caguirofie

哲学いろいろ

純粋理性批判

イムマヌエル老師にちょっとは物言いを言いたい気分になりますね。
 ▼ 「両者を確実に区別しうる標徴とは、『それ以外ではあり得ない』という必然を持つことである」。
 ☆ 両者とは むろんアプリオリな認識とアポステリオリな認識とのことです。 
 それ以外ではあり得ないというのは アプリオリな認識のその内容について言っているのだと思います。

 では果たして
 ○ アプリオリな認識は アポステリオリな認識と違って 《それ以外ではあり得ない》内容であるか?

 おそらく 一面を言っているのだと考えます。
 すなわち そういう場合もある。そしてまた別の場合もあると。
 なぜなら
 (1) それ以外ではあり得ないというのは そう捉えるひとりの人の主観の問題だと思われるからです。

 (2) 認識内容つまり 経験思考の対象となる経験事象 これは 移ろい行かないということがない。不可変性は 持ち得ない。

 (3) けれども ヒラメキから得られたその思考内容としての認識は 本人にとって――その時その場その情況において―― いわば絶対的なと言えるほどの適宜性(ふさわしさ)を持つと思われます。と同時に それだけの話でもあります。

 (4) ということは 仮りにアポステリオリな認識を持って来ても その内容が――経験思考にかかわる内容として同じである限りで―― ときにはアプリオリな認識が持つ《絶対的と言えるほどの適宜性》を同じく持つことだってあり得る。こう考えられます。

 (5) 《絶対》の――わが心の内なる庭における――二重構造は きわめて微妙なものであります。《ゆめ・まぼろし》の《非思考の庭》そのものは ヒラメキの源泉です。ヒラメキを得てこれを言葉に表わしたなら それはすでに《うつつ》としての精神の緑野あるいは思考の平原ないし密林といった舞台に降りて来ていて あとは 言ってみれば《ゆめ・まぼろし》の庭とは もう隔たっていると見たほうがよいように思われます。
 二層構造と言ったほうがよいでしょうか。

 (6) ということは この《二層構造》は 言ってみれば《アプリオリな非思考の庭》と《アポステリオリな〈精神=身体〉的な思惟および行動の領野》とのとてつもなく広く深い海のようになっていましょうか?
 いや 海は どうでしょうか? 宇宙つまり小宇宙でしょうか? どなたかいいたとえがありましたら おおしえください。