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哲学いろいろ

観念の神とは

○ 愛とは 生きることです。もしくはその生きるちからが 愛です。
 ○ もしほかのひとが生きることにちからを与えることが出来るとすれば それも愛です。そしてこの愛のちからのみなもとを 神と言っているのだと考えます。

 ○ 神を 人間の精神だとかその力であるとか あるいは 道徳や倫理規範であると捉えている場合があります。これは 観念の神であり 偶像です。
 ○ 観念の神は もともと――相対的にして経験的であり移ろい行くものであるゆえ その行き着くところは死ですから―― 死んでいます。ということを 《神は死んだ》は確かめただけのことです。
 ○ もしこの人間の心のよきところを神として――つまり観念の神として――これを同じく愛だと言うとすれば その偶像崇拝においてはこの愛もすでに死んでいます。
 ○ 神もその意味での愛も なぞです。わかるわけがありません。しかもひとは この神そして愛を想定するようです。
 ○ 神はなぞですが 特に愛となると なぞとして知っているとさえひとは思っているのではないでしょうか。このような心の伸びは きわめてふつうであるように思います。
 ○ このこころの明けもしくは伸びを放ったらかしにして考えるから 《神は死んだ》と言いっ放しにしてしまったし まづしい人や弱い人たちは 恨みのかたまりでどうしようもないひねくれ者であると見ることしかできなかったのでしょう。 
 ○ 共生 と言いかえるとよいのではないでしょうか?

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貴種流離譚とは、
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E7%A8%AE%E6%B5%81%E9%9B%A2%E8%AD%9A
折口信夫が一連の「日本文学の発生」をめぐる論考のなかで、日本における物語文学(小説)の原型として論じた概念である。その説くところは時期によって細部が異なるが、基本的には「幼神の流浪」をその中核に据える。


 

さざれ石
 http://www.biwa.ne.jp/~tam/sansaku/report/28%20sazareishi/sazareishi.html

.近江の民話で伝えられる「さざれ石」
 
  「さざれ石」の本場、という近江の民話を調べてみました。
 「伊吹町の民話」と「近江むかし話」は、地元の人からの聞き書きをまとめ
 たものですが、ほぼ次のような内容のむかし話が収められています。

  「..殊原左衛門という男が、伊吹山系の川できれいなさざれ石を見つけ、
   歌を詠みました。それは、
    わが君は千代に八千代に さざれ石のいわをとなりてこけのむすまで
   というもので、この一首を添えてさざれ石を朝廷に献上しました。
   都では、この石のことが評判になり、左衛門は褒美をもらい、石位左衛
   門と名乗るようになったそうです。国家の「君が代」はこの歌がもとに
   なりました。」

  ちなみに、左衛門は木地師だったそうです。

漆器
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%86%E5%99%A8
中国の殷(いん)(3,600~3,000年前)の遺跡から漆器の一部が発掘されていたので、漆器は中国が発祥地で、漆器の技術は漆木と共に大陸から日本へ伝わったと考えられていた。ところが、北海道の南茅部町の垣ノ島B遺跡から中国の物を大幅に遡る約9,000年前の縄文時代前期の漆器が見つかり、また漆木のDNA分析の結果、日本のウルシの木は日本固有種であることが確認された。このことから、漆器の日本起源説も主張されるなど漆器の起源については議論が続いている。


うるしの日
 http://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%8813%E6%97%A5
平安時代文徳天皇の第一皇子・惟喬親王が京都の法輪寺に参詣した時に「うるしの製法」や「漆器の製法」を虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)から伝授されたという伝説から、その満願の日である11月13日を「うるしの日」に制定した。




木地師(きじし)は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%9C%B0%E5%B8%AB

轆轤を用いて椀や盆等の木工品を加工、製造する職人。轆轤師とも呼ばれる。

9世紀に近江国蛭谷(現滋賀県東近江市)で隠棲していた惟喬親王が、周辺の杣人に木工技術を伝授したところから始まり、全国に広まった。




大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)は、滋賀県東近江市永源寺町
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9A%87%E5%99%A8%E5%9C%B0%E7%A5%96%E7%A5%9E%E7%A4%BE

寛平10年(898)の創祀と伝わる。惟喬親王の伝承がある。明治5年まで、正月、五月、九月に国家安泰・皇家永久の祈祷符を宮中に納めていた。惟喬親王がこの地に住まわれていた際、小椋信濃守久長と小椋伯耆守光吉に命じて木地の器を作らせたという。この伝承によって、当社を木地師の根源社と称している。白雲山小野宮大皇器地祖大明神と称したが、明治15年に現社名に改められた。

惟喬親王(これたかしんのう、承和11年(844年) - 寛平9年2月20日(897年3月30日)は、平安時代前期の皇族。文徳天皇の第一皇子。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B
父・文徳天皇は皇太子として第四皇子である惟仁親王(後の清和天皇)を立てた後、惟喬親王にも惟仁親王が「長壮(成人)」に達するまで皇位を継承させようとしたが、藤原良房の反対を危惧した源信の諫言により実現できなかったといわれている(『吏部王記』承平元年9月4日条)。
その後、大宰帥弾正尹常陸太守・上野太守を歴任した後出家し、近江国滋賀郡小野に隠棲。・・・近江国神崎郡君ヶ畑をはじめ、木地師のなかには惟喬親王を祖とする伝承が全国的に見られる。


木地師(屋)に由来すると思われる地名  

ロクロウヤ(中津江村)、木地ヤシキ(中津江村)、雉谷(上津江村)

木地屋に由来する地名 戻る 山民の概念に戻る 津江の地名に戻る  地図へ
日本の地名 第2章地名と風土より 谷川健一著 1997 

http://www.sysken.or.jp/Ushijima/chimei.html#anchor173204

 小椋一族というのは滋賀県神崎郡永源寺町の小椋谷に含まれる蛭谷・君ケ畑の二集落に本拠をもつ木地屋集団のことである。彼らは日本各地の山中を遍歴して、木材の木地を荒挽し、轆轤を使って盆や椀などを作り、山の木を伐りつくすと、次の山に移っていった。これを「飛」と称した。木地屋の移動するところ、その足跡を印す地名が生まれた。各地に残る轆轤轆轤谷、六呂山、六郎谷、六郎丸、六九谷、六六師、鹿路などの地名は彼らの居住したところである。熊本県人吉地方の土産品に、雉の格好をした雉車の玩具が売られているが、これは木地車の意で、木地屋の作ったものである。

 君ケ畑の地名は惟喬親王が幽開された所ということからつけられたというが、さだかではない。木地屋は関所の通行手形のかわりに、近江の君ケ畑の高松御所の十六の花弁の菊の焼印を押した木札を見せて、関所をまかり通っていたことが、会津の小椋長四郎家に伝えられた嘉永三年(1850)の「伊勢参宮道中記」に記されている。菊花の紋章にまぎらわしい十六本の輻をもった車の輪は御所車をあらわすものであり、柳田はこの円盤紋様を描くのに、木地屋のもっていた轆轤をたぶん使ったのだろうといっている。それが菊花を思わせるところから皇室とのむすびつきの証拠として木地屋によって強調されることになったようである。