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哲学いろいろ

#93

もくじ→はてな061223

第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第五十二章a 見えない資本推進力が これをうながす

――告白5・2――


それゆえ彼らはたちかえって 御身(おんみ)をさがさねばならない。
彼らは造り主をすてたが 御身がそのように被造物をすてたまうことはなかった。彼らはたちかえって 御身をさがさねばならない。
そのとき御身はまさしくそこに 彼らの心の中にまします。
(告白5・2・2)

もう少し社会思想史家・水田洋についてページを割こうとおもえば ヤシロロジストとしてのかれの異言を 次のように解釈することができるでしょう。
別の著書《マルクス主義入門 (1971年) (現代教養文庫)》の目次をめくってみると 次のような章題がみつかる。

第二部 〔マルクスの〕使徒たちのあらそい
1 ベルンシュタインとカウツキー
   ――修正か伝統か
2 レーニンとプレハーノフ
   ――政治的煽動か経済的必然か
3 レーニンルクセンブルク
   ―― 一党独裁か階級独裁か
4 スターリントロツキー
   ―― 一国社会主義か世界革命か
5 ファシズムのなかのマルクス主義者たち
   ――《新しい左翼》の胎動
(水田洋:マルクス主義入門―この思想の流れを創造した人びと (1966年) (カッパ・ブックス) 目次)

同じ著者が その新版(1971年)の《あとがき》で次のように語っているように つまり

中国マルクス主義への視点が欠落しているとか ニュー・レフト(新しい左翼)を最高の地位においているとか マルクス主義とブランキ主義とを同一視しているとか さまざまな批判があったが 注意ぶかい読者の判断にゆだねるだけで十分であると考えている。
マルクス主義入門 (1971年) (現代教養文庫) あとがき)

と語っているように それは この書が 理論〔体系〕の知解を目的としたものではなく 判断の分岐点に立っての共同主観の提示(つまり ある判断であるが)を語ったということにほかならない。章題じたいが 分岐点のことを示している。
《修正か伝統か / 政治的煽動か経済的必然か / ・・・》等々の《あれかこれか》の選択に際して 著者はまさしく共同主観的判断(そのありか)を語ろうとしたにすぎない。言いかえると 《異言》による(あるいは 基礎認識による)確かに方法の滞留なのであるにほかならないのだと考える。
霊的な共同主観(資本推進力というほどにも やはり信仰であるが)に立つなら 《あれもこれも》であり 具体的なヤシロロジとしての行動においては むろん一個人については《あれかこれか》いづれか一つの選択(まれに保留)なのであり この間の〔共同〕主観的な方法の滞留をしめしているはづです。

  • 煽動・独裁などについては 選択として あまり 面白くも楽しくもないですが。

マルクス主義を高く評価するということは しかしながら それがなんの矛盾も欠陥もない完全で絶対的な真理であると 考えることではない。
この本では マルクス主義が発展の途上で出あったり生みだしたりした重大な問題がいくつも指摘されている。そういう重大な問題に正面から立ちむかいうるところに マルクス主義の思想としての生命力があったのである。マルクス主義は ひらかれた体系なのだ。
したがってこの本は マルクス主義についての攻撃の書でもなく 信仰の書でもない。ホッブズがその主著《リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)》の序文に書いたように 攻撃者と信仰者との双方から批判や非難がでてくるかもしれない。しかし マルクス主義をほんとうに自分の思想としてとらえる道は この困難な道しかないであろう(もちろんこの本がすべて正しいという意味ではない)。
マルクスが 《自分はマルクス主義者ではない》といったように 思想に個人の名をつけること自体が 便宜上の問題にすぎないのであって ましてそれは 個人崇拝の対象となるべきではない。
マルクス主義入門 (1971年) (現代教養文庫) まえがき)

このように見てくることによって もはやおおよそ ヤシロロジ理論を知ることと ヤシロロジストとして判断の分岐点に立つこと(つまり 理論を知った自分をおもうこと)とは 別なのであると言っていることとその根拠について そのように考えます。
教師ぶって言ったのですが 水田洋の異言を解釈するには このような視点が必要であると思われました。
理論的内容を何も紹介せず論議せず それは おまえの理論的無知をかくすための手だてであろうと言われても そのような批判には ここでは問題がちがうとしか言いようがない。
もっとも わたしたちは これまでにも るる省察してきたように マルクシスムが 近代・現代の《生命力ある思想》の代表格であるともし見るとき この近代・現代が それまでの歴史と――思想としても――隔絶されているとは必ずしも見ない 言いかえると マルクス自身が むしろ歴史通史的に あの共同主観者の系譜の中にいるのだと見るということ これが わたしたちのインタスサノヲイスムの方法であるものであったわけです。


すなわち――ここでテーマを少し変えると―― マルクスの通史的な共同主観者性という点について これまでの議論をあらためてまとめる意味で 少しく見ておきたいと思います。
かれは 《資本》――つまり資本についてでも 資本論でもなく 《資本なるもの》――という書をあらわしました。

 
一つにかれは ここで 霊的に――ということばを ここでは使います つまり《現実》的にという意味です――おそらく 《やしろ資本推進力》を見ていたであろう。
一つにかれは 経験科学そしてヤシロロジとして 過程としてのやしろ資本連関(生産関係でも人間関係でもよい)を捉えて これの理論的な認識を明らかにしようとした。
そこで S圏やしろ資本を これら全体の資本連関の基盤(基体・動因)として見たであろう。

市民社会は 歴史のかまどである。
ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)) 

そうだとすれば このS圏資本と A圏との連関形態を捉え この連関から成る全体としてのくにやしろ資本の歴史的な変遷を 批判的に捉え分析していったであろう。

経済学批判 (岩波文庫 白 125-0)つまり 《政治経済学(A圏主義的ヤシロロジ)批判》なる書。

最初にのべた第一の点で 明らかにかれは 共同主観者(パウロアウグスティヌス)の系譜に入るとわたしたちは言っているのであって これについては もう少し詳しい論証が必要になるかも知れません。論証――論理的な精神による認識――が出来たからと言って ただしいと言うわけではなく また逆に そのただしさは 必ずしもより堅固なものになるとは限らない。けれども その責めは負わなければならず これを果たさなければならない。

一つの商品は 見たばかりでは 自明的な平凡な物であるように見える。これを分析して見ると 商品はきわめて気むずかしい物であって 形而上学的小理屈と神学的偏屈にみちたものであることがわかる。

  • 《われ‐なんぢ》対応は 一見 自明的な平凡な関係であるように見える。けれども それを 《 〈われ‐なんぢ〉 ‐それ/かれ 》諸関係なる対応としてのやしろ連関の中に置いてみるまでもなく それ自体きわめて気むずかしい関係であることも同時に 自明である。おそらくそれぞれ《われ》は 一個の独立主観なのであって われのわれと なんぢのわれとは もともと矛盾を持ったそれぞれ存在であるかのように思われる。
  • これをはっきり確かに矛盾だと見るときには おそらく《われ‐なんぢ》対応が もしこの矛盾のようなものを解消しようと動き出すなら――ということは 矛盾は仕方ないのだと諦めることも 一つの解消の手だて(神義論)なはづだが そのように―― なんらかの神学による何らかの和解を見ようとつとめることも一方でおこなわれるであろう。たとえば 前世の因果関係が 現世のいまの人間関係に影響を与えているといった解釈によって 矛盾と見えたことがらをめぐって 和解を求めようとすることである。
  • そこで 商品も それが ただその《物》である場合には どうということはないが これが 《われ‐なんぢ》対応の中に 商いの品として入ってくるときには この商いが成立するためには 両者のあいだの矛盾のようなものを解消し双方が和解していることが 必要である。そうでないというには 両者はいづれか一人もしくは双方とも まったくの阿呆であるか あるいは 商品ないし物が いくらでも無限に存在するという場合かを設定しなければならない。
  • なら 商品は 形而上学的小理屈と神学的偏屈をもって 実際には初めて 商品であるとなる。
  • もっともここで――歴史における長期の観点では つまり 前史から後史への移行をとらえる観点では―― 双方もしくは一方が このような小理屈と偏屈をのり越えている場合を排除するべきではない。

商品を使用価値として見るかぎり 私がこれをいま 商品はその属性によって人間の欲望を充足させるとか あるいはこの属性は人間労働の生産物として得るものであるとかというような観点のもとに考察しても これに少しの神秘的なところもない。人間がその活動によって自然素材の形態を 彼に有用な仕方で変えるということは 真昼のように明らかなことである。
例えば材木の形態は もしこれで一脚の机を作るならば 変化する。それにもかかわらず 机が木であり 普通の感覚的な物であることに変わりない。しかしながら 机が商品として現われるとなると 感覚的にして超感覚的な物に転化する。
机はもはやその脚で床(ゆか)の上に立つのみでなく 他のすべての商品にたいして頭で立つ。それは机が自分で踊りはじめるよりはるかに不可思議なものである。
資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) 1・1・1・4)

マルクスはここで 判断の分岐点のありか(共同主観)を示したのである。
かれは 《形而上学的小理屈と神学的偏屈》とをまったく棄て去った地点からでなければ こう言うことは出来なかったであろう。かれは 無の情態(又は自然本性=処女性 あるいは アポケー)から こう語ったか もしくは このような商品関係という資本連関の現実に対して それを超えた見えざる現実〔としての資本推進力〕から ここに到来して この認識を持ったから こう語ったかであるにちがいない。
机について その《机が自分で踊りはじめるよりはるかに不可思議なもの》としての《形而上学的小理屈と神学的偏屈》 すなわち 《商品》についての分析をじっくり マルクスに聞いてみよう。商品は 《他のすべての商品にたいして頭で立つ》というその物語である。アマテラス語抽象普遍客観とその共同化された観念によって 立っている・つまり逆立ちしていると言っているはづである。
(つづく→2007-03-27 - caguirofie070327)