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哲学いろいろ

#58

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Coucher de Soleil( Mer de Galilée )

Le calme paisible de la mer de Galilée peut très vite se transformer en violente tempête. Les collines alignées à l'est et à l'ouest de la Galilée forment un entonnoir où les vents pénétrants peuvent très vite agiter les flots de la mer. Encore plus violents sont les vents orientaux venants des hauteurs du Golan. Piégés dans le bassin, ces vents peuvent être meurtriers pour des pêcheurs. Une tempête en 1992 créa des vagues de plus de 3m de haut, pénétrant dans le centre-ville de Tibériade et causant de graves dégâts.

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第三十二章b ウェーバーおよび大塚ヤシロロジの方法批判

――依然として マニケイスムの批判――


大塚さんが 《近代化の歴史的起点》を 《商品世界》または商人世界の中にではなく 《局地的市場圏》における《小商品生産者》の経済活動に求めているという主題を承けて。――
このように局地的市場圏におけるプレ・インタスサノヲイスムが 経済的蓄積を経て スサノヲ・キャピタリストとして立ち やしろ(それぞれの国を含めて)の全体にまで そのキャピタリスティックなインタスサノヲイスムを拡大させようとするときに キャピタリスム以前の共同体として残されていたムラの封建的勢力と衝突し むしろ後者が巻き返す過程が現われ 上に引用した文章によって見られるようなその後の経過が推移していくのだと。
わたしたちが ここで注目し警戒もしなければならないのは 次の一点である。むろんここに取り上げている研究(このテーマ設定も)は まだ概括的なものであり その詳論(また新しい学説)を見る必要は十分にあるのだが あるいは ここに考察された以後の歴史をさらに研究しなければならないしするのだが 問題は 《両種の資本主義的行動の対立》という事実を もしなんらかの間違いから 一定の視点として 提出しているとするなら 問題は別様に拡がるのではないか。
つまり 競争にしろ共存においてにしろ キャピタリスト・スサノヲ者間の対立的な行動が(それは当然 存在するゆえ) 事実としてではなく 一個の独立した・殊に《独自》の《視点》として 浮かび上がらせざるを得ないかたちの史観を 少なくとも予表させているということを指摘せねばならないのが 問題となる。

  • なぜなら――今度はこの視点から―― この《両種の資本主義的行動の対立》は おそらく《近代化の歴史的起点》たるスサノヲ共同体の中の小商品生産者のあいだの経済関係・資本連関の中にも読み取れるということを 予表させているからである。そうでなければよいのだが 逆にそうでなければ 《起点》としてのスサノヲ・キャピタリストらの同業者のあいだでの・需要の増大と蓄積とをつうじての対立や競争的な(むろん 共存的なを含む)発展は なかったことになるであろうから。そして ゆくゆくは――何かの拍子でというべきか―― この《両種のキャピタリスムにもとづく行動の対立》なる視点から むしろすべてのやしろ資本形成の過程が 《起点》によって 捉え返され 叙述されがちであるということになりうる。

これは 明らかに《二元論》ではないだろうか。つまりこうである。《同じような業種・クラス・また時にエートスの 二者のスサノヲ経済主体のあいだに 対立を見る》から 二元論なのではなく そうではなく
一方で 《同種のスサノヲ者のあいだに それがあるのは むしろ当たり前のはずであるのに その対立的行動をしっかり捉える》ことと
他方で 《これを学的に捉えるその〈わたし〉が――いま邪推するのだが―― 結果的にしろ その事実行為の場とは別個に 存在してしまう》ということ
この邪推が現実となれば 二元論だ。
マルクスもむろん ヤシロロジなる学をうちたえようと努めたが また そのように研究するときのかれは やしろの事実行為の中にいるS者とは違う領域に――或る種の仕方で 一時的にしろ――いると言わねばならないが そのヤシロロジが 現実のインタスサノヲイストから遊離してしまうという気づかいは かれに・そしてわたしたちに 無用であった。わたしたちは 井戸端会議を止揚するも そのうわさの質は 本質(存在)的に同じである。わたしたちは これを摂りたいと思うし 採らねばならないと思う。

  • マルクスのばあい 方法の滞留をきらったが その分だけ かれの文章は 通俗的に言ってマゾヒスティックな印象を与えることを否み難い。この論証の要は見ない。この感性を見ない人は この説を採らなければよいのだから。ただもしこの線で上のことを言いかえると それは S者現実の井戸端会議(またA圏への譲歩)の立ち場をつらぬいた分だけ A圏のS圏やしろへの侵略が その文章=文体=判断の中にくい込んでいる。このことが 見る角度によっては 自虐的な印象を与えるというものなのである。ともあれ マルクスは スサノヲ生活者としてのかれおよび研究者としてのかれと言ったところで 別々のマルクスではなかった。あるいは 行為の現象面では ヤシロロジ研究者としてのマルクスは 生活者インタスサノヲイストとしてのマルクスの従属者であった。

このとき――論旨をいくらか飛躍させて述べるならば―― 《両種の資本主義的行動の対立》など 《視点》として必要でなく また事実としても――むろんだから 排除・無視することを 意味しないも―― どうでもよいのである。(わたしは マルクスの学説を擁護しているとは思わない。方法が 明かされていると言っているのだが。)《こうした絶対王制下における複雑きわまるジグザグを通しておこなわれる資本主義経済の発展》は こうしたジグザグなる視点としての――殊にそこから引き出されるところの事実とそして視点としての――《両種の資本主義的行動の対立》を 明らかにしているのではなく スサノヲ者らのあいだでの共同主観形成への対立的発展過程を 明らかに示しているのだ。

  • その対立的発展過程とは なんならエートス間の対立でもありうる。しかしそう言うと 人の動態的なアマアガリを見ない もしくは それを平面的に見てしまい それをこの地上の国において単にS圏からA圏へのアマアガリとして(つまり いわゆる出世競争として)見てしまうと疑われる。大いなるエートスの繭は そのままであるから。

すなわち 事はやはり経済行為の政治的側面(と言っても交換行為的な側面)としての一個の一物一価(そこでは 貨幣が・つまりアマテラシスムの貨幣は 象徴アマテラシテ価値として概念把握しうる)ともう一個のそれに対抗的な一物一価との対立といった歴史基本的な要因を 明らかに示しているのだ。または――絶対王制なり国家なりというのであるから つまりそれらも一つの前提なのであるから―― 一個の超一物一価(スーパーアマテラシスム=ウルトラナシオナリスム)と もう一個の・対抗的な超一物一価(スーパースサノヲイスム)との対立 これらの歴史基本的な要因を 明らかにして示しているのだ。
《対立する両種のスサノヲ・キャピタリスト》の存在は 《絶対王制下における複雑きわまるジグザグ過程としてのキャピタリスム経済の発展》の中で 見られうるが それは 《起点》もしくは《視点》なのではない。そうではなく 絶対王制社会といったやしろにしろ そのやしろ全体の資本連関の共同主観的形成が そもそも初めに 起点となりまた視点にもなって ごくふつうに経済的利害関係において相互に対立しあいつつ発展する過程 そこにおいて 《対立する両種のスサノヲ・キャピタリスト》の存在も 《相互ジグザグ行為》をくりひろげるというのであって この事実は どうでもよいのである。
しかしかれらは その当時には そのような必然の王国の中にあって 同種のスサノヲ者間の対立的・競争的行為こそが たしかに前史としての人間のやしろ資本形成への動因であったと言うことはできる。どうでもよいというのは そこまでの歴史事実でありうる。
社会主義》が 対抗的な一物一価制を訴え 《マルクシスム》が 同じく対抗的な超一物一価の王国を指向しなかったとは言えない 言えないが この対抗的な超一物一価制を 《学》の中に――そして 精神主義的なエートスの王国の中に―― 結果的にしろ もとめることは もっと危険なのである。《マルクシスム》に 理論的もしくは方法的な誤謬は存在するが まだこのほうが 確実なのである。そこでは 《土地所有対土地所有 商業資本対商業資本 産業資本対産業資本の 両種の資本主義的行動の対立》のあることは どうでもよいのであり (つまり 必然の世界の事実として分かっていることであり だからこの点についてではなく) かれらは やしろシステムのあり方を――そうして 《近代化の歴史的起点》を継承するべく―― 問いかけているのだ。(《マルクシスム》のばあい ここまでだとも言わなければならないかも知れない)。このことは インタスサノヲイストらの井戸端会議に 理論的にではなく直観としてであるにせよ 生きた歴史として まづ常に存在する。
これを 《両種の資本主義的行動の対立》の――これを 第一次的に歴史事実として見ることはありうるがその――《視点》のほうへと 精神の徳の地点に立って 連れ去ってゆくことは 現実と和解する神の視点に立つことのようで 実は そのように見る自己の学問的良心によって 別途に観念の帝国をうちたてようとすることに等しい。この大いなるエートスと そして現実の事実関係としてのエートスとが じつは かれらの中にすでに初めに 《両種の資本主義的行動の対立〔とその対立の地点におけるひそかな両者の談合〕》をもたらしているのだ。
これを 《和解(内なるやしろの平安)》と言うなら その《恐るべき運命》の終末における和解である。けれども あのヤコブイスラエル)の時代から時はくだって 人間キリスト・イエスは すでにあらわれたのだ。和解という点で わかりやすく言うとすると こう言える。その後 具体的に《運命》に挑んだのは 一例として マキャヴェッリである。つまり その素地は すでに中世の以前に 出来ていたはずである。
《土地所有対土地所有 商業資本対商業資本 産業資本対産業資本 金融資本対金融資本 また エートス資本対エートス資本》の対立を 見つめるのではなく これを分析するのではなく(経済史・政治史のケース・スタディはありうる) これをヤシロロジの視点たる概念装置とするのではなく 土地所有一般と資本所有一般とのやしろシステムとしての編制 これを論議しなければいけない。

  • マルクスは これをした。マルクシストも そう努めた。ウェーバーは これを無視した。または ありもしない別のエートスの王国を打ち建てそれに拠って もはや解決済みとした。これは 和解の停滞であり 前史のアマガケリ・前史の裏返しなる依然としての前史なのであり マルクスらは 後史としての和解なる動態 動態としての和解なのだ。

エートス資本などは どうでもよく ――古いそれらはすでに認識され分かっているのであるから――これをむしろ 新しい編制にあたって その誤謬を指摘し欠陥を取り除いてやろうとするのではなく わたしたちがそれを 用いるのである。この新しい動態において 別途のエートス資本などはない。新しいエートス(思惟・内省=行為・生産の方式)は この編制作業という現実の主観共同化の過程において それはそれとして おのづから生起してくるであろう。これをいま先取りする必要もなく これをただ精神の知力によって展望することも まったくナンセンスだ。未来時の写真撮影のようなものだ。


これが ヤシロロジにおけるインタスサノヲイスムであり 次の課題は ヤシロロジじたいの観点に立って インタスサノヲイスムを過程させようという実践であるだろう。わたしたちは――次のように言うと不遜に聞こえようとも―― これまでの学問を 排斥するのではなく 前史として捉え新しく用いることができる。また 上の行論で 《資本》ということばは 《愛》とおきかえて考えるとよいと思われる。

  • つまり 《両種の愛(すなわち 運命なりデーモンなりの神々でもある)》というのは 前史であり 《やしろ資本推進力なる一つの愛 のもとにおける 多種多様・相互対立的な発展としての共同主観にもとづくやしろ資本形成の歴史》 これが 後史である。

じつはそれが インタスサノヲイストたちの《近代化の歴史的起点》であったのだから。ほかに 福音(道)はないし また さらに別個に問い求められるべき人間精神の力も徳も美もまたエートスも あるいは 時に隠されている謎も秘密もいっさい ない。わたしたち人間は すでにここまで堂々と宣言することができる時代に入った。これに右へならえするのではなく おのおの自己(わたし)を思い それぞれこころに問わなければいけない。
(つづく→2007-02-20 - caguirofie070220)