caguirofie

哲学いろいろ

             第一部 人間の誕生

もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第十章 《永遠の現在》主義への改宗者・タケシウチノスクネ

――第二の死へおもむく人びとは たとい小部分であっても 生命の木(カミ)に触れ得た人びとである――
《根子》の時間(労働・生活)の蓄積は その《日子》の時間である善悪の木なる精神の耕作とともに――この精神は 自己の同一にとどまってというように 滞留するゆえ もし《わたし》の時間(価値)を互いに正しく分けないなら つまり言いかえると わたしがその生産(協働)において《むさぼる》なら―― 堆積となる。
しかるがゆえに オホタタネコは――後世の表記としても―― 《泥古》(でいこ≒ねこ。/ d〜nd〜n /)とされた。呪術的歴史知性たる縄文人は 時間(労働)の所産を カミに供えた。《まつり》とは カミにさしあげ カミとともに食べることである。

  • 日本語については 基本的に 大野晋の著作による。

歴史知性の誕生は このカミとの共食(まつり)を対象化するとともに したがって《わたし》がこれをおこなうという歴史行為の観点を持った。たとえ単に生産の立地条件の優劣によってのみ 所有の多寡が決められるだけであって 弥生人のあいだに 《わたし》の自覚は生起していないと考えるとしても そして 持てる共同体から持たざる共同体に対して 何の疑いもなく無償の援助をするというとしても すでにここで 個ないし 共同体としての個の観念は 生じている。
共同体として一つの個にまとまっていたとしても すでにここで いづれか一人の《わたし》が 他のムラに対して援助をしようという概念を持ち 提案するのである。これは 歴史知性の誕生を表わしている。共同体として動いているとしても その中に 《わたし》の時間が生起している。しかし やがて地域的な有力者・豪族となって そのわたしの所有を保守し拡大しようとする動きが生じた。これに対して逆推しても 《わたし》は生じているであろう。
《わたし》の時間が生起したゆえに 《日子》の能力を耕し 善悪の木を立て オキテ・ノリ(法)を獲得していった。《むさぼるな・盗むなかれ・姦淫するなかれ》。ゆるやか・あいまいであったと反論する説は ここでは採りえない。質の変化は生じている。しかし 現代日本人は いまも これらの新しい質の生起と現実を あいまいにしたがる。つまり すでに明らかに本質的な変化が生じているゆえに ナショナルな共同の観念の中心に 一本の善悪の木を押し立てているのである。
だから一面に見られるこのような動きは 《わたし》が生じているゆえに  《わたし》でありたくない――卑弥呼の鬼道に戻りたい――と言っているもののようである。いづれであっても これを善悪の木の共有によって 共同自治するのであるから すでに善悪の木・日子の能力・つまりわたしの精神は 明らかに現実となっている。はっきり言うと変な言い方になるが 歴史知性の時代に明らかに入って来ていると言わなければなるまい。
むさぼるなと人におしえつつ とどのつまりは自分にはおしえないとき 時間の蓄積は むさぼりの堆積となる。これを知っているゆえに むさぼりの主体性(わたしであること)や責任を なお あいまいにしたがる。国民総生産は伸びても それは 全体的な一本の善悪の木の基盤がゆたかなものになるのみであって 個々の国民である根子は そうではないという議論が通用した時代がある。じっさいは 《根子》が腐食しつつ その《泥古》のしがらみの中に生きることが 現実である。時に人は ここで なおも《日子》性に寄り頼み 自分自身のチカラで 浄い《根子‐日子》連関たる自己の存在を取り戻そうとする。これが 善悪の木による歴史知性のアマガケリである。これは《ミソギ》と呼ばれた。ミソギを通過すべしと考えられた。たとえば 開発途上国への援助。
ミソギは 原始心性のマツリの中にもあったと思われる。そして 個人的なわたしによる《身濯ぎ》の観念が出現したものと思われる。マツリ・ミソギどちらにおいても 縄文人的なカミとの共食・交感の中でおこなわれるそれらと 《時間・わたし の生起》ののちに 人間的な共同自治の舞台でおこなわれるようになったそれらとである。この新たなミソギが さらに――言われているように―― ハラヒ(祓)となるのは アマガケル日子らが自己の独占的な圏域をきづいて その地点からするマツリつまり アマテラスオホミカミのマツリゴト(宗教・政治)に属すると考えられる。言ってみれば 自分たちだけが その新たなマツリゴトのもとに カミとの共食をおこないうると考え ここに入れない根子たちは ミソギされなければならず これは このとき――いわゆる差別が生じて―― のけものとされ ハラヒされるという善悪の木の制度である。
すなわち 古くなった根子つまり泥古の身を――じっさいにも水で〔洗礼するというかのように〕――濯(すす・そそ)ぎ落とそうとする。これを 縄文人は 呪術的な歴史知性として 自然とあるいは他者ないし共同体と一体で未分化な《わたし》たちが おこなっていた。歴史知性を獲得していった弥生人は 時間の独立主体たるわたしが おこなうようになった。
《オホモノヌシのカミとの共食・マツリ》を忘れるようになったとき この生命の木によってではなく 善悪の木によって・つまり自分自身の日子の輝く光りを 中間性であるにもかかわらず 中心性に代えてのように 精神主義的に だから天使の能力を欲してのように あの永遠の現在を アマガケリつつ 夢見る。
善悪の木の共和国が 観念的に(もっぱらの日子によって)人びとを支配するとき 《わたしは むさぼりません。ミソギをおこなう正しい人です》と高らかに宣言しつつ 《まつり》を《まつりごと》に変える。生命の木との共食たる《まつり》は すでにそれじたい  《こと》であるのに もっぱらのアマガケル日子は 精神主義的にこれを捉えて わざわざ《まつりごと》と言い換える。これを そして 具体的な善悪の木の共同自治体制として また 侵すべからざる至高の木として 押し立ててゆく。人間の人間による人間のための社会的な和(共同自治)であると考えたのである。
《まつり》の《みそぎ》ではなく マツリゴトのミソギが そしてハラヒが 永遠の今の観念的な共有のもとに おこなわれてゆく。時間の泥古の堆積を ソソゴウとしつつ 拡大増殖してゆく。日子は アマガケル日子は ここで 観念的に・想像において あの輝ける歴史知性として 生命の木の法則に触れ得たカミの子となったと思ったのである。のち アマテラスオホミカミは 生命の木そのものとなったと宣言したのである。そうでないことは わかっていたから 宣言となった。さもなければ ミマキイリヒコ歴史知性をふつうに受け継いでいればよかった。

《永遠の現在》教団

このアマガケル日子たちが 河内から出て淡海(近江)・若狭・高志(越)のくにぐにをめぐり 飛び回った。想像において カミの子となったゆえ――ということは オホモノヌシのカミの子であると噂されたオホタタネコ原点すなわちミマキイリヒコ歴史知性を 三輪市民たちとのあいだで 自分たちの歴史知性(ワケ歴史知性)と 交換したのである―― カミのようにいかなるものの下にも立つまいと考えて 同じ歴史知性どうしとしての間での支配という観念に目覚めた。支配欲が芽生え 空気のような身体のもとに・その上部の頭の中で この支配欲に支配されるに到った。
人びとは見よ 人間の人間による支配という観念が 錯乱の日子の能力の中から生まれ出た。欲望は 時間(時間的価値)の関数である。善悪の木を頼む精神の所産であり そこからの観念である。言いかえると 精神の所産であるが むしろ精神が精神の同一にとどまり得ないときの心理的な動揺と想像の動きにすぎない。オホタタネコがその原点にとどまり得ないときでも 原点は原点であり 精神は精神であり 知性は知性である。
支配とは 幻想である。支配欲とは 支配が幻想であり 虚しいものと知って 安定した単調な快活とその平等を保障するオホモノヌシの愛の推進力のハタラキのもとに帰る道筋のことである。
独立主体たる歴史知性が 誰かに従属していなければ 言いかえると 誰かに甘えていなければという意味で誰かを支配していなければ つまり 誰かを《ハラヒ》の対象として踏み台としていなければ 生きていけないと考えざるをえなくなった。かれらも 泥古の堆積を 承知していて これをミソギしなければならないことをも承知していた。これが アマガケル日子たちの考案し提出した罪の共同自治の方式である。そういうマツリゴトとなっていく。われわれは これを 人間にとって第二の死だと考える。
高志の道の口(越前)の角鹿(敦賀)で 宣教師のように 観念的な《永遠の今》なる宗教を説き――武力支配であるよりは この善悪の木による感化をとおしての《征服》の過程―― 土地の人びとは かれらに譲歩して仕えた。その《友だちの輪》の中にわれわれも入りますと言って 敦賀のイザサワケのオホカミノミコトは その名を交換したいと申し出た。

  • 気比のミコトの名に カミの語が入っているのは ミコト=人間として・すでにそう(ミコト)であるのに 《わたし》が世界と未分化な縄文人の自己認識を引きずっている形を取りたがったのかもわからない。カムロキ・カムロミの段階に 部分的に戻ったかたちのよう。
  • この名を交換する申し出は ひょっとすると 応神ホムダワケの側から はじめには あって 気比の歴史知性は これに応じたものであるかもしれない。

近年(1990年ごろ) 能登縄文時代の遺跡である真脇(鳳至郡)では イルカの骨が大量に発掘された。カミ(生命の木)との共食がおこなわれた跡を示すものであろう。

  • 近年(現在は2005年7月1日)考古学において 遺跡・遺物等の捏造が指摘されるようになった。という点のみ記しておく。

このマツリが ここで 善悪の木への一辺倒のために変化をこうむるようになった。つまり言いかえると 生命の木オホモノヌシとのではなく 現実の人間であるアマガケル日子らとの共食として 成り立とうとし始めた。敦賀のイザサワケも 鼻を砕いた入鹿魚を 応神ホムダワケに贈り物として差し出した。これは マツリ=共食である。《永遠の現在》教団が 勢力を拡張してゆき その司祭・主宰者が そして共同自治の指導者としては第一日子が この島国のなかで 統一されていこうとするのである。三輪のミマキイリヒコからつづく政権を 観念の木によって征服し統一するために 外の搦め手から攻めるべく周囲をなびかせていったのである。

アマガケル日子の動きは 昔から(ミマキイリヒコ歴史知性の確立以前から)あったと見る見解が タケシウチノスクネという人物の想定となった。

この河内ワケ政権のアマガケル日子の教団は まずはじめに おそらく元から日本に住むオキナガ氏(その氏族の人びとの意)を抱き込むことに成功したと思われると述べていた。だが この古事記のくだり(前章末に引用)では タケシウチノスクネノミコト(建内宿禰命)が先導したと書いてある。つまり初めの第一の信奉者は――縄文人ないし弥生人のマツリからの改宗者は―― オキナガ氏ではなく このタケシウチノスクネであるとも言ったことになる。
もちろん 河内政権の創始者であるホムダワケノミコトの母が オキナガタラシヒメノミコト(息長帯日売命=神功(じんぐう)皇后)であることに注目しなければならない。このタケシウチノスクネに関しては 要するに 善悪の木の教団の《ウチ》に入って 《タケ》ダケしい熱心な信者となった人(もしくは人びと)のことを指して言っているのだと考えられる。このタケシウチノスクネノミコトが 河内政権の第一日子であるホムダワケを伴なって 各地を先導したと古事記は伝えた。

  • こう考えると 応神ホムダワケは 新しい渡来民族であるという推理を 捨てきれない。
  • ここでは この推理の当否を明らかにすることは 保留しなければならない。(そのちからもないが。)いづれの場合であっても 史実よりは真実に重きを置いて 歴史知性の理論に耐えうる内容を模索していきたい。
  • また タケシウチノスクネが 実在の人物であったかどうか――それは 次にその一説を見てみるが―― これも ここでの中心的な課題ではない。
  • 再度述べるならば 歴史的事実の措定・確定が目的では必ずしもなく 古事記に即して 歴史知性の歴史的展開を 歴史的真実と見うる限りで 考察しようというのが はじめからの主旨である。

タケシウチノスクネ考として まとまった一つの議論を 長いが一括して次に掲げる。

武内宿禰日本書紀の表記)は 古事記では 成務・仲哀・応神・仁徳の四朝 書紀では 景行・成務・仲哀・神功・応神・仁徳の各朝にかけて存在し その活躍が伝えられる人物で 書紀の年紀では三百歳もの長寿を保ったとされる。

  • 長寿ということから やはり《おきなが(息長)》を想起すべきだと思われる。――引用者註。

日野昭・岸俊男の見解に従えば その伝承の主題は (1) 大臣 または近侍の忠臣として歴朝に奉仕したこと (2) 神事に霊媒者として奉仕し 男覡(おとこのみこ)の役をつとめること (3) 長寿の人であること等に求められ なかんずく (1)がもっとも原初的な属性で 書紀は記に比して一層 宿禰の忠誠の臣であることを脚色・修飾していると考えられる。
武内宿禰の実在性については その可能性はうすく 伝承上の人物であることは明らかで しかもその伝承は 六世紀に作られた旧辞に最初から存在したものではなく 景行・成務天皇(この時 都は近江にあった) 神功皇后が歴代として帝紀に加えられ かつ暦年の観念が加わった七世紀前半以降に作られたものと考えられる。
風土記武内宿禰の名が全くあらわれないことから推しても それはかなりおくれた時代に 中央で発達した説話であると推測される。その説話の成立については 津田左右吉以来 七世紀前半に政界で勢力を振るった蘇我氏の手になったとする説が有力であり 最近ではまた 七世紀後半に内臣(うちつおみ)として活躍した中臣鎌足との関係をみるべきであるとする説も 岸俊男によって提出されている。
それと関連して 《武内宿禰》《内の朝臣(あそみ)》(仁徳五十年三月条)のウチについても 旧説の如く大和国宇智群(今 奈良県五条市)の地名と解するよりも 内廷に近侍する臣としての意味に本義があると解する説が 同氏によって唱えられている。
なお孝元記には 孝元天皇につながる武内宿禰の系譜を載せ 宿禰の子として波多八代(ハタノヤシロノ)宿禰以下 九人を挙げ それぞれについて計二十七氏の後裔氏族の名を掲げている。この系譜が本来の帝紀にはない後次的な付加であることは明らかであり 葛城・波多・許勢・蘇我平群・木等の氏を同族としたのは 推古朝頃の蘇我氏の勢力伸張の結果 作為されたものであるとする説が 津田左右吉以来 有力である。それが孝元天皇(――これは一人の《根子日子》歴史知性である――)に系譜づけられたのは おそらく七世紀後半のことと考えられる。
坂本太郎家永三郎井上光貞大野晋校註:日本書紀〈2〉 (岩波文庫) 補注7−三)

後世から作為的に付け加えられたものであるにせよ 崇神ミマキイリヒコの三代前の孝元オホヤマト根子日子クニクルの系譜に このタケシウチノスクネが つなげられたことは――そうだとしたら――明らかに 古事記作者が 歴史知性の歴史的展開を見るうえで イリ日子視点の確立の前から アマガケル日子の動きは存したであろうと言ったことになる。古事記作者とは おそらく別の観点で別の史観に立った政治的有力者が まず そう作為したのだと見るとしても 古事記作者は こう書こうと総合的に判断した結果のものであるだろう。もちろん だから 史実だというためのものではない。
オホタタネコ原点・ミマキイリヒコ視点としての歴史知性の確立 この時代と社会の 前後の過程が いまの焦点である。決定的には 応神ホムダワケの河内ワケ政権の動き これである。これをわれわれは 《永遠の現在》教団と規定したが ホムダワケの母とされるオキナガタラシヒメノミコトにかんして 次の章で考察しよう。タケシウチノスクネについても 結論づけるはずである。
(つづく)