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哲学いろいろ

#61

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Tour Hellénistique( Samarie )

Cette tour est considérée comme étant le monument le plus élaboré ayant survécu en Palestine. Elle était reliait à un mur hellénistique protégeant l'acropole du temps d'Alexandre le Grand. La manière dont les pierres sont posées est unique ainsi que coupe de biseau de la face extérieure. Dix-neuf niveaux de pierres sont préservés. Les vestiges hellénistique de Samarie comprennent aussi une forteresse, une partie du mur de la ville près de la porte occidentale, des pièces de monnaie et des poignées de jarres scellées.

第三部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム

第三十四章a 日本なら日本という土壌の確認

――アウグスティヌスパウロ――


この国は すべて西洋文明の外見を装いながらも 実は驚くべき一東洋社会の光景を見せてくれる。
まづ的確な能率を見せながら西洋の応用科学を使いこなしている。さらに驚嘆すべき努力で わづか三十年の間に幾世紀かの仕事を成就している。――しかもそれなのに この国は社会学(ヤシロロジ)的にはいまでもキリスト誕生より数百年前の古代ヨーロッパの段階に相応するところに止まっているのである。
ラフカディオ・ハーン:日本――解明への一試論――1904 §22)

日本の社会史(やしろ資本の歴史的展開)の全般的な概念と 日本の国民性(くに=《A‐S連関体制》――聖徳太子もしくは天武天皇の頃からであると考えられる――としてのやしろ Kuriakon の一員としてのS者の・またはその全体的な資本連関の 心理的・情感的な側面――むろん エートスを含むであろう――)をつくり上げ 鍛え上げた各種の力(愛)の性質についての全般的概念とを 暗示しようと努力してきた》小泉八雲――

なるハーンは この原本

Japan: An Attempt at Interpretation

Japan: An Attempt at Interpretation

の大扉に 《神国》と漢字による題名を付したように 《日本なる国は その宗教および社会進化の研究によってのみよく理解できるという事実は 本書によって十分に解明されたことと 信じている》(同書 §22)。
このつてで行くと 

ある宗教意識(エートス)の特性は その宗教の特徴的な担い手とみられる社会層のおかれていた社会的状況の単なる関数であるとか その社会層の《イデオロギー》にすぎないとか もしくは その社会層の物質的または観念的な利害情況の《反映》にすぎないとか というようなことでは決してない。
ウェーバー

序論 1916 出口勇蔵編 柴田周二訳)

と言うウェーバーの 《宗教(観念A語共同)社会学(というヤシロロジ)》の方法は 少なくとも日本において 重要かつ有効のように見えてくる。(ラフカディオ・ハーンの見解には わたし個人は かなり信頼しているので。)
もっとも これに対してただちに 

我々(ウェーバー)は 科学と信仰とを分かつところの しばしば社会経済的認識努力の意味を認識せしめようとする目的だけを追求
ウェーバー:社会科学的ならびに社会政策的実践の《客観性》1904 富永祐治・立野保男訳)

していると言えると思う。つまりくどいように言いかえると ウェーバーは 基本的に言って 《信仰(インタスサノヲイスム)つまり生活に立って 科学(ヤシロロジ)する》というのではなく 微妙な相違なのだが そうではなく これら《信仰と科学の――おそらく分ける必要はないと思われる*1ところ その――境界線を露わにする》ことが その第一の課題なのであったと わたしたちはすでに断定的に言ってしまっておくことが出来るかと思うが このかれの方法のより具体的な応用を 日本の社会にそくして あらためて捉え返しておくことはおそらく重要であると考える。
ことは かように 微妙な接点をもつ。関与不可能性との絶対的な関係性のうちにあるものと思われる。(われわれは このウェーバーの方法批判は 基本的に 第三十六章で終えるであろう)。


わたしたちは ハーンが次のように述べるとき かれの《宗教社会学(実は 井戸端会議 また それでよい)》とウェーバーのそれとの異同を 発見するであろう。また 発見しなければならない。

われわれ西欧人には 古代東洋の霊的生活のなかに没入する能力がないにもかかわらず―― 旧日本の思想やまた情緒を分け持つことは あたかも《時の流れ》を遡って古代ギリシャのどこかの都市での消滅した生活の共有を望むのに全くひとしいにもかかわらず―― われわれは 《妖精の仙境》を向こう見ずに訪れるお伽話の流浪者にも似て 日本の幻に永遠にとりつかれている自分に気づく始末である。
そこには幻影のあることを ――それは目に見えるものの現実についてのものではなく その意味から起こる幻影ではあるが――とにかく大した夥しい幻影だが ――それのあることを われわれは承知している。それなのに 何でまたこの幻影は  《天国》を垣間見るようにわれわれを魅惑するだろう。・・・われわれは真実 個人の認識を拒否する社会訓練の結果に魅力を感じているのだろうか?――人格の抑圧を強要する宗教に魅惑されているのだろうか?
(ハーン:日本――解明への一試論 §22)

このように言うヨーロッパ人ハーンは なにも《宗教意識・エートスの固有な内面法則性》を分析しようとつとめたり――全体の研究の過程の中に 分析はむろんありうるが―― それらの《部分的なもの》への気遣いから そう《科学》するのではない。《価値自由的な認識》など ほんとうは どうでもよいのだ。(だから われわれは まづ 価値自由に認識して そのすがたを真実にしめしてあげなければならない)。しかしわたしたちは――むろんハーンと同じように―― この《価値自由な認識 をとおしての真実。つまりわれわれの主観の時代に即した可変的だが真実 の中での価値自由な認識》をとおして 《やしろ資本の進化》を生きるとともに かつ それのみであると言ってのように ウェーバー学の蓄積・再生産をむしろ拒否する。井戸端会議をおこなうが むしろそれとして――その実践の成果とともに―― 過ぎ越せばよいのであって このS者間の協議を 何が何でもアマテラス語理論化し集大成するなどということは つまらない。
これが《しばしば間一髪の差しかない境界線》なのであるが このことを 《露わにする》ことが わたしたちのヤシロロジの一つの課題ではある。エートスの王国の観念的な自由を求めるのではなく このA語共同観念なる自由から自由になることが われわれがそれから離れようと思っても離れられないインタスサノヲイストの自由なのである。わたしたちは もう一方の課題すなわち 具体的にそのつどのやしろシステム編制にかんする政策問題をいまは措いて考察を――滞留してエンタテインメントとしてのように――おこなっている。


山路愛山(1864−1917)は 

日本の歴史は 明白に人権発達の歴史なることを示せり。・・・人権は一つの時期より他の時期に進む毎に進一歩せり。日本の人民は昔より政府( Amatérasu )をして 自己( Susanowo )の趣好に適せしむる能力を有せり。今に至りて此の権なしといふ。是れ日本人民の歴史を侮辱する者なり。
山路愛山:日本の歴史に於ける人権発達の痕跡 1897)

とまで インタスサノヲイスムの性格を規定したが ハーンは かれの宗教社会学の方法(つまり インタスサノヲイスムをわれわれはそこに見出すが)を――あのA語共同観念の《幻影とその魅惑》の中にたしかに寄留しつつ 言いかえるとこの前史からアマガケリしてただちに上昇して行かずに―― 次のようにさらに明らかにしている。

そうではないのだ。(《個人の認識を拒否する社会訓練――A者への譲歩なるおとなしい国民性を 日本人または人間の 本質とするような――の結果に魅力を感じている》のでは ない。《人格の抑圧(やしろ内部での侵略)を強要する宗教(共同観念)に魅惑されている》のでは ないのだ)。
実はその魅力は この過去の幻影が過去と現在とを超えたものを表わしているという事実から起こってくるのである。(A語共同観念は S者井戸端会議の共同主観を たしかに先取りしているという事実から起こってくるのである)。――これは 完全な同感同調の世界である高度のすぐれた未来の出現可能性を予示していることからおこってくるのである。

  • 夕鶴つうの美には ころっと行ってしまう魅惑があるようである。過去・現在・未来を見通すような見方も 含まれているのかも知れない。

今後何千年かさきに 旧日本の理想によって予表されたような道徳的状態が 決して幻想の影ではなく成就しうるように 人間の道が進歩してゆくかも知れないのである。・・・そして人間がそれぞれ自分自身の心情の教えるところ以外には何の法典をも必要としないところ(スサノヲの独立・アマアガリ)まで人間の現実が進歩を遂げた時 その時にははじめて《神道》の昔からの理想が最高の実現を見ることになるのであろう。

  • 神道》については はじめのS圏やしろのインタスサノヲイスムとしてのそれと くにやしろとしての資本連関のスーパーアマテラシスムとなったそれとを 思うべきである。《シントウ》および《シントイスム》とに区別するとよいかも知れない。
  • 前者・ふつうのスサノヲ市民の井戸端会議としての神道については 《古事記・その史観》を参照されたい。

(ハーン 前掲書 §22)

《幻影とその魅惑》を呈する宗教(ここでは スーパーアマテラシスムないしナシオナリスムとしてのシントイスム)を 価値自由に認識することは 必要不可欠であるが――というよりは 生活の中でいやでも認識せざるをえないのであるが―― それは この宗教(観念共同における超一物一価)の中にわたしたちが 寄留しているとき その中で・そのためにのみなのであって これを 対抗的な別様の超一物一価としてのスーパースサノヲイスムへと・つまり別途のエートスの王国へと 連れ去っていくためなのではない。
わたしたちは この前者の宗教のもつ《欠陥を憎む》べきであるが その欠陥を――後者の学のように 観念・精神・昼的に――取り除いたところのエートスの王国を築こうとすることによってではない。わたしたちは まづ 譲歩しつつ 死んでいる(いた)のである。この《弱さを誇りとしよう》――そこで 欠陥が癒されて 自己還帰する・その木の船に乗ってこの前史の海を渡る力が与えられる――と言われたことになる。なぜなら これが キリストの肢体――それは わたしたちである――なるやしろ(エクレシアおよびキュリアコン)であると見出したから。死ななければ――前史から後史へ――生まれ変わるわけはないのであるから。


何となれば〔スーパーアマテラシスムに対抗して スーパースサノヲイスムを唱導するに至った〕当時の内村〔鑑三〕氏は 基督教徒には相違なかりしかども 而も 最も熱心なる愛国者にして 最も痛烈なる外国宣教師嫌ひなりければなり。
山路愛山現代日本教会史論――保守的反動(二)――)

この後世から見てウェーバー学徒というべき内村鑑三に対して 愛山は 次のようなエピソードによって その全体的なそして価値自由な認識をおこなっている。

余は猶ほ記す。明治廿二年の天長節に於いて余は麻布の東洋英和学校に於いて内村氏の演説を聞きたり。
当時 彼は其の演壇を飾れる菊花を指して曰(い)ひき。

此の菊花は自然が特に日本を恵みたるものの一なり。菊は実に日本に特有する名花なり

と。彼は更に声を揚げて曰く 

諸生よ 窓を排して西天に聳ゆる富嶽を見よ。是れ亦 天の特に我が国に与へたる絶佳の風景なり。されど諸生よ記せよ 日本に於いて世界に卓絶したる最も大なる不思議は実に我が皇室なり。
天壌と共に窮まりなき我が皇室は実に日本人民が唯一の誇りとすべきものなり。

と。
其の粛々なる態度と其の誠実を表はして余りある客観とは深く聴者の心を動かしたりき。
彼は科学者なり。彼は泰西の文学に就いて多くの興味を有するものなり。されど彼は愛国者なり。当時の彼は聖書とシェーキスピアと太平記を愛読せり。・・・
(同上=山路愛山現代日本教会史論――保守的反動(二)――)

この愛山の議論もさらに続くが そのあとわれわれの註解を述べよう。
(つづく→2007-02-23 - caguirofie070223)

*1:信仰と科学とを分ける必要はないと思われる:これこれは 価値判断を交えて 価値自由のかたちにおいて 述べる あれそれは 価値判断を控えつつ やはり価値自由のかたちにおいて 述べるというふうにすればよい。それで済む。もともと 分かれていないと言わなければ 話にならない。また 仮りに両者を分けるとすれば その分別の仕方が 時に 価値判断に基づいている。