caguirofie

哲学いろいろ

#70

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Ein Harod

Aux pieds du Mont Thabor se trouve Ein (la rivière de) Harod. Juges 7 décrit les actions de Gédéon rapetissant son armée. Il amena les hommes à la rivière et les tria selon la manière avec laquelle ils buvaient. Aujourd'hui la piscine se place juste en face de la cave où la rivière émerge.

第三部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム

第三十八章b 山路愛山に対して堺利彦のばあい

――《欺かれるならば我れ存在す》――


試行錯誤の対立的発展としてすすむのである。わたしは 漸進的ソシアりスムを言っているのではない。インタスサノヲイスムとしての原理的な共同主観すなわち 理論ではなく史観つまり生活じたいが A語客観ではなくS者実態が 動いて理性的に知解されつつ 一方で(いや 基本的に)方法として 地下水のように これを確立してゆくということでなくてはならない。
未来社会に向かうのではなく――いやたしかに前へ進もうとするのであるが 未来のかたちある希望に向かうのではなく(それは 願いとして 他方で 保持されてもいるのだが)―― 各スサノヲ者が このようにインタスサノヲイストとして 方法の見いだしと滞留の確立とを やしろにおいて共同主観動態として 得ることが可能になるということ これを いま そのつど 試行錯誤の対立的発展の中に 問い求め実践してゆくのである。
このつねに現在地点に立つ滞留とその共同主観の確立が コミュニスムであるから 漸進的に次なる新しいやしろ形態へ向かってすすんでいくのだとは 語らないのである。
これは 一見 心構え〔主義〕のようなのであるが それを そう見るというのは A者やA者予備軍らの両種のキャピタリスム的行動の相互談合にもとづく仮象対立がわれわれの主観にかぶさっているからであって この後者のような認識の中でそのまま 漸進的にしろ時に革命的にしろ未来社会への歴史の段階的移行を言うことは それがじつは つねにあたかも福音伝道に立つ心がまえ主義なのだと考える。
愛山と利彦とのあいだには このような問題点がひそむと思う。なぜなら A圏においてA者どうしとして 現行スーパーアマテラシスムと対抗スーパースサノヲイスムとの共同観念的な対立が わたしたちに蔽いかぶさっているからと言って あの《忠義の宗教》《義務の観念》から なにも 同じような諸スサノヲイスムの共同観念的対立として 見せかける必要はないのであって そのまま 多種対立的な発展なのだと認識しつつそのように行動すれば足りるのだから。
しかしすでにわたしたちは スーパースサノヲイスムは まぎれもなく まやかしであると論証してきた。このとりもちに ひっかかってはならないのである。さすれば 愛山と利彦との対立とそのそれぞれの主張は おおきくインタスサノヲイスムの潮流としてその中で 実際にありうる・起こりうることだと 認識することができる。言いかえると それらは 前史だと言うことができる。
この前史をさらになおA語抽象客観理論において先取りすることが 殊にスーパースサノヲイスムの行き方なのであって このとりもちの中にひっかかってはならない そのアマテラス語のメロディを見つめてはならないのである。――実は たしかに対立は(なぜなら ヤシロロジストとしては あのインタスサノヲイストも おおいに試行錯誤としてしか進んでいないからだが) この対立は わたしたちの内に 沈黙しているときにも 第一次のメロディとして 耳に十分に達しているからなのである。わたしたちも この対立と試行錯誤(ヤシロロジ政策としての一つの弱点――むろん 故意のではない――)を 声として聞いている。
けれども あのスーパースサノヲイストたち(ウェーバーイスト)は この弱点を欠陥と見なし 神の前にすすみ出て 自分たちの説く精神のエートスの王国にはまるで非がないかのように だから 告訴する。愛山は この欠点を――ヤシロロジ政策としては――もって 堂々とかれなりの理論を――可変的に――主張した。利彦は この理論のいまだかれの描く未来社会(その像)とは異なる点をもって 自己の主張を 保留した。言いかえると 福音伝道の中にとどまる。けれども わたしたちは 試行錯誤でいいとしなければならない。だれか 誤謬をまぬがれている人間が――ただし インタスサノヲイストとしては 《完全に回心し》《完全な者になりなさい》(コリント後書3:11)―― この地上にいるであろうか。
《欺かれるならば 我れ存在する》(神の国について11・26)である。堺利彦(つまり一般にソシアりストを代表させているのだが) かれは 《我れ考えるゆえに我れ存在する》と考えたのである。この《存在》の一つの根拠としての《思考》というものを このような福音をまだかれは 伝道したいと言っているようである。内村鑑三らウェーバリストは アマテラス語観念において 《理念型》や《内的な固有な法則性》そのものを究極のものとして 福音としまたこれを伝道するというものである。利彦が このような幻影から離れていたことは言うまでもなく かつスサノヲイスムの伝道をもってかれのヤシロロジとしたのである。
政党組織とその活動が――殊に共同観念的な日本のくににおいては―― この(伝道の)ためにあったというのは いささか通俗的な物言いであるが 同じく通俗的に言っても その後現代に至るまでの社会主義政党の活動を見るとき 必ずしも的を射たものであるとは言えないであろう。日本においては ソシアリストは 福音伝道をしているのである。
けれども あの戦争の最中に かれらが転向を経験したことは 重要である。この点についてすでに触れた(§34)が 福音伝道と言えどもその実践に当たって かれらはインタスサノヲイストとして――つまり必ずしも労働者階級としてではなく 一個のスサノヲ者として―― 完全にもっぱらのA者に譲歩したのである。その後 A者・A圏のスパイとなるといったように A者とのひそかな談合をもって 転向したというばあい(それは 実際にあったと考えられている)は 転向・譲歩とは言わないが そこで確かに《わたし》が死なしめられたとするなら 《わたしの力つきはてた》とするなら かれらは スサノヲ者として前史から後史への転換を見たはづである。転向を恥ぢたというのが ほかならぬ回心である。
まつりごとの神ではなく まつりの神を見まつったはづである。これは インタスサノヲイストの真骨頂である。《弱いときにこそ 強い》(コリント後諸12:10)。
そうしてわたしたちは 《国家》の何たるか また そのやしろとしての歴史的な形態移行がいかにあるかを考え得るし 理論し実践してゆくことができる。このヤシロロジの原点を持つべきであると考えられた。

(十四)小農を保護するの道を講ぜよ。
(十五)交通期間の保存と発達とは国家の自ら任すべきものなり。
(十六)山林の経営は決して私人の自由に任すべからず。
(十七)小資本家労働者の為めに金融機関を具(そな)ふべし。
(十八)専売法を行なひて税源とすべし。
(十九)社会政策は試験中(試行錯誤)の事に属す。先づ之を都市(インタムライスム)に行なふに如(し)かず。

結論は是れだけなり。要するに愛山君は中等階級主義なり。小資本家党なり。或いは国家を説き 或いは皇室を口にすと雖(いえど)も 実は中等階級の小資本家を以て此の国家社会を経営せんと欲する者なり。故に彼れは大資本家を抑へんと欲すると同時に愚民政治を罵倒す。而して時に其の(愚民の)勢力を利用せんが為めに 聊(いささ)か之が保護を主張す。
曩(さき)に米国のブライアン氏 我が国に来遊するや 無学なる新聞記者は氏を以て社会主義なりと称したりき。蓋(けだ)し氏の属するデモクラット党は小資本家党にして 大資本家党なるレパブリカン党に反対し 独占事業の公有 トラストの制限等を主張したるが故に 誤って社会党を以て之を目したりしなり。今 愛山君の説 国家社会主義を以て其の名とすと雖も 実は是れブライアンと同じく小資本家党なるに過ぎず。《社会主義》の名は只だ人目を引かんが為めの看板なり。
最後に 我が輩を以て之を見れば 愛山君等の運動は実に無益の徒労なり。此の過渡時代に於ける一時の現象として 亦た或いは止むを得ざるべしと雖も 進まんと欲して進むこと能はず 退かんと欲して退くこと能はず 遂に宙宇に迷うて消失するの外(ほか)なかるべし。
堺利彦:《国家社会主義梗概》を読む――《平民新聞》準備版としての《光》第一巻第三号 1905・12・20; 林茂・西田長寿編《平民新聞論説集 (岩波文庫 青 126-1)》)

愛山のヤシロロジ政策をもって そのままかれの共同主観者としての力なりと言うのが こっけいなのは この堺のインタスサノヲイスム(共同主観的伝道)そのものをもって かれのヤシロロジであるとするのは こっけいなのと同じである。わたしたちは 知恵を出し合わねばならない。わたしたちは 愛山の《小資本家党》を擁護したであろうか。かれに 逆に思いいれをして見るなら もしインタムライスム(つまり S圏連合主導‐A圏の連関制)に立つなら 《金融機関》をS圏やしろ所有とするということ つまりS圏やしろ資本の一環(一機関)として おそらく自治態勢( mura )に準ずる機関がそのやしろにおける役割をになうのがよいと思われる。ここにA圏は もはや支配的には まったく関与しないであろう。

  • 当時(1980年代) このように思っていた。

われわれは この上のようなかたちを 目標とするのではないが またそれを目標としてすすむのではないゆえ A語仮象現実に対しては そのような(目標とするのではないところの)おとぎ話をもって対処していてもよい 言いかえると ここでの堺利彦のように つねに共同主観の原理に立ちつつ 未来社会とのあいだで・ということは明らさまに言えば権力に向かって対抗的に 滞留して 福音するのではなく あやまちうるうたを ここまでは(以上のような範囲までは) うたってもよいと思うのである。
われわれの敵は 単純な話としても たしかに《大富豪であるのではなく》 やしろ資本推進力(堺は これを宣べているのだ)に敵対する空中の権能であり ここからの課題は むしろA圏権力には従いつつ(したがうから抵抗するのである) その抵抗のS者のうたを 仮象A語においても先取りしてあたかも緩衝装置をもうけて このとりもちの中へ引き込み空中の権能による捕囚を促すA者予備軍のやしろにおける解放にあるであった。
この言いは 堺の共同主観的発言と同じように 抽象的でまた それ以上におとぎ話のようなのであるが わたしにはどうも これが わたしたちの進むべき方法の滞留する道であるように思われる。そうして むしろこの動態こそは 人間の目的とされてもいいように思われるのである。しかしわたしは 天なる祖国のことはいまだ知らないから 堺らの霊的な共同主観のほうが ただしいのであるかも知れない。
(つづく→2007-03-04 - caguirofie070304)