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哲学いろいろ

#57

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Poisson St Pierre( Mer de Galilée )

Dans l'ancien temps, trois sortes de poissons étaient principalement recherchés par les pêcheurs dans ces eaux. Les "deux petits poissons" apportés par le jeune garçon lors du miracle de la multiplication des pains pour les 5000 hommes étaient probablement des sardines, l'une de ces trois espèces. Pain et sardines étaient les produits type des habitants locaux. La seconde espèce était celle des barbeaux, connus ainsi pour leur moustache. Quant à la troisième, celle du poisson peigne, elle est aujourd'hui connue sous le nom de "Poisson St Pierre." Possédant un aileron dorsal ressemblant à un peigne, ce poisson peut mesurer jusqu'à 50cm de long et peser jusqu'à 1,5kg.

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第三十二章a ウェーバーおよび大塚ヤシロロジの方法批判

――依然として マニケイスムの批判――

しかもそのいちじくは もし誰かある聖者が 自分の手を汚してもぎとらなくとも いづれにしても他人の汚れた行為によってもぎとられるわけですが 聖者が食べると かれはそれを自分のはらわたにまぜて いちじくから天使たち(思想)を それどころか 神の細片(権威あるとされることば)さえも 祈りの中でうめき げっぷをしながら 吐き出すというのです。至高にして真なる神のこれらの細片は もしも選ばれた聖者たちが歯と胃袋とによってときはなたないならば その果実のうちに縛られていたことだろうというのです。
(告白3・10・18)

むろんこれは マニケイスムの教義です。この考え方(スーパースサノヲイスム)をよく読んでみると 《聖者》が学者であり 《いちじく》は 井戸端会議のインタスサノヲイスム(要するに 人びとの生活 と言うならばエートス)であるとすれば そのような類型的な構造において ウェーバー社会科学の方法の秘密が その生産(研究)システムの過程のようなものとして 言い表わされていると考えられまいか。
《至高にして真なる神のこれらの細片(生活の指針といったようなもの)は もしも選ばれた学者をもって説いているのでなければ 井戸端会議は依然としてミーちゃんハーちゃんの前史の中に縛られていたことだろう》というのです。これに対しては おおきなお世話だと まづ その方法にかんしては はっきり言ってあげなければいけない。
マルクスは S圏やしろ(つまり 《歴史のかまど》としての市民社会 Susanowoschaft )の井戸端会議を――むろん深化・普遍化させて―― 語ったのである。ウェーバーは 一つに この語り口を 内面的に だから上品にだが エートスそのものにおいて――行動を停止させてのように―― 分析したのだ。《聖者たちが歯と胃袋とによってときはなたないならば その果実が 聖化されない 権威づけられない》と わざわざ 腐心したのである。
その根拠は 一つに ふつうの《必然の王国(色と金の世界 そのエートス)》では そのような《聖者たち》=アマテラシテ象徴を帯びた権威がなければ 本質的に同じ井戸端会議のことばであるにもかかわらず それは 決して通用しないのだよと わざわざ憂慮したことにより もう一つに かれらもこのふつうの必然の王国とは別様の・しかし類型的に同じような精神の徳のエートスの王国に住むゆえ 住みたいと思うゆえに こちらの王国の権威づけが 必要だったことにある。この別の《無限に大きなもの》の権威づけを(偽りのアマアガリを) しかし ふつう一般の必然の王国の権威づけ(アマテラシスム)と 類型的に同じ手口で やったのだ。
《聖者の歯と胃袋を経てきた〈いちじく〉》が たたえられる。

死に臨んでヴェーバーが残した言葉 《真実なるものが真理である Das Wahre ist die Wahrheit. 》も 単に理想主義哲学の信念を示唆する言葉であるよりは そしてまた単なる人間的真実を意味する言葉であるよりは むしろ自己のデーモンを知り それに従うことのできた生ということが意味されているのであろう。
(内田芳明:序論 マックス・ヴェーバー》 §8)

なぜなら 聖ウェーバーが 《しばしば 〈私がしないことは 誰かがする Was ich nicht mache, machen andere. 〉と語った》(内田前掲稿)のだから。なぜなら 後世に託すことはよい。しかし マルクスが その理論(それはつねに可変だ)をではなく かれの共同主観(インタスサノヲイスム)を 後世にも希望したごとく あるいは時に 《私が書くのは後につづく人のためだ J'écris pour quelqu'un qui vient après. 》(P.ヴァレリ)というような表現(判断)がなされることはあっても 《業績の達成》を後人に《強いる》ことは 《余の耐えられぬ事》だ。
これは 冗談であるが また 内田芳明や大塚久雄が 《強い》られて学問におもむいたのでは到底なく――この間の失礼はゆるされたし―― ウェーバーウェーバーで まぎれもなく 一個の人間だ。問題は そのやり口の蔓延にあるだろう。


全面的な引用から始めます。

一度ヴェーバーが かれにとって学問が何を意味するのか を問われた時に 次のように答えた。

私は自分がどれだけ堪えられるか それが知りたい 。Ich will sehen, wieviel ich aushalten kann.

これについてマリアンネは一つの立派な解釈をつけ加えた。

人間存在の諸々の二律背反に堪えること そしてさらに 渾身の力をもって一切の幻影を抱かぬ冷徹さを得 しかもなお自己の理想の不壊とその理想への献身の能力とを保持することを自分の課題と見ていた ということであろう。

だが このヴェーバーの印象深い言葉も このように カント的思想世界での《二律背反》の思想を語る言葉として理解されるよりも むしろ いまやヴェーバーにおける《デーモン》と《運命》の概念の光に照らし出されてのみ それはいっそうその奥深い真意を語るものとなるのではあるまいか。
(内田 前掲論稿 §8)

だから つまり次に因果関係はまったく存在しないが―― あの内村鑑三は スーパーアマテラシスムとの《二律背反》(そしてそれは むしろ 自分でわざとそう設定した)にどれだけ耐えられるか これに挑んでのように 不敬事件を契機に 《聖書之研究》に去ったのである。《自己の理想とそれへの能力を保持すること》が 《もう一つの》ありもしないエートスの王国を築き上げることであり やしろ資本の形成に関与しないという関与つまり無関心(超一物一価)を自己の姿とすることであり むろんこれが やしろ資本に関係しないのではなく するのであり その形成を阻むように 猶予させあそびを持たせるのである。
生活するやしろ資本家としての共同主観を 常識とするのではなく 観念的なエートスの王国を 《もう一つの》常識とすることだからであり 一般の常識とのあいだに《二律背反》をむしろ意図的に見出そうとし しかもこれは決して二律背反なんかではなく もしそのときには《各自のデーモン》に従い運命を見出せばよいのだよと説いて 人びとを――つまりはじめの生活に立って常識において信じる人びとを―― 自己の誤謬にわたそうとし モラトリアム人間とするからである。
《デーモン》に従っているのだから これは 真実に正しい道であるとか あるいは《日ごとの要求に従い》つつ行くその《運命》は このデーモンをして我れにもう一方の力を・すなわち妨害・挫折せしめるほうの力を与えたりとか言って 共同主観へのアマアガリを阻んで猶予させ 《かご》から出ない。そう言えば ウェーバーは 資本主義の経済的なやしろシステムを称して 《鋼鉄のような外殻 ein stahlhartes Gehäuse 》と言ったことがある。内田芳明も紹介・批判している〔前掲論稿 §6 註(1)〕のだが これをミッツマンは 転釈・誤解して 《鉄の鳥かご The Iron Cage 》という一冊の本を書いてしまった。けれども ミッツマンは ウェーバーが自己の内的なやしろ(または エートス)から 外的なやしろ(《鏡》)を見て捉え この鏡に 自己の《鳥かご》の映ったものを《鋼鉄のような外殻》と翻訳したのだと 誤解(正解)したのだ。
そうでなければ この《鉄の鳥かご》なるやしろも動く あるいは人は その前史から後史へ移行しうるということを――そのときデーモンに従ってであれそうでなくであれ―― 上の翻訳の反面で大々的に 主張してゆづらないところの《自己の理想の不壊とその理想への渾身の能力とを保持》していたことであろう。矢内原は これを為した。だが マックスの前に カールが 口をすっぱくしてでも そのことを叫んでいなかったであろうか。まさか 天才マックスが ドイツ語を読めなかったということでもあるまい。


だが この章では――第二部の最終章だが―― 大塚・ウェーバーのヤシロロジの方法批判が 目的である。
抽象的にのみ ウェーバーのスーパースサノヲイスムを批判していると言われるのを嫌わなければならない。そこで 次の経済史の論稿にあらわれたその方法をここでは取り上げよう。まづ一括して掲げる。

〔それはともあれ 以上のように〕一定度のブルジョア的発展の産物
マルクス

として絶対王制がうちたてられた。いま少し詳しくいうと そうした初発的な資本主義の発展を自己の体制のなかに包みこみ それを利用しつつ 国民的規模における政治的統一をうちたてながら 封建的勢力は きわめて強固な形で支配体制を再編制したのであった。
こうした成立の事情からして 絶対王制社会はその内部にきわめて複雑な 場合によると真正面から利害の対立するような諸要因を同時に抱え込む結果となった。体制の支柱をなす封建的土地所有者群(貴族 ジェントリー)ととりわけ農村工業地帯に根づいている産業資本家群(マニュファクチャー経営者とそれに連なる小商品生産者たち) これが絶対王制社会内部における基本的対立であった。
しかしすでにみたように この両者の関係は現実にはきわめて流動的であり したがってきわめて複雑なものとなった。すなわち前者の側には 前期的商人層は当然として その延長ともいうべき性格の産業資本家たち(とくに特権的巨大産業経営を擁する独占産業資本家たち)がくみし 後者の側には新しい資本主義的利害をともにする商人層と土地所有者層がくみした。こうして 絶対王制社会内部における対立は 現実には 土地所有対資本といった単純なものではなく 同時に 土地所有対土地所有 商業資本対商業資本 さらには産業資本対産業資本として現われた。
マックス・ヴェーバーはこれを《両種の資本主義的行動の対立》(《プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神》)というふうによんでいるが ともかく 資本主義経済の発展はこうした絶対王制下における複雑きわまるジグザグとの関連において それぞれの国なり地域なりの独自な特徴がつくり出されていったのであった。
大塚久雄:近代化の歴史的起点  《西洋経済史》1・4)

この論考で 大塚さんは 《近代化の歴史的起点》を 《商品世界》または商人世界の中にではなく 《局地的市場圏》における《小商品生産者》の経済活動に求めている。言いかえると 共同観念的に言って 《一物一価(人びとの無関心連関)》の中から または ましてや何らかの大きなアマテラシテ権威の号令のもとにその《超一物一価(ことごとく右へならえ)》なる〔観念の〕資本連関(つまり そのようなやしろ関係)の中から いわゆる近代人(スサノヲ・キャピタリスト)が生まれ出たのではなく 《局地的市場圏》つまりそのようなスサノヲ共同体としてのムラ または〔プレ・〕インタムライスムにおける〔市場経済的〕生活の中から 経済行為の一側面としての政治的・仲介者的な観念によるところの一物一価連関を打ち破るようにして 言いかえると それまでの封建身分制的な資本連関を打ち破るようにして 蓄積を経て 現われ出たのだと。
局地的市場圏が やがて地域的市場圏に拡大し 国内的統一市場圏に発展したのであると。

(つづく→2007-02-19 - caguirofie070219)