仮称の《信仰》がある
いわゆる聖典を持ったばあい 人びとはその《オシエ》をとうとび それを守って生活しようとする。
この生活態度またはさらには世界観にまで広がったそのオシエの探究 これが確立されて行くなら――つまりは要するに オシエをみづからの信条や信念にすることが出来たなら―― これを じつはあやまって 《信仰》と呼んでいる。に過ぎません。
したがってそのあやまった《信仰》という用語をそのまま受け容れて 成文化された聖典がない場合に反対しているに過ぎません。
すなわち聖典がない場合にも それでも むろんそこに繰り広げられる生活感としての世界観は人びとによってかたちづくられています。そしてその場合の生き方を 《信仰を持たない》とか《無信仰である》とか 言っているに過ぎません。
だとしたら それは 成文の経典や聖典におけるオシエのもとに生きる仮称としての《信仰》を 自分たちは持たないと言って じつはやはり仮称としての《信仰》を 別のかたちで 主張している。ことになります。
わたしたちは 《無信仰であり そのかたちで 人の道を生きようとしています》というじつは仮称としての《信仰》をとなえたことになります。
仮称でしかないということ。
《信じる》の信仰が ふつうの信仰です。そうではなく すでにオシエとして〔または無いオシエのもとに人の道として〕《考えるや感じる》をとおして持たれるものは 信念・信条・人生観・思想と呼ぶべきものです
両者は 似ても似つかない別のものです。
神は 信じるものです。神についてのオシエは すでに考えるものです。
《感じる》は インスピレーションとも呼ばれるヒラメキにかんする直感(ふつうの直感)や直観(これは本質的な理解をふくむということらしい)についてなら まづ《信じる》が大前提なのです。それ以外では ただふつうの五感による感性を言います。
参考:
○ 《信じる》は《考えるに非ず》の説明 〜〜〜〜〜〜〜
非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)
_______________________
思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
_______________________
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
* 《心の明け》とは いかなる思想やオシエ(つまり宗教)にも まづは《心を閉じていない》ということを意味します。《考えるにあらず》なのですから 《心を閉じようがありません》。ところが 《思考や感性》の場では 窓を閉めようとしたり さらには排他的になることがあり得ます。
ほんとうの――つまりふつうの――信じるは 言わば白紙状態(タブラ・ラサ)です。ならば 信仰は 万人に普遍的な現象です。仮称の信仰つまりあやまった信仰について 注意する必要があります。また あやまった信仰に対して ただ反対する姿勢において自己自身〔の生き方〕を規定するのは これも 注意を要するところです。