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哲学いろいろ

5 日本人の起源


埴原のような立場を自然人類学と呼ぶらしいが、種族と民族の違いについて言っている割には、民族を構成する文化についてほとんど無知である。この無知は政治屋に利用されて、デマゴギーになりかねない。なぜなら、埴原は、縄文人弥生人などという大括弧の仮定の言い回しをしているが、縄文とは弥生とは違う衣食住を持っていたにすぎないのに、あたかも国家や民族の固有性であるかのように思い込んでしまっている。この場合、人骨、歯、遺伝子、顔つきによる平坦化は、ただ、列島に住みついた人々を日本人と呼ぶなら、その日本人が雑多に混血していることを確認するだけでよいとおもえる。


 村ムラ くに
 地域連合体 くに
 くにぐにの連合体
 統一国家


一般のタイムスケールでは、土器による様式名から発掘された遺構の時間を計っており、その中で、稲作とは弥生文化の代名詞とみなされた。しかし、最近の調査では水稲農耕が縄文時代後期にまで遡ることが分かってきた。遅くとも前5世紀には九州で定着した水田稲作は、200数十年で本州の最北端に到着したという結果が現われる。


 そして、何より、この伝来は、縄文人がもたらしたのではなく、渡来人によって行われたという点に重点を置いている。この時代は縄文人から弥生人への形質変化が著しく、混血による急激な変化が背景に求められたからだ。彼らは稲作技術や金属器製作技術を伴って半島から幾重もの波となって渡来した。そのため、弥生時代を通じて稲作はゆるやかに発展していった。

 ここで寺沢は、縄文人と渡来人として、世界を二つの局面と価値観からなるという二元的な世界観をとっているが、これはすこぶる怪しいとおもえる。あえて言えば、縄文後期には大陸ではすでに強大な帝国を築いており、その影響から人心の往来があったのは疑いないことであるし、稲や金属を携えずとも、そういう渡来もあったに違いないとおもえるからだ。つまり、縄文、弥生の区別は、世界史的な視野に立てば、何の意味もない。もっと言えば、柳田が「稲の人」にこだわる理由も不明である。


わたしたちにとって、必ず、考え直さなければならないのは、弥生文化天皇制というタームであり、言語を含む民族なるものの多様性をあとの残らないくらいに無化するかである。


いわゆる文化の偶発多元論と一源移動説のどちらも選択することができない不可能性を考えてみなければならない契機をつくったということが要点であった

ルターは無限の主体性を解き放ち、真の精神性においてイエス・キリストを精神的に獲得できるものとした。永遠にして絶対的な神の真理を主体的に確信することだからだ。ルターの改革によって教会の魂の絶対の内面性が得られ、主観が教会の教えと一体化する。個人は自分の特殊性を超えて、客観的な主体をもたらす。