caguirofie

哲学いろいろ

坂びと

奈良坂・清水坂両宿非人争論(ならさか・きよみずざかりょうしゅくひにんそうろん)とは鎌倉時代中期承元4年(1210年)頃から、当時奈良興福寺の末寺の一つであった京都清水寺がその支配から逃れるべく度々抗争していたときに、清水寺の坂下の非人宿の非人たちが奈良興福寺坂下の非人宿長吏たちの支配から逃れるべく近国の非人法師をも巻き込んだ一連の四半世紀に及ぶ抗争である。

この抗争の記録は中世前期の賎民の実態を明らかにする纏まった貴重な史料群である。

当時清水寺の支配権を巡って興福寺に対抗していたのが近江比叡山延暦寺である。清水寺の方にも延暦寺支配下となる事を積極的に望んだものも居たらしく、建保元年(1212年)11月には清水寺法師20人が天台末寺となりたいと寄文を送る事件があり、この時の首謀者は「乞食法師」であったといわれている。争いはこの事件の前後から始まった。

目次
1 経緯
1.1 清水坂長吏の排斥
1.2 前長吏の帰還と反撃
1.3 抗争再び
1.4 三度目の抗争
1.5 奈良坂の陳情
2 考察
2.1 国名を冠した法師
2.2 小浜宿の所在
3 参考文献

経緯
以下は奈良坂による六波羅への陳状から知りえた内容であり、奈良坂からの一方的な見解である事を注意されたい。


清水坂長吏の排斥
後鳥羽上皇の治世の事であった。

清水坂の長吏がその下座にあった8人の法師―阿弥陀法師、筑前法師、久奴嶋の河内法師、山崎の吉野法師、野田山の因幡法師、丹波国金木宿の筑後法師、堀川尻の大和法師、文珠房(河内法師以下の者はそれぞれの宿から清水坂へ詰めていた)―と主導権争いしたが、敗れて命からがら川尻の小浜宿に落ちた。

清水坂長吏の惣後見人川尻小浜宿の長史若狭法師と清水坂長史の合聟である薦井宿の長吏吉野法師はこれを知って勢を率いて上洛しかけたが、泥津相模辻で山崎の吉野法師の勢に破れ、兵具を奪われ身柄だけは放たれたので宇治路を経て奈良坂へ逃れた。薦井宿吉野法師の子、土佐法師も身の危険を感じて清水坂から奈良坂へ向かい、奈良坂長史 播磨法師に清水坂長史の安否確認を嘆願した。

奈良坂は越前法師と備中法師を清水坂へ遣わしたところ、先長吏は逃亡したが奈良坂とは不審なくやっていきたいと返事を受け取った。若狭・吉野・土佐の3法師は越前法師らの庇護を得て小浜宿まで送られた。越前法師たちに対して清水坂先長吏は、興福寺から清水寺別当御厨に対して「今一度、清水坂エ帰リ候ハムスル様、計テ給候エ」と頼んだ。帰って播磨法師に報告したところ、奈良坂として二条僧正が寺務の際に陳状を捧げ、清水寺別当東室法師にも対面して申し入れた結果、先長吏の帰還は認められた。


前長吏の帰還と反撃
だが先長吏を追放した8人がいる以上は入京は不可能である。彼は大和国宿々の勢を動員して還住を計らうことを求め、奈良坂はそれに答えた。奈良坂は宿々の勢を催し北山宿(奈良坂)から勧修寺越えに観音堂向かいの杜山に侵入、清水坂非人法師側は怖れをなしてその日のうちに久奴嶋の河内法師、夜に入って他の6人が降参した。阿弥陀法師だけが1人祇園林に立てこもり、一方奈良坂勢は延年寺敷地まで進んで50日間の膠着状態となった。一方、清水坂先長吏は東室法師に訴え、後鳥羽上皇院宣があったので清水坂へ帰還した。阿弥陀法師は祇園林を出て今度は近江の金山宿に立てこもり城郭を構え近江国の宿々を従えたが奈良坂勢に攻められている(その後は不明)。清水坂先長吏が小浜宿にあった時奈良坂との交渉に当たった摂津法師はその功績で太田宿長史に補せられた。


抗争再び
先の抗争では奈良坂の梃入れによって長吏は下座8人の勢を巻き返し再び長吏となり、清水寺への支配は維持された。だがそれから十数年後の元仁元年(1224年)清水坂先長吏は、奈良坂長吏播磨法師の妹聟である淡路法師、先の一件の吉野法師(薦井宿か山崎宿いずれかは不詳)、ほか伊賀・上野の4法師を追放した。追放された4人は奈良阪長吏播磨法師を頼って奈良へ向かった。播磨法師は妹聟らの訴えを聞き、三月、助勢して上洛。殺し合いとなり、清水坂長吏は殺害された。


三度目の抗争
それからおよそ20年後、最初の争いの時清水寺の寺僧だった先長吏の息子が長吏に就いていた。淡路法師らは奈良坂との関係を絶とうと画策する先長吏らを糺そうとし、清水坂長史はこれに怒り、真土宿長吏の近江法師らと図り、仁治元年(1240年)淡路法師を損傷した。

真土宿、金山宿ともに一条院僧正御房の所領であったが、金山宿の常徳法師(近江法師の聟)が奈良坂に背いたのをきっかけとして真土宿も清水寺末宿の一つだと主張し始める。しかし真土宿長吏近江法師の弟法仏法師はこれに反対した。近江と清水坂長史は、紀伊山口宿二償w蓮向法師の病気見舞いと騙して法仏をおびき出し、甲斐・摂津両法師に殺害させ、近江法師の指示で淡路法師(近江法師太郎子とありおそらく奈良坂長史播磨法師の嫁聟とは別人)が真土宿の法仏の妻子2人を同2年(1241年)7月4日に殺した。


奈良坂の陳情
こうして金山・真土宿を押領した清水坂は奈良坂に和合を申し入れる。奈良坂は興福寺家政所に対し、真土宿押領、法仏殺害の一件につき裁許を仰ごうとした。これを知った清水坂は寛元2年(1244年)3月、 奈良坂が清水坂へ討ち入り放火したとして「寺解」を沿えて六波羅へ逆に訴え出た。そのときの陳状が残っているため、以上の経過は知りえたのである。奈良坂の陳情による清水坂の罪状は:

法仏を殺害したこと
真土宿を押妨したこと
法仏の死を自害だということ
奈良坂が清水坂へ打入ったとして無罪を述べたこと
奈良坂が清水坂へ討ち入って放火したとこれまた無罪を構えたこと
以上の5ヵ条である。六波羅の法廷において奈良坂は、清水坂長史、真土宿長史の二人の身柄を奈良坂に引き渡すことを要請し、奈良坂非人の手で罪科を糾明し、自分達の検断で裁くと述べている(この事から非人が非人身分の自検断権を有したことがわかる)。


考察

国名を冠した法師
史料上の殆どの長吏・法師が国名を冠する。紀伊国の真土・金山・山口宿の諸法師はそれぞれ近江・浄徳であるので支配国や宿によるものではないし、出身国であるという線も断言できない。


小浜宿の所在
小浜宿は若狭法師とあることから、従来は越前小浜(現・小浜市)にあると考えられていた。しかし京に上る路に山崎宿があることから、場所は確定しないが山城国だと思われる勧井宿に近いことから、川辺郡小浜(現・宝塚市域)だと推定されるに至った。だが宝塚市小浜は武庫川近辺であるが、川尻とは言いがたい場所にある。

千田稔は『埋もれた港』で、当時尼崎地方が川尻と呼ばれ別の史料では「一洲」ともしているので川と海との境付近の今福(大阪市)だとしている。

これに対し臼井寿光は『兵庫の部落史』の中で、当時神崎川の河流が安定しなかった事と交通の要所・市場の近くであるという事を加味し、夙村として史料に現れ、被差別的伝承も残る尼崎市尾浜であるとしている。




[続きの解説]

「奈良坂・清水坂両宿非人争論」の続きの解説一覧
1 奈良坂・清水坂両宿非人争論の概要