caguirofie

哲学いろいろ

#134

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第五章 最終的に死が滅ぼされる

第六節a 《新しいエルサレム

《死につつある(死の中にある)》ということが――すでに見てきてもいるように―― むしろこの現在の生であるという意味あいが 《第九章》では 次のように考察されています。

実際 《息を引きとる》と呼ぶ最後の瞬間であっても 霊魂が去っていないかぎりその人はまだ生きているのである。・・・かれは霊魂が身体から去ったのではないから 死の中にはない。

  • 死につつあるのではない。

もし去ったとすれば その時は死の中にある(死につつある)のではなくて むしろ死の後にあることになろう。

  • 死んでしまっている。


したがって 生きている人でなければ死の中にあることはない。
アウグスティヌス神の国について 13・9)

したがって ここで考察していることは たとえば ふたたび 使徒

わたしは神に対して生きるために 律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは キリストと一緒にはりつけにされています。生きているのは もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておられるのです。
パウロ:ガラテア書 2:19−20)

というように語るこの死のことを 背景としているということです。
さて 前節につづいて いまはこの死を あたかも社会の次元に見るというように 外的・構造的な国家による死に解して 考察をつづけたいと思います。
そうすると ここでは 《ヨハネへの黙示》が 参照されるべきだと考えられるでしょう。もちろんこの黙示は 主観〔における史観〕の内なる観想に属することですが あたかも社会の全体(そしていま 国家という形態)の次元で この史観が捉えられてのように 歴史として 見ることも可能かと思われるのです。

  • これが 国家の歴史的移行の過程にあてはめてのように 捉えられると思われるということでもあります。

その第二十章のはじめ第一節ないし第六節は ひとまとまりとして 《千年王国》の時代が述べられています。
キリストの統治が千年つづくというこの時代は したがってあの悪魔(サタン / 蛇 / 龍)が鎖につながれてあるともいう時間であり 一般に〔西欧〕中世の期間でもあると考えられるのですが 死の問題にかんしては 次のように基本的に捉える時間です。

わたし(ヨハネ――引用者。以下同じ)はまた イエスのなさった証しと神の言葉のために 首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは あの獣(龍すなわちサタン の手下)もその像(たとえば 貨幣物神)も拝まず 額や手に獣の刻印を受けなかった。かれらは生き返って キリストとともに千年の間 統治した。その他の死者は 千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。第一の復活にあづかる者は 幸いな者 聖なる者である。この者たちに対して 第二の死はなんの力もない。かれらは神とキリストの祭司となって 千年の間キリストとともに統治する。
ヨハネのへの黙示 20:4−6)

すなわち これが 第一の死ののち 第二の死に至ることなく 復活して生きる敬虔な者たちの像 そしてまた それは《第一の復活》と言うのであるから これをあたかも原形として その後もかれらは復活してくることでしょう。まづ このことは いま考察する戦争による死者の 国家の移行過程に相即的なその復活の問題としても 類型的に同じように考えられると捉えておくことができるでしょう。
次に 中世が終わり つまりあのルネサンス宗教改革やあるいは新大陸への到達などとともに

この千年が終わると サタンはその牢屋から解放され 地上の四方にいる諸国の民 ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き かれらを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。
(同上 承前=20:7−8)

これは われわれの言葉では あの第二のアダムの時代において 宣教k・護教の時代がまづ終わり 大づかみに言って人間の理論の時代へ入ったことを指し示していると考えられます。そして これについて もしわれわれが すでに論じたように 第三のアダムの時代が新しく登場すると考えるならば ここから現代にまで飛んで この悪魔の克服は あたかも国家の――ユダヤやあるいはヨーロッパとはちがって 他の世界ではまだ いわゆる律法の時代でもあったと見られるとき この律法の一つのしかし大きな互いにとっての支えであったと考えられる国家の――〔幻想的な側面としての〕時間 の解消をその焦点とするかのように きわめて簡潔ながら次のように述べられるのを見ます。上につづいて

かれら(ゴグとマゴグと呼ばれる者たちを従えたサタンら)は地上の広い場所に上って行って 聖なる者たちの陣営と 愛されている都とを囲んだ。すると 天から火が下って来て かれらを焼き尽くした。そして かれらを惑わした悪魔は 火と硫黄の燃える池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者とがいて 昼も夜も世々 限りなく責めさいなまれる。
ヨハネへの黙示 20:9−10)

したがってここで たしかに ふたたび第一の死のあとの復活――敬虔な者には永遠の生に生きるための そして不敬虔な者には第二の死と呼ばれる永遠の死に至るためのあの復活――が 史観されなくてはならないというように ヨハネへの黙示は つづけて次のように記します。《大きな白い玉座の裁き》と題されて

わたしはまた 白い大きな玉座と そこに坐っておられる方とを見た。天も地も そのみ前から逃げて行き 行く方がわからなくなった。わたしはまた 死者たちが 大きな者も小さな者も 玉座の前に立っているのを見た。いくつかの書物が開かれたが もう一つの書物も開かれた。それは生命の書である。死者たちは これらの書物に書かれていることにもとづき かれらの行ないに応じて裁かれた。海は その中にいた死者を外に出した。死と死者の国も そこにいる者を出し すべての者がその行いに応じて裁かれた。それから 死と死者の国は 火の池に投げ込まれた。この火の池が 第二の死である。誰でも その名が生命の書に記されていない者は 火の池に投げ込まれた。
ヨハネへの黙示 20:11−15)

これが 国家による死という第一の死を死んだあとの 〔基本的には 各主観の内における また 現在にとっての未来としての そしてここでは〕社会構造的とも考えられるその復活と その後の生ないし第二の死にかんする観想であると思われるのです。なぜならその死の償いを 過程させるというようにして この国家の歴史的に新しい社会形態への移行を焦点とすることができると見られるとき そのようなかたちで あの第三のアダムの時代は到来すると考えられるからです。ヨハネへの黙示は このあとすぐ続いて そのようにやしろの新しい形態を告げるかのように 《新しい天と新しい地》および《新しいエルサレム》という二段の観想を記すようにです。
(つづく→caguirofie070927)