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哲学いろいろ

#72

もくじ→はてな061223

Pâques Samaritaine
Nuit de la Pâques

Les juifs continuent d'observer la Pâques annuellement. Cependant, depuis la destruction du Temple ils ne pratiquent pas tous les rituels. Les Samaritains se séparèrent des rituels juifs il y a bien longtemps, et leur rituels de sacrifice furent distincts, et ainsi non-affectés par la destruction de Jérusalem en 70. Leurs rituels de Pâques continuent d'être observés comme ils l'étaient dans les millénaires passés.

第三部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム

第三十九章b ヤシロロジとしても 方法の滞留ということ

――《アマアガリせよ》と《説く》アウグスティヌス――


人間は その存在(自然本性)じたいによって善である(やしろ参画的である)から 甘えるA者予備軍も ゆるしがたいというほどに 愛さなければならない。
したがって かれらについては 理論的に論駁してあげるというのではなく ただ嘲笑ってあげればよいと考えられた。(この嘲笑いをむろん 理性的に知解し知解させつつ 理論的にもわたしたちは為すのである。)。これが やしろ資本の形成すなわち愛の王国の歴史的な進展であると考えられた。その余のことがらは やしろろじとしての具体的な実践(そこには必ずしも正解はない つまりいくつかの正解がある)であると考えなければいけない。
《世界のインタスサノヲイストよ 団結せよ》ということばは ここで聞かれるべきである。けれども これがはじめに 内なるやしろの課題であったというほどに かれは内なるやしろ(自然本性=処女性=神の似像)においてでないなら この声をどこに聞くのであるだろうか。
したがって 《万国の労働者よ 団結せよ》とは わたしたちは 声をあげては言わないのである。《世界のインタスサノヲイスト 団結せよ》と語っても ことは何も解決しなかったであろう。《共同の敵に対する行動を目的とした協定(成文としてにしろ不文においてにしろ外なる協定。いい意味でも悪い意味でもおおきく談合)》は これをわたしたちは 結ぶ必要はないし 結ばないし また 信仰が動態であるという点において この――この――談合は 日々更新されつつ結ばれているのである。

  • A者の談合は 一定の時代・一定のA‐S連関体制の その両種のA者による支配のための統治方式として 仮象として・しんきろう閣の建設のために おおきくは一度むすばれる。内村鑑三のばあい キリスト教徒なるスーパースサノヲイストが 野(S圏)にもぐるための談合として また 戦後 この内村のキリスト教アマガケリ道徳が勝利してのように スーパーアマテラスシスム補完のために一般にウェーバー流の学問の再生産に従事するという談合として それぞれ一度むすばれている。談合が悪いのではなく 仮象として先取りし A語理論化し 共同観念のおおいとして 蜃気楼閣のとりもちを作ることが 問題なのである。しかし 多くのウェーバーリアンは 自分が何を言っているのか何をしているのか知らぬまに この幻想のいちじくを アウグスティヌスと同じように何という阿呆なことか 信じていたのです。かく言うわたしめも・・・。

ともあれ いくつかのインタスサノヲイスト党の輩出をもって S者の日々の更新なる談合・協定に 代えるのである。これまでの諸政党の運動はこれを わたしたちの前史であると知ったゆえ。
この最後の言動は たぶんにアジタシオンに属するのであるが 《あやまつならば我れあり》とさえ言ってのように わたしたちは いわゆる前史の諸行動に対して ただ《考える――考えてはいた――ゆえに我れあり》の福音伝道にしりぞくことを 拒むのである。それは すでにおこなわれ確立された福音の二重の伝道である。《考えるゆえに 我れあり》の方法は むしろ支配者A圏のS圏に対する統治・懐柔の諸方策の一つであると知ることになる。

  • デカルトの《コギト》を 《記憶‐知解-意志》の三行為能力の全体としてではなく 意志=愛は ひとえに共同観念への従属として幻想的に固定化させ あとの知解行為=科学・学問分野で 自由に アマテラス語客観理論の精緻化・体系化が人の生きる道だと言ってのように 〔《コギト=私がおもう》を〕一つに客観抽象(つまり わたしたち)をその主語にとり 一つにその述語を ただ知解すること(知ればよい主義)に限定させたのである。

学問は この後史に立って 人間(内なるやしろ)の全的に あたらしく興隆するとわたしたちは 宣言したことになる。

  • 《あやまつならば(欺かれるならば) 我が存在あり》( Augustinus )というのは 《欺かれよ》《人をだませ》ということを 意味しない。人はだれも欺かれることを欲しないのであるから たとえ欺かれても 欺かれることを欲していないそのこと自体は欺かれ得ないと言ってのように この弱さ・譲歩を自己の方法とせよということである。インタスサノヲイストは これを単に個人の心構え・道徳・倫理(人に頼まれても いやとは言えない《性格》)とはしないのであって つねに その信仰が愛をとおしてはたらいてのように 主観共同化に促される。そこで たしかに 談合をもおこなう。けれども この福音を伝道することはもはや終えられたと見てのように 方法の滞留を確立すると同時に 現実の試行錯誤のヤシロロジに向かってすすむのである。
  • このときにはむろん 対立的発展の過程の中にあって この弱さの団結が必要である。けれども 愛は欺かれ得ないであろう。すでに死んで よみがえったものが 不服を訴えるとは考えられない。だからこれを 共同主観ではあるが 独立主観だと言う。この愛(インタスサノヲイスム)が いまは 資本形成(ヤシロロジ)の領域で展開されるのである。


わたしたちは次のことばを聞いて受け取るとき 虚偽(それぞらしさ)を持つであろうか。

このように彼は われわれの視界から去ったが それは私たちが心にたちかえり そこに彼を見いだすためだ。たしかに 去りたまうた。しかも見よ ここにおられる。ながく私たちとともにいることをのぞまれなかったが しかも私たちをおきざりにはされなかった。彼が立ち去った場所は 彼がいまだかつてそこから離れたことのない場所だ。
世界が彼によって造られ 彼はこの世界に存在し 罪人を救うためこの世界に来たりたまうたのだから。私の魂がこの方に告白すると 魂をいやしてくださる。魂はこの方に罪を犯したのだから。
人の子よ。いつまで鈍い心でいるか。生命はもうくだりたまうたのに 上昇し(この地上の国にとどまってアマアガリし)生きたいとは思わないのか。だがおまえたちが高いところにいて その口を天におくならば(アマガケリしてゆくならば) おまえたちの昇りゆくべきところはどこにもない。昇らんがために 神にむかって昇らんがために 降りなければならない。おまえたちが落ちたのは ほかでもない 神にそむいて昇ったからだ。
涙の谷で泣くために これらのことを人の子らに告げよ。そして彼らをいっしょに神のもとにつれてゆけ。愛の火に燃えて語るならば おまえはこれらのことを神の霊によって語るのだ。
(告白4・12・19)

しかしこれらの言葉は むしろ 信じるインタスサノヲイストらが 信じない人びとの虚偽に対して ただ沈黙しないがためのおとぎ話にすぎない。

  • もっとも このやしろ資本推進力が 《かれ》というように人間として語られていることは 擬人化であるとか人間の神格化であるとかであるどころか 人間がこの力を分有するという限りでは おとぎ話などではなく 経験科学であるにすぎない。神を 精神の知力など無限に大きなものとして 暗示する・もしくはA語理論化することが 仮象しんきろうであるが しかし ただ《やしろ資本推進力》として捉え そのまま神学を脱ぎ捨て脱ぎ切ることも それだけなら まだ非現実のおとぎ話の世界にあるようだ。なぜなら それはたしかに個人〔の心〕から独立した力であるが そう言いっぱなしておくことは もう一つの神学にみちびき入れているようなものなのだから。マルクスの方法は そうではなかったが この神学――つまりマルクスの神格化――という欠陥をあとに引きずった。

むろん 神(すなわち自己)が 上の文章・その言葉の文字の中にあるのではない。それでも たとえばこのようなおとぎ話の表現をもって わたしたちは 滞留もするのである。けれども 何にも増して 内村鑑三キリスト教がもし勝利したとするなら 神(大いなる者)を説くのは ほかならぬ偽ってアマアガリしたA者予備軍 きみたちではなかったのか。
(つづく→2007-03-06 - caguirofie070306)