動態としてのさとり
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
何も覚っていない
修行中こそが覚りだと考えるのもどうかと思うので
回答してみます。覚りは現在なのか、過去なのか。
覚る。なのか、
覚った。なのか。ゴータマ・ブッダは覚る人なのか、
覚った人なのか。それで、なんとなくウィキペディアの曹洞宗の項目を見たんです。
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曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と異なり、「修証一如」(無限の修行こそが成仏である)という道元の主張に基づいて「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら坐禅すること)をもっぱらとし、臨済宗のように公案を使う(悟りのための坐禅)流派も一部にあるが少数である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%B4%9E%E5%AE%97
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無限に修行こそが成仏というのは、
どうなんでしょうか。この考えを採用すると、べつにゴータマ・ブッダの
覚りに内容が無くても、仏だといえてしまうでしょう。たぶん。でも、覚りがいつまでも、過去にならないと思います。
発想が現在形というか現在進行形というか。無限の修行が覚りなら
これでは、覚りが過去にならない。覚った人とは言えないのではないか?
そんなことを考えていたら
なんとなくゼノンのパラドックスを思い出しました。飛んでいる矢は止まっている、とか
アキレスは亀に追いつけない、とか。道元はアキレスみたいに、いつまでも亀に追いつけない。
なんて言ったら怒られそうですけど。それからついでに、
過去とか現在とか考えていたら既視感とか、未視感とかそんなことを
考えたりしました。つべこべいわず、坐禅していればいいんだ。
とにかく修行。という結論になるのもなんだかね。
人力飛行機とか自転車操業みたい。死んだら修行は出来ないから
死んだら仏になれない気がする。どうだろう。
応答
★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
死んだら修行は出来ないから
死んだら仏になれない気がする。どうだろう。
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☆ つまり ブッダ修行は 動態であるのだという見方でしょうか。つまり このいま・ここなるわたしの――したがって つねに現在時として歩み行くところの――生きた動態でなくて 何が《さとり》であるものかと。
○ 永遠の現在
という命題(実践課題)にまで到りましょうか。
このさとりを ゴータマ氏が成就したかどうかは まだ何とも言えないと思うのですが。★ という結論になるのもなんだかね。 / 人力飛行機とか自転車操業みたい。
☆ これでいいんぢゃないですか。人生 一歩一歩なのですから。それなら さとりに中身があると言えるかも知れません。
すなわち
★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
それからついでに、
過去とか現在とか考えていたら既視感とか、未視感とかそんなことを
考えたりしました。つべこべいわず、坐禅していればいいんだ。
とにかく修行。
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☆ すなわち○ 現在時における過去にかかわるような既視感(デジャ・ヴュ)は すでにそのふるさとにわたしはいたのだという・そのマボロシを見たという ようなことでしょうか。
○ 現在時における未来にかかわるような未視感(ジャメ・ヴュ)は いままでに見たことのない風景が広がって見えるのなら それは いま現在を《ただただ坐禅(≒社会的活動全般)に生きる》とき ふと世界が開けるといったことを言うのでしょうか。世界の明けといったような。
でしたら これらの《わが自然本性における〈ふるさと〉の既視感》も《あたらしい世界の明けなる――わが自然本性の衣替えが成されて行く――未視感》も あたかもわが心なる《非思考の庭》におけるドラマが 開幕したことを告げている。
つまり 信仰としての――その動態としての――さとり でしょうか。★ 《無限に修行》こそが成仏というのは、 / どうなんでしょうか。
★ 《何も覚っていない / 修行中》こそが覚りだと考える
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この考えを採用すると、べつにゴータマ・ブッダの
覚りに内容が無くても、仏だといえてしまうでしょう。たぶん。でも、覚りがいつまでも、過去にならないと思います。
発想が現在形というか現在進行形というか。
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☆ それでしたら さとりに《中身》があります。みとめなければなりません。脱帽します。それにつけても ゴータマ自身は どうだったのでしょうか?
分からないけれども そのまだ言うとすればペテンまがいの振る舞いや説法をつうじて いまこのような《さとり=動態》説を得たのだから おおきくはブディズムの流れに乗っているということでしょうか。ゴータマ氏の怪我の功名であろうか。
いや それをこそ はるか昔にゴータマくんは のぞみ見ていたというのであろうか。○ 只管打坐
つまり坐禅というのは タトエとして扱い 人おのおのの人生における仕事と務めに地道にあゆむことを さとりの動態として言っている。でしょうか。
あとは ヒラメキとしての贈り物を受け取ったがごとく未視感において広がるあたらしい風景・あたらしい世界 これを 理論構築をもしつつ 実践する。
これなら――その具体的な中身は ひとそれぞれに応じて決めればよいのですから―― 中身をともなった《さとり》説ですね。いわば実存思想としても受け留めることが出来そうです。その現在時において――永遠の現在として推移するかのように――つねにわが心と意志のありかにもとづき 一歩一歩地道にあゆむのだ。これよりとうとい思想は ないでしょうね。
怪我の功名・ペテンの効用 と言うべきではないかという疑いをゴータマ氏にはまだ持っていますが 中身のある《さとり=動態》説には まいりました。
心のあり方として あたまを丸めます。