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哲学いろいろ

煩悩即菩提について

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1. ゴータマ・ブッダと呼ばれるようになった男は 文字通り《苦:ドゥッカ:思うようにならないこと》から出発します。



2. 生老病死と言い 特に――われわれには奇異に映るのですが――生を苦と規定しました。

3. 苦の原因は 煩悩あるいは無明です。

4. これを解釈するに 《人間の根本的な生存欲》だと捉えられています(宮元啓一)。つまり 《生》の苦に合わせた恰好〔の一解釈〕です。

 





5. ところで ゴータマ氏は この上なくとうとい智慧のさとりを得たと言い これを《ブッダ(目覚めた)》と表現しましたが ブッダター(仏性)は説いていません。如来蔵(タターガタ・ガルバ)から発達した概念です。

6. ブッダなる状態になれば もう輪廻転生しなくなる――生苦から自由になる――とさえ言ったし そういうかたちでさとりの状態を説明します。

6-1. 身分制のもとにくるしい生活を送る人びとへの精一杯の応援歌のごとく。

7. すなわち:
▲ (スッタニパータ) ~~~~~~~~~~
http://hosai02.la.coocan.jp/dammapada-01/suttani …

第一 蛇の章    
1、蛇

1  蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
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7-1. 《生》苦からの解脱とは 《この世とかの世とをともに捨て去る》ことだと言います。表現としてだけでも。

7-2. ニルワ‐ナ(涅槃)とは 《ろうそくの火が消えかかったような状態》を言うらしく ヨーガの修行は 根本的な生存欲を消し得たかのようにかろうじて日々を生きている状態を目指すようです。




8. しかるに 後世のブディストは 《ブッダター(仏性)》を推し出しました。

8-1. けっきょく ゴータマ氏が批判したブラフマニズムの説く《アートマン(霊我)》と同じ概念なはずです。

8-2. つまりまた 《有る神》としての信仰の領域に入りました。かんたんに言って ゴータマ・ブッダは 無神論です。

8-3. ですから インドでは いくら《ブッダター》のとうとさを説いても 人びとがよく馴染んでいる《アートマン》と同じであり 信仰として《梵我一如》という定理があるのですから 流行りません。



9. かくして 《一切衆生 悉有仏性》とあらたに――ブディズムとしては 《苦》の扱いを教祖から微妙に離れて――看板を書き換えました。

9-1. すなわち 梵我一如にならって 仏仏一如としてのごとく:
梵:ブラフマン・・マクロコスモス・・仏(法:ダルマ)
我:アートマン・・ミクロコスモス・・仏(人:仏性)

煩悩即菩提;生死即涅槃;〔無明即明知〕。
本覚思想
即身成仏;即得往生
娑婆即寂光土(浄土)

10. 《理性的なものは 現実的であり 現実的なものは 理性的である》といったような理念の問題としてあり得るかも知れないし また 人知を超えたところを扱うのならば 主観としての神観つまり特殊絶対性の問題として捉えることが出来るかと思います。

11. 同じヘーゲルの次の世界観によると いくらか経験世界の現実として受け取ることが出来るかとも考えます。

▲ (ヘーゲル:無限と有限) ~~~~~~~~~~~
無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は 

どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない 
ないしはこれを 我慢できないであろうが 

この矛盾を持ちこたえることができるのが
人格(☆ ――もしくは《わが固有の時間》――)の高さである。

(『法の哲学』§35追加(講義録)藤野渉・赤澤正敏訳 1967)
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11-1. 煩悩ないし無明と 菩提ないし明知との一体性なる矛盾!?!?
・・・

☆ おあとがよろしいようで。

№3です。



12. ★ (№3お礼欄) 7-1.によると、無煩悩無菩提が、開祖の意味した覚りなのでしょうか。

☆ ゴータマ氏は アン‐アートマン(無‐霊我ないし無我)をとなえました。

13. 動機としては カースト身分制にくるしむ民衆の心を思ってのことだと見ます。そのように身分がいくら次の世へと輪廻転生してもいっさい変わらないと説いたブラフマニズムをゆるせなかったかと。

14. 身分一定は 業(カルマ:なされた行為)によって決まるというとき 階級制の枠を超えてではない。そこをゴータマは 生まれによってではなく何をおこなったかのカルマによって四姓の枠をも超えられると説いた。

15. アートマン〔をとおしてのブラフマンの〕信仰を目の敵として 《無我》を言い放った。〔ブッダの法(ダルマ)への信仰は のこされていたようにも見えますが〕。

16. 無我説のオシへによって得られる最大の結果は 《二度とこの世に生まれて来ないこと》です。この世の生は 苦ですから。

17. ですから この《無‐生》という意味で 《無煩悩無菩提》をふくめていたかも知れません。




18. ★ 9-1.に挙げられる本覚思想は、wikiによると煩悩即菩提と結びつけては成らないとあります。煩悩と菩提とは、あくまで紙一重で分かれてあると。

19. 後世のブディストたちは 《苦の先行》説をひっくり返しました。
アートマン命題に対して反対する師匠のアン‐アートマン説 これはブッダの生命(または ダルマ)といった高いところに揚げて 棄てました。手にしたのが ブッダター論。

20. 《一切衆生 悉有仏性》なる命題が すべてに先行します。すなわち 《ひとは生まれたままですでにさとりを得ている》という本覚思想です。

21. ただこれによると 何もせんでもよいだとか事なかれ主義だとかにつながり得ます。なら 仏性も菩提心も その欠片もへったくれもないとして 毛嫌いされさげすまれてしまいます。――そういう問題だと思います。

21-1. 批判者が そういった批判の対象となっている状態としての生臭坊主であるかも知れない。

22. 問題は 苦の以前に煩悩や無明より先に 仏性が来るんだという神観ではないかと思われます。





23. ★ 11-1.煩悩と菩提の一体性の矛盾を合一して、アウフヘーベンするのでしょうか。
☆ それは アンチ・ブッダター(仏性)論だと思います。つまり アン‐アートマン(無我)論としてのさとりでありその修業説でしょう。

24. そうではなく 仏性先行論によるなら すでに旧来の説にいう二項対立をアウフヘーベンし終えた状態で生まれて来ているわけです。

25. 菩提は 生命体の生命であり自然本性いっぱいの人間の能力です。
煩悩は 人間の意志が自己表現するあらゆる発言と行動を――欲望の視点から捉えた――すがたです。

26. 人間の知性も努力も 限りあるチカラでしかないわけですが それでも――仏性ないし本覚というからには―― おそらく薄暮のひかりでしょう。

27. やがて消えゆく薄暮の光とは言え 光は光です。あらゆる煩悩や無明なる振る舞いについて 或る程度は自治できます。煩悩と菩提の一体性の矛盾を我慢できます。さらに助け合っていくらかは共同自治してゆくことができます。

28. といった常識論に落ち着くのではないでしょうか。問題は鍵は ひかりが われわれみづからの心身の内にやどるといった――強引なながらの――命題にあると思われます。


29. たとえば:
▲ (親鸞) はからひ無きを 自然といふ。
▲ (同) 念仏は 非行非善なり。

☆ すでに即得往生しているゆえ さとりへと到る修行ではないんだ。何かさとりや往生を得るために善行をやらかそうとしているのではない。と。

29-1. 念仏によって往生できるという説は 法然です。ラッキーだったら 念仏をとなえてもよい それは自由だ。が 親鸞。(師匠に花を持たせて 念仏は継承した)。


30. わたしたちは つねにおしまいから始めるのだと思います。ゴルディアスの結び目は 知らないうちに解けていた。・・・