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哲学いろいろ

#100

もくじ→はてな061223

第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第五十七章a もう一度 前史と後史ということ

――告白7・4・6――


ところで 私がすでに考えていたように 不滅のものが滅びるものにまさるということは まったくほんとうで確実なことでしたから もしあなたが不滅でなかったとしたならば 何か私の神よりもすぐれたものに思いいたったはづです。
ですから私は 不滅のものは滅びるものにまさるとしなければならないことを知ると同時に そこにあなたをさがし またそこから 悪はどこに存在するのか すなわち滅亡ということはどこからおこるのかという問題に注意をむけるべきでした。
この滅亡をあなたの実体がこうむることは 絶対にありえないのです。
じっさい 私たちの神が滅亡をこうむるということは 意志によっても 必然によっても 不測の偶然によっても 絶対におこりえません。なぜなら それは神ご自身であり 神ご自身のために欲したまうことは善であり ご自身が善そのものにましますが 滅びるということはこれに反して善ではないからです。
またあなたは 意志に反して何かを強制されることもありません。なぜならあなたの意志が能力よりも大きいことはないからです。より大きいためには あなたはご自身よりも大きくなければならないはづです。じっさい 神の意志と能力とは神ご自身にほかならないのですから。
また 万事を知りたまうあなたに不測のことなどあるわけがありません。あなたがまづそれを知りたまうのでないならば 何ものも存在しないのですから。
しかし 神の実体が滅びない理由を 何でくどくどと説明する必要がありましょうか。もし滅びるものであるとしたならば それはもはや神ではないでしょうから。
(告白7・4・6)


   ***

マルクス主義が 人類史上でもっとも有力かつ優秀な思想であることは だれも否定できないであろうし そのことと マルクス主義のいくつかの抽象的な原則が歴史的社会的な条件の変化をうけることとは なにも矛盾しないはづである。しかし じつをいえば なにがマルクス主義として不可欠な基本原理であるかについて 一義的な決定を下すことは不可能にちかい(きわめて抽象的な若干の原則をのぞけば)。
宗教改革が神を各個人の内面のものとすることによって 信仰の正統性の問題をみづから破壊してしまったように マルクス主義の内面化をともなう拡大もまた それについての正統性信仰を破壊する。キリスト教マルクス主義も そんなことでほろびはしないから 心配はいらない。
(水田洋:現代とマルクス主義 増補版 (1969年) 〈あとがき〉)

   ***


《神は不滅のものでなければならず》 信仰は――つまり その意味でのヤシロロジとしてのキリスト史観たるマルクシスムは――〔なぜなら 信仰は あの直視の栄光にみちびかれるときには もはやそのようなことがあったという記憶の中にのみ存在するものだから〕〔その意味とかたちで〕 《ほろびは しない》が その信仰と愛(意志)とが 別個のものであってはならない。
宗教の神が死んだことによる インタスサノヲイスムの《内面化》は その《内面化をともなう〔ヤシロロジストとしての〕拡大》と 同時である。
わたしの言いたいのは 《あなたたちは 人を奴隷としてふたたび〈恐れ〉に落とし入れる霊ではなく 神の子とする霊を受けた》(ローマ書8:15)と言われたことである。
やしろ資本推進力に属き――このペルソナ(実体)に似せてわたしたちは造られた〔と信じられる〕―― かれによって 内なる人の秘蹟(自己の前史と後史)を見さしめられると同時に その外なる人の模範(愛の実践)にならう他者の啓発に促しめられるのが ぼくらである。

  • ぼくらという表現を おもしろいと思って つかった。

わたしたちは 《やしろ資本推進力は不滅である》と――むろんアウグスティヌスも水田洋も それだけに留まらないのだが――語っているだけでは 不十分である。
ここでは 内なる人の秘蹟(《ぼくらが食い尽くされる》)について 自己の前史と後史という観点から いま一度ろんぎしておきたいと思う。ことばによる実践の一つとして。


ぼくらは いわゆる旧約聖書の神が 《ねたむ神》(出エジプト記20:5)であることを知っている。この神がほろびるものでないとしても やしろ資本推進力(すなわち 愛)と別の神ではないことをおしえていなければならない。
この旧約の神が 表現上――表現上――わたしたちの前史の神であることを知らなければいけない。《神は愛なり》(ヨハネ第一書4:16)と言われた推進力(生命)と同じかたなのであることを知らなければいけない。
ぼくらは 前史において(《わたしたちがまだ罪人であったとき / 神の敵でありながら 御子の死によって神と和解させていただいた》(ローマ書5:8 / 10)というときの前史において) 次のような神の言葉を聞いたとき そこに挙げられているそれぞれの後者である《敵対者たち〔の生活〕》を憎んだり ねたんだりしたことを知っている。

信仰のない人びとと行動をともにしてはなりません。義と不法とにどんな共通点があるのでしょうか。光と闇とになんのかかわりがあるのでしょうか。キリストとベリアル(=《よこしまなこと》=悪魔)とにどんな調和があるのでしょうか。神の神殿と偶像(観念たるアマテラシテ・貨幣物神)とがどうして両立できるのでしょうか。・・・
(コリント後書6:14−15)

《不信仰・不法・闇・ベリアル・偶像》の生活を――特にそれが この世で栄誉をになっている場合―― わたしたちは 《パンのみにて生きていない》とは言え ねたみ 時に憎んだりしたことを知っている。
ところで 《狭いながらも楽しい我が家》《雪の降る夜は楽しいペチカ》というとき わが家やペチカが楽しいのではなく そこにいてそれを囲む人びとの心が 楽しいのである。《ねたむ神》と 同様である。神の家にあるわたしたちが ねたむのである。このとき この神が 愛なる神と別様のちからであると思ってはならない。
いわゆる旧約では あたかも《イエス(資本=愛の推進力)はまだ栄光を受けていなかった(人間となって現われてはいなかった)ので 聖霊(イエスと父との交わりなる愛)はまだ降っていなかった》(ヨハネ7:39)のである。わたしたちが まだ《かれの家を思う熱意――それははじめから存在した――によって食い尽くされ》ておらず わたしたちがまだ あの十字架上にのぼらしめられていなかったからである。
これが わたしたちの前史であり 内なる人の秘蹟(内面化 / うしろの正面)である。
このことを ちなみに ウェーバーに従えば かれは次のように表現している。すなわち 前史においても同じ神なのであるが 表現じょう そのように語られるのがふさわしかったというほどに そのときには そうなのでしかなかった。

イスラエルよ 聞け ヤハウェはわれらの神である ヤハウェのみがわれらの神である。

――これは こんにちのユダヤ人の朝の祈祷の始まりの文句であるが 説教の筆頭におかれている。ヤハウェはねたむ神である(申命記6:15) しかし契約をやぶることはない(7:9) ヤハウェは かれが選んだ(7:6)イスラエルと契約を締結する(7:12) そしてイスラエルをたもってその子孫の数をましてくれる。
ヤハウェはその民を愛し(7:13) しかもこれを苦しめたり悩ましたり 危険をもって脅かしたりしたばあいにも それは その民が純真の心構えありや否やを試みんがためであったのである(8:2−3)。
というのは ヤハウェの愛と恩恵とは 民がかれの命令を遵守するかどうか にしたがっているからである(7:13)。もしこれを守らぬ者があれば ヤハウェはみづからその罪人その人を猶予なく(何代ものちまでも)罰するであろう(7:10)。なかんづくまたヤハウェは高慢と自負(8:14)とを ことに自分の力に対する自負(8:17)を 憎む。
高慢や自負は ことにイスラエルが富んで豊かになったときに容易に生じはじめるであろう。また自己を正しいとすることについても同様である(9:4)。というのは ヤハウェイスラエルを選びとくに愛するのは イスラエルの徳によるのではないからである。イスラエルは徳をぜんぜんもってはいない かれはもろもろの民の中で もっとも小さい民なのである(7:7)。――このことばにはあらゆる軍事的国民的の英雄の誇りに対するきわめて力強い排斥が表現されている。
むしろヤハウェイスラエルを選んだのは 他の諸国民の悪徳のゆえである(9:5−6)。ただしここで悪徳と考えられているのは なかんづく性的狂噪道(23:17)ならびに他のカナンの《土着の習慣》であったことはうたがいない(12:30)。かような習慣にしたがわなければ その土地の神々に罪を犯すことになると考えて生活してはならない むしろヤハウェの命令だけにしたがうべきである。
あらゆる魔術やあらゆる種類の占い(18:10−11) あらゆる人身供犠(18:10) しかしまたカナン人との一切の契約締結(7:2)や結婚(7:3)は 堕落の危険のゆえに きびしく禁止されている。つまり すべての敵は 断乎としてへーレム Cherem (のろいの犠牲)につきおとされるのである。ヤハウェから脱落することを誘惑する者は それが予言者であれ(13:6) 兄弟であれ 息子であれ 石打ちにして殺されねばならない(13:9)。
敬虔なる者のヤハウェに対する関係にかんしては ヤハウェをおそれてこれを礼拝し ヤハウェを指してだけ誓うべきである(6:13)。しかしなかんづくヤハウェを愛し(7:9) かれの約束に対して絶対的に信頼すべきである というのは たとえいかに諸国民が強大であろうとも ヤハウェイスラエルにその約束を守る力をもっているからである(7:17−18)。
しかも砂漠におけるマナの奇蹟は ひとがパンだけで生きるものではなく むしろとくにヤハウェの口よりいづるコトバによって生きる者であることをしめしたのである(8:3)。神の力は巨大なもの 唯一神教的なもの にまでたかめられる。・・・
(M. ウェーバー古代ユダヤ教1917−19 内田芳明訳1・22)

古代ユダヤ教

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(つづく→2007-04-03 - caguirofie070403)