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哲学いろいろ

#111

もくじ→はてな061223

第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第六十三章b 聖なる徳なる魂の死〔とその復活〕は 目に見えない ゆえに〔むしろ〕 肉において存在する

――告白5・10――


《神の子の受肉》とは アブラハム(かれに共同主観が生起した)からイサクへ イサクからヤコブへ等々と代を経てダヴィデに至りそのさらに子孫である(この間 約二千年)ナザレのイエスは ひとりの人間 ちいさなものであり かれが 完全な人間となってのように 霊また愛なるやしろ資本推進力その存在となったとみなされたことを言う。
このやしろ資本推進力なる生命は はじめの人間アダムたちに かれらがりんごの木から採って食べたあと 《きみたちは どこにいるのか》(創世記3:9)と呼びかけた存在である。善悪を知る木( l'arbre de la science du bien et du mal )から実を採って食べ 得てしまったその時間知によって やしの中にあって罪の共同自治をおこなって生きていかなければならなくなった(創世記3:1−24)と 霊的な共同主観を受けて後史に立ったアブラハムには そのようにアダムからの前史が 解釈されてよみがえった。

  • 古事記》は そうではなく 国家という一やしろ形態の時代と観点からでもあるが それ以前の歴史を解釈し そのいわばアダムたちの前古代市民的な罪のやしろ共同自治を 国家による古代市民的な罪の共同自治方式に 書き替え塗り替えたのである。
  • 国家以前にも 《ヒトコトヌシ‐オホタタネコ‐オホモノヌシ》三一性思想の共同主観的な自治があったとしたなら これを 共同アマテラス語客観に変えた。S者らのやしろ資本推進力が 一つの観念の資本のもとにアマテラス語化され くにやしろ資本(またその主義)の中に 客観観念共同とそれによる自治のちからにふさわしいと考えられた。また そのようなS圏からA圏への上昇の流れが 国際的には ひとつの必然の過程であるかも知れないという見方のもとに その現在としては やむをえないという受け止めであったかも知れない。

そのアブラハムに 《三人の人が現われる》というかたちで やしろ資本推進力は 三つのペルソナの一体であることが 予表された。その第二のペルソナが 肉に造られ人間となったとうわさされた。もしくは ひとりの肉なる人間イエスが 推進力の第二のペルソナつまり推進力なる生命その存在になったと。肉において この生命の内なる人の秘蹟と外なる人の模範がしめされたが 人間キリスト・イエスは 第三のペルソナである聖霊に 譲歩したまうた。
《わたしを見る人は父(つまり 第一のペルソナ)を見るのだよ》(ヨハネ14:9)でありながら 《わたしが去らなければ 弁護者(つまり 第三のペルソナ)はお前たちのところに来ない》(ヨハネ16:7) なぜなら 《わたしに触れるな。まだ父のもとに上っていないから》(ヨハネ20:17)。
この第二のペルソナが 《神の子》である。アブラハムのときには さらにもう一段かまえるようにして この《神の子の受肉(人間となること)》は 保留されたのである。いわゆる我が国のシントウは 古事記が――国家A‐S連関体制の観点から書かれたとしても そのもとにも確保してしめしたように―― このアブラハムの前史‐後史のいわば二段構えをすでにはずしてのように 神の子オホタタネコをうわさすることによって キリスト史観として共同主観したのである。
これが コミュニスムの(インタスサノヲイスムとして・だからヤシロロジには触れないところの)歴史的系譜であるが この地上のやしろ史における神の国の進展過程である。ヒトコトヌシもオホモノヌシも みづからを空しくして人間となることはなかったとするなら それぞれ第一および第三のペルソナであると考えられる。そううわさするのである。これによって 実体をとらえたと思ってはならないであろう。こういうふうに 三位一体の生命・やしろ資本推進力なる存在を語る。この語りにかんしては どこまでいっても おとぎ話のたぐいである。


わたしは 人間であり 何の某であり やしろにおける理性的動物である等々というのは わたしの本質(存在)について言ったことばである。一般に神とよばれてきたやしろ資本推進力は 生命・力・知恵・道・愛・義とよばれるのは その本質を言っている。かれは 真実で一つの霊であると考えられた。おとぎ話でしか語れないので 霊と言うし 霊である。
わたしは 父親であるとか子であるとか 王であるとか臣民であるとか 社長であるとか何々大学の学生であるとかというのは 関係としてわたしを言っている。ひとりの人間であるわたしが わたし一人で 自分に対して関係的に 同時に父であり子であることはできない。だから 我れは父なりとか子であると言うのは だれだれの何々ということであり 人との関係・つながりにおいて 規定して言っている。
けれども わたしの精神は あたかも記憶の倉庫から或る視像もしくは思念を取り出して これを知解する。記憶の視像とそれを知解したところの視像とを あたかも第三の行為能力たる意志によって結びつけて わたしはこれこれの行為をなす。〔知ることと思う(意志する)こととは 別である〕。記憶が知解を生んだわけではなく 両者あるいはいづれか一方の行為能力が 第三の意志を生んだのでもない。けれども ここで このわたしの中で《父》と《子》とそして《両者の交わりであるような愛》が存在するようにみえる。
わたしが記憶しており知解し愛するのだが これら三行為能力の一体性の主体として わたしの中に 生む父と生まれた子と両者をつないでいる意志が存在するようにみえる。しかし このわたしは 悲惨であったり時に浄福であったり むなしくされたり虚偽を持ったり真実であったりする。また 母(母斑)の中にそのまま生きていたり それをのり越えていたりすると考えられる。わたしは 動態であり過程であると考えられる。
そのわたしが何かによって生き動き存在するとおもうなら この過程に前史と後史との動態があると考えられる。この歴史に 三一性主体の動態として或る方程式(みち)が存在すると見られる。このみちが人間に存在するとする限りで――しかし 人間・市民という存在を 或るA語共同客観観念によって覆い いわばどれいとして扱い 支配しようというその欲望によって支配されている人びと(もっぱらのアマテラス者)が この人間に本質的な・人間がしたがわなければならないというみちが存在すると説いてきたのだ そうではなかったか―― したがって人間にみちが存在するとするなら すでに言った真実で一つの生命なるやしろ資本推進力であらねばならないであろう。
人間は人間であり一個の何の某という存在であると言うかぎりで そのように本質的にとらえなければならない限りで そう考えられる。もしこの線で論議を発展させるなら 本質として一つの推進力は 同じそれ自身において 関係的に 子の父と父の子と父と子とのまじわりである聖霊という三つのペルソナがあると言われるのは より一層ふさわしい。これを否定するには はじめの前提の線を否定しなければならない。

  • この人間にはわけの分からない霊の存在だという推進力は その単一の存在において 《子の父》と《父の子》と《父子のあたかも交わりから出る意志(愛)》という三つのペルソナが捉えられ しかも この三つの位格が一体だと言う。

さて おとぎ話である。いわゆるシントウが 正当にも・あるいは偽って 人は神になれるとうわさしているとするなら 人がこの三位一体なる推進力を分有するというばかりではなく 推進力そのものになったとうわさするのは ゆるされないことではない。《人は神になれる》というかぎりで 人間イエス・キリスト(推進力)であったと言うのは その第二のペルソナにおいてであると考えなければならない。父なる第一のペルソナは 創られずして創る存在であるが 人間はみづからを生むことはないから。父なる第一のペルソナが 第三のペルソナ聖霊を発出しやしろに生きる人間に派遣したまうと考えられるとき――第二のペルソナ=子も この地上に派遣されたまうた―― この愛は わたしに派遣され宿りたまうのであって はじめにわたしが愛であるのではないから。
子なる第二のペルソナの父が わたしたちの父であると考えられる。この《キリストに似る者となるであろう》(ヨハネ第一書簡3:2)と言われたのである。

愛する者たち わたしたちは 今すでに神の子ですが どのようになるかは まだ示されていません。しかし 御子が現われるとき 御子に似た者となるということを知っています。なぜなら そのとき御子をありのままに見るからです。
(同上=ヨハネ第一書簡3:2)

聖徳太子(その信仰)は このインタスサノヲイスムを 母(母斑)への甘えとしてしまった。つまり アマテラス語観念の覆いとその客観共同としてしまった。《すべて肉的なものは悪であるから》と言ってである。《すべて肉的なものは悪であるから》という共同観念(精神でもよい)によって ははなる共同観念(その甘え)のなかで 肉的なものに アマテラス語弁論術を駆使して・大人になると言って・時に夜の世界で思う存分に ありつこうと欲したのである。《まんじゅう恐い》と言うやり取りとその心理に似ている。
かくて 章題:聖なる徳なる魂の死は――その有り難い犠牲のうえに われわれがいま生活しているという感謝のこころと他者への思いやりのこころ このような共同なる観念は―― 目に見えない ゆえに 肉において存在する。アマテラス語化した精神の徳は きわめて肉的なのである。 

  • 《〔とその復活〕》と括弧書きしたのは この前史を生きた魂も 後史へ回転しうるという意味を含ませるべきかと考えた結果である。回転させたまうのは 推進力なる存在である。つまり われわれには分からない。
  • さらにそして《〔むしろ〕》とも括弧書きしたのは 観念や心理が 目に見えないからといって 身体・S者性から離れるなどという議論は一般におかしいという意味を わざわざここで 含ませようという意図があってのことです。 

(つづく→2007-04-14 - caguirofie070414)