西行
西行は どうか?
むろん 国家神道のもんだいではありません。あり得ません。ただし もともとそのような中央集権体制という要因としてなら 古代国家の成立にあたってすでにその《基体》が築かれていた。おそらく西行ほどであれば そのことにも留意するところがあったはずです。
たぶん こういうことでしょう。すなわち この古代国家としての中央集権制とそれにもとづくまさに伊勢神宮の創建については たぶんその力わざのことをかえって何らかの聖なる歴史の推進力やら統治力を伴なうものだと見たのではないか。
と言っても おそらくこのような諦観による見方は 西行その人にあっては 決して本意ではなかった。この十把一絡げにして上から人びとを束ね押しなべ敷きなべて治めるというやり方に 忸怩たるものがあったはずであろうと見ます。
なぜなら それゆえに――あたかものちの芭蕉がそうであったようにかどうかを別として――漂泊に放浪を重ねる旅をわが人生としなければならなかった。
おそらく最後の最後には 最終の最終には 権力体制のその奥に潜む何ものか聖なるなぞのちからを見ようとしたし 見たのではないか。
いくらか憶測を交えて こう考えます。