴史知性を獲得させたと考えられます。世界へ その時間的存在なる自覚において 入った。《世界‐内‐存在》。



 (4) 歴史知性の獲得

 ここまでの経過とその後の転回をも交えて 整理すると 次のようです。

 
 −1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り
 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
     寄せ 世界を社会力学上(政治的に) コトヨセル。



 ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では なぜ 最後にヨセが 出て来たのか。


 (5) 歴史知性のさらに上をゆくもの

 ここでは このヨセなる知性は 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言ったりします)。そして これが 宗教の始まりです。

 言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミスム自然本性の部分を備えているでしょうから(むやみに捨て去ることはないでしょうから) その非科学的な心性として いわゆる信仰をも持っています。単純に 超自然のちからを かみと呼んだことでしょう。


 さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。




 (6) イリ歴史知性の中から出たヨセ超歴史知性

 単純に言えば ヨリ・アニミスムをも備えたイリ歴史知性は その信仰において 神との共生をふつうの生きるすがたとしており 実際に或る種の儀式として皆で 神との共食を持ちます。つまり 食物の収穫に感謝し供え物をして またこれを共に味わいます。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。また どんちゃん騒ぎです。


 ヨセは このマツリを 一段高いところから(ふつうの歴史知性をあたかも超えたところの精神において) 集団としてのマツリゴトなるかたちにおいて 制度化したというものです。マツリゴトとは 個人の信仰を束ねる宗教であり政治です。

 古事記には こうあります。

   その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメのミ
  コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。
  
 四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には 九州のクマソもしくは半島の新羅を討つというくだりで出て来ます。

 これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして 違いは すでに 人びとは一般に イリ歴史知性なる有限な存在としての自覚を持ったあとだということです。かくて ヨリ・シャーマニスム+イリ歴史知性で ヨセなるスーパー歴史知性の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。



 (7) マツリゴトが シュウキョウである。

 つまりは その昔のシャーマ二ストは まだ 人びとと同じ地平に立っていたところがありますが このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌ったようです。社会が いわば平屋建てであることを嫌ったようです。

 嫌ったゆえ 強引に・しかもそのヨセ超知性は 学力優秀かつ品行方正であったところそのアタマの高さに応じて 社会のいわば第二階に みづから上がって行ったのか。それとも 人びとが その新型シャーマンに辟易して これを敬遠し 人びとの合意で これを社会の神棚に据えてまつろうということにしたか。いづれとも推し測られます。(《くにゆづり》説は 後者です。社会が 二階建てになりました)。


 要するに ここに 神の地上における代理が 出現しました。見えない神との共食(供え物をしてのまつり)が 見える神との共食(貢税を伴なうまつりごと)になったという話です。これが 宗教の始まりを説き明かす一つの歴史事例だと考えます。



 (8) こぼれ話

 ・ マツリゴトは いまでは 政治と宗教との分離というかたちにおいて しかも全体としては事寄せられまとまりを持ったひとつのマツリゴトたるアメリカ教とか日本教とかなる姿を見せつつ 生きているように見られます。ロシア教なり中華教なりウリナラ教なりは 群を抜いて突出したマツリゴトであるのかどうか。
 
 ・ ニーチェは 話になりません。神の代理とその権威の下に作られた宗教 つまり 宗教の教義の神(つまり これは 観念です)に対して 無駄なけんかをふっかけているだけです。つまり このオシエなる神は 初めから 死んでいます。マツリゴトなるシュウキョウのカミは 人間が勝手につくった神だからです。

 国家が 社会秩序のために必然的に形成されたというならば このシュウキョウも 必要悪なのでしょう。そうであるかどうか。

 ・愛とは 社会における人びとのあいだの ふつうの共生のことであるでしょう。
 見えざる神との共生も 個人にあっては 信教・良心の自由において 伴なわれ続けていることでしょう。

 神の代理との――すなわち見えるカミとの――社会的・国家的な共食は やがて歴史的に しかるべく揚棄されていくことでしょう。
 わたしたちは 長く永く 働き蜂に甘んじていたわけです。
 イリ歴史知性の回復 その万葉集いや億葉集のルネサンスが待っているということではないでしょうか。