caguirofie

哲学いろいろ

#54

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Du Nord-Ouest: Le mer de Galilée

Le mer de Galilée est alimentée par le Jourdain, la pluie et les sources côté nord. Plus proprement défini en tant que lac, le Kinnereth (nom moderne et de l'AT) mesure 21km de large et 12km de long. A son point le plus bas le lac n'atteint que les 50m de profondeur. Les rabbis affirmèrent à son sujet: "Même si Dieu créa sept mers, il fit de celle-ci le lieu de son propre enchantement."

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第三十章 ヤシロロジを《エートスの王国》として築きあげるスーパースサノヲイスム批判

――鏡を見ているマニケイスム――


これから第二部の最後(§32)まで 引き続き スーパースサノヲイスム批判を さらに展開させつつ 整理していきます。


精神(アマテラス者性; l'amatérasité )または魂の 力・徳・美を讃えるというエートス(くせ・人間類型)の――したがって しばしば観念的な――王国をきずきあげようという一つの典型が 内田芳明論文《序論 マックス・ヴェーバー 社会科学の形成と人間史》(誌《歴史と社会》第一号)です。
これは 内村鑑三が敵対したと内田芳明が言うところの《天皇主義的日本主義》なる一つのエートスの王国と 内容を異にしつつ まったく同一のモザイクの様子を呈している。
日本のやしろ(社会)形態が 《A圏‐S圏》の連関体制を採ってきた そしてこのA圏が いまでは 《アマテラス市民政府 および アマテラシテ象徴元首=天皇》とから成るというのは 価値自由な一認識です。これを 共同観念的に幻想的にやまとだましい(A者性)としてのように精神的に 《天皇主義(アマテラシスム)的日本》なるエートスの王国と見なしまた説くことは 価値観(イデオロギ)の問題である。だから この《天皇なるアマテラシテ》のエートスに 対抗しつつ 《キリスト教的良心》もしくは《ウェーバー社会科学の方法》なるもう一つのエートスによって 別のアマテラシスムの王国を見よう・きづこうとすることが 前者と互いに――あたかも談合しあったかのような――同じモザイク模様であることは まず簡単に言って 明白です。
エートスそのものの存在をわたしたちは 否定しないが これを 一つのアマテラシテのもとに共同観念の王国として捉えようとしたり説いたりすることは 幻想であると考えた。言いかえると 制度的な現行のアマテラシテを 観念共同化させて 一つのエートスの王国だと説くことは アマテラシスムが 権威主義的であるとするなら(ともあれ 明治憲法のもとではそうであった) これに対抗しつつ その反権威主義をもう一つの エートスの王国として説く共同観念は スーパースサノヲイスムとも捉えられる。
われわれは 天皇に対して あたかも《超一物一価》=スーパーアマテラシスムの無関心(つまり まつりあげることによって 無関心)であってはならないが この現行のやしろ情況に生じているかごときエートスの王国に対抗のために対抗しつつ 別の《超一物一価》=スーパースサノヲイスムの無関心であってはならない。キリスト教的良心もしくは 学問的良心というとき キリストもしくは学問を まつりあげているなら ただの観念であり 広い意味での精神主義であろう。
いまでは 不敬罪は 存在しないのであるから 内村の場合の《教頭》に対して非礼であってはならないのと同じように 天皇さんに対して非礼(無関心)であってはならない。天皇制は やしろの一形態・一制度である以上でも以下でもあっては まづ ならないが この制度がどう変遷してゆくかは 主権の存するスサノヲ者市民の問題であり(天皇家の人びとも はじめに 一人のスサノヲ者市民であるとは思われる) 時代の社会事情に沿って推移する(あるいは させる)ことが考えられます。インタスサノヲイスムが ヤシロロジと不可分であることにおいて このやしろのシステムにかんしても 自由な論議を呼んでいくことでしょう。


内田芳明稿《序論 マックス・ヴェーバー》について見る番です。
〔ちなみに 上で言い忘れましたが 《A(アマテラスおよびアマテラシテ)‐S》連関体制なる国家形態は イギリスのように《アマテラシテ》が 国王であるばあい フランスのように《アマテラス社会科学主体》を兼ねた大統領であるばい あるいは《アマテラスとアマテラシテ》との統合の度合いが一層おおきなアメリカ合衆国の大統領のばあいなど おおよそすべてのやしろ形態にあてはまる価値自由なヤシロロジの概念として提出していることは 言うまでもありません。念のために。〕
内田芳明は この論稿に 次の詩句をそのエピグラフとして掲げています。

壁に口あり、
撃ち抜かれた穴からは
親しい顔が
語ろう。
滝口修造

おそらく 察するに 《天皇主義的日本主義》の《壁》に みづからの学問的良心によって《穴を撃ち抜いて》 そのエートスの王国で それぞれスーパースサノヲイストのなってのように 《親しい顔が語りあおう》との趣旨だと考えられましょう。
ですから このような図式的な認識によるかれへの批判だけでは 不十分なのであり この学問的良心(それは 内田芳明のばあい あの内村〔・矢内原〕・大塚さんの系譜において キリスト教的良心 かつ ウェーバー社会科学の方法と言いかえることができる)の内容についても ある程度の認識を与えて 信じるに足るべきことか むなしい幻影であるのかを判断することが必要である。また この論稿においてこそ この《ウェーバーのヤシロロジ観点とキリスト教エートス》との組み合わされた内田芳明の学問的良心が よく描かれ提出されていることが わかります。
わたしたちは これまでの論述に免じて この論文の詳細について触れることは 省かせてもらうことを まづお願いしなければなりません。
〔それは まづ量として原稿用紙二六〇枚から成る八章構成の論文であり 内容のテーマが 少なからず多岐にわたっている。もちろん ウェーバーであるとかキリスト教であるとかの名をかかげていても それは 内田芳明なる一個人の方法の問題ですから この限りで この論文に即してここでは かれ個人に《固有な法則性》を十分に認識しつつ批判していきたいと思います。
要は この特殊な《良心》に 関与不可能性を見て観念しなければならないとしても 無関心をよそおうわけには行かず とにかくこの気の重い作業にわたしたちは着手しなければならないということだと考えます。すでにおそらくこう言い切ってよいでしょうし また そのようにこれまで述べてきたとしたなら ここで一つの段階として そのまとめをしてさらに進むことが わたしたちであるでしょう。〕


論述の内容を 順序どおりに追うというかたちを採らず いくつかのテーマを取り出し それぞれについて認識を与えつつ 批判におよぶという段取りにします。
第一に この《学問的良心》に関与不可能性を見るというのは ウェーバーが 妻や母や《その他のすべての人びと》から 次のような観念ないしエートスの中において見られていたというテーマが そのことを示唆します。

ヴェーバーを一番苦しめていることの一つとして 〔妻〕マリアンネは 

あなた〔ウェーバーの母へレーネ〕や私やその他のすべての人びとには 職業人だけしか完全な人間とはみられない という気持

もあると指摘している。

  • マリアンネが義母へレーネに対して言っていることばなので 筋が違うように感じるが 内田はこのように引用している。内田は のちに この指摘は 当たっていないと言おうとしている。

(内田芳明:《序論 マックス・ヴェーバー 社会科学の形成と人間史》 §7の註(6)。(誌《歴史と社会》第一号)

とされる箇所です。かんたんに言いかえると マリアンネや一般の人びとには 学者は職業人ではないと言う。学者としてのウェーバーは 《職業人》ではないと考えられていたという。人間は職業によって完全な人間とみられるのに ウェーバーは 学者だから この職業人ではない 従って 完全な人間とは見られないと言うのである。また実際 このエートスに苦しめられて ウェーバーは 《病気〈転落〉》にまで至ったという。そして この病気転落とそこからの回復について 内田芳明はウェーバーその人の内面を追っている。

ここではマリアンネやへレーネたちは単に 経済的・社会的な地位の重要性という一般的な尺度に言及しているにすぎず そのような日常人の尺度では ヴェーバーの内的世界に起こっている非(sic)劇的な出来事とは あまりに隔絶している ということからくるヴェーバーの苦しみであったはずである。
(内田論稿 同箇所)

という見解を示した。ここでは ウェーバーのそして内田じしんの学問的良心(その悲劇的もしくはたしかに非劇的な出来事)を 現実的な人間のエートスなのだと 擁護する姿勢がうかがわれる。まづこの第一点のこの箇所において わたしたちは 関与不可能と感じてしまう。
マリアンネやへレーネの言う《職業人》とは 《単に 経済的・社会的な地位の重要性という一般的な・日常人の尺度に言及している》のではなく ただ 《学問的良心あるいはキリスト教的良心》の前に(それ以前に) 職業人・日常人としての生活と良心があると言っているに過ぎない。《人間の良心(これが 誤謬をまぬかれるとは言わない)》と《学問の良心》とは 実は同じものなのだが ウェーバーらは 後者を第一に掲げ つまりこれに仕え はては 両者の順序を逆にしている。二者があるとする限りで両者を転倒させている*1と言われたことになる。
このあたりまえの議論に対する ウェーバーの弁明あるいは内田芳明自身の見解は こうである。

結婚を前にして二十九歳のこの男(マックス・ウェーバー)は マリアンネにはっきりと書いている。

いわゆる《職業》という観念に対する何らかの尊敬もぼくは かつて抱いたことはない。

(内田論稿 同上箇所)

現に イーダ(伯母)やヘレーネが 大学教授の職業にまつわりつく 傲慢さへの鋭い批判を早くからヴェーバーに植えつけていた当の人びとであった。
(内田論稿 同上)

この弁明が すでに何らの意義をも与えないことは 自明なのだが 問題はこれに対して 井戸端会議するインタスサノヲイストとしての妻マリアンネや母へレーネや伯母イーダ(この人びとが 女性であったことは 重要であるかどうか 本質的に重要であったかどうか)が 譲歩しつつ このうわさ=批判を与えつづけたのだということを ますます明らかにするに違いないとしか考えられない。
特殊なあの《絶対に存在しない無限に大きなもの》に立つエートスの王国の住人たちに対して わたしたちが 関係の絶対性とともにだが関与不可能を見出すのは この点においてであると ここまでの段階で性急になるとしても 見ておかねばなるまい。
〔さらにくどいようには――こんなふうであるのに なお なぜ このA者予備軍の学をとりあげるのか。と言えば――このように接点なきに等しいにかかわらず かれらは そのスーパースサノヲイスムにおいて スサノヲ者のうわさを観念的に先取りしこれをも自説として説くに至っているからである。どういうわけか この方法批判という入り口における価値自由な認識と 批判的なうわさの持続だけでは 不十分となってしまっていると考えられる。〕
この点にかんして神学的に解説を付言しておくならば 次のことが重要である。人間の真実(またその愛)――これをかれらは 不可変的な真理すなわち神だと思っている節がある / 神であることを欲したという意味である――は 可変的・時間的・偶有的なのであり あの真理にいくらかは似ているが はなはだ遠くかけ離れているということ(三位一体論15・14・24)。

だから 見られ得るだけ自分の精神を見 また その精神において私に出来るかぎり 多くの仕方で論じたあの三一性(人間の真実)を見るが しかし その三一性が神(三位一体)の似像であると信ぜず また知解しない人びとは なるほど鏡(やしろの形そのもの。その経験世界と現状)を見ている。
しかし今 鏡をとおして見られるべきであるお方を鏡をとおして見ていないのである。かれらが見ているその鏡は鏡 言いかえると似像であることを知らないのである。・・・
(三位一体論15・24・44)

《似像》が 時間的・可変的・偶有的なのである。《日常人》のうわさは このことをよく知っている。マリアンネやへレーネたちは ウェーバーに対して《非礼》にならないように このことを 告げ続けた。愛するなら この価値判断は――わざと言えば 共同主観の《強制》は―― 止めようと思っても 止まらないと言ったほうがよいのだ。
次にウェーバーは マリアンネとの結婚の前に エミーなる女性との恋愛をもった。かれは マリアンネとの婚約のあとのエミーに宛てた手紙には 次のように書いたとされる。

過去のしばしば索漠とした そしてほとんどいつも希望のない年月のあいだ 母の面影とならんであなたの面影は ぼくに善を為す力を与えてくれるものだったのであり それだけの力をぼくは最後まで失わないで来ました。
ウェーバー:《エミー宛の書簡》)

もし言うところに従って こうだとするならば ウェーバーと母へレーネとの関係は あのアウグスティヌスと母モニカとのそれと あい通じていると考えられる。すなわち ほかならぬ母へレーネが 真実の愛・精神の徳を熱心に愛する《つう》であったと。
言いかえると この共同主観形成の前史たある対(つい)の関係は 父(同じくマックスという名)とその妻へレーネとの資本連関に始まっていたと。あるいは 伯母イーダは へレーネの姉であり 恋人エミーは イーダの娘であるから イーダとエミーの母娘は ヘレーネとは別であったとも言いうるし 同じであったかも知れない。あるいは のちの妻マリアンネは ウェーバーの父の兄すなわちウェーバーの伯父であるカールの孫であることより 上のように イーダやへレーネと同じく 共同主観の原点を説いて止まず ウェーバーを《苦しめた》とするなら かのじょも 《母モニカ》と同じであったかも知れないし また 別であったかも知れないといった諸連関について 付言しておくことができる。
わかっていることは ウェーバーは アウグスティヌスのようには《告白》へとみちびかれなかったということだ。(これは まづ価値自由な認識である。追って このことの 当否ではなく 過程的な展開をわたしたちは できる限り 跡づけておこうと思う。)
この同じテーマでもう一点。すなわち 事が 本質的にこうであったとするならば――それがわたしたちの立ち場であるが―― 

ヴェーバーの父と母との間には ある調停しがたい世界観(エートス)の対立が存在していた。これはやがてヴェーバーと父との決裂(1897年)を招く一つの要因ともなる。
(内田論稿 §3)

と言われることの原因を フロイト流の精神分析学によって説明することは 《栄光から栄光へ》の共同主観の歴史的動態の本質を衝くものとは 考えられないであろう。内田も ここで オイディプス・コンプレックスなどの理論による解明を 明確にしりぞけているのだが しりぞける点で 同調し しりぞける根拠の点で もう少し吟味しなければならない。内田は 学問的良心の道に立って その内的・心的なリズムであるとか 《運命》とあの《デーモン》の思想を その根拠においているようである。
テーマの第二点の途中だが 章をあらためよう。
(つづく→2007-02-16 - caguirofie070216)

*1:学者は職業人ではないうんぬん:生活の第一次的なスサノヲ人間語によって話をする《職業人》と そしてこれらの内容を アマテラス語抽象観念によって分析し理論づける《学者》との対比。A語客観概念が 単なる既成概念としての旧い観念となるなら そしてこの観念が社会に心理的に共有され あたかも 民族のくせというようなエートスとして抱かれ あたかもこのエートスの繭の中に人びとが生活しているといった感覚を持つとするなら 一種のエートスの王国が出現する。共同幻想とも呼ばれる。この後者の世界を 一生懸命に研究されても ただ その実情をなぞっただけなら けっきょくは 初めの第一次のS語の物語と変わらないし むしろただ その上塗りをしただけとなる。いや さらに このエートスが 人びとの観念にあたかもすり込まれて 顔にヴェイルがかぶさったかたちとなる。