caguirofie

哲学いろいろ

#53

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Mer de Galilée
Aussi connue sous le nom de Bahr Tubariya, Ginnosar, Lac de Galilée, Lac de Génésareth, Lac de Gennesar, Mer de Chinnereth, Mer de Chinneroth, Mer de Kinnereth, Mer de Tibériade, Lac de Tibériade, Eaux de Génésareth, Yam Kinnereth

Vue depuis Arbel

La plaine de Génésareth s'étale en dessous des falaises d'Arbel. Près de cinq kilomètres de long et deux de large, cette étendue de terre au long du rivage nord-ouest de la mer de Galilée fut renommée pour sa fertilité. Joseph écrivit qu'elle était "merveilleuse dans ses attributs et dans sa beauté. Grâce à la richesse de son sol, il n'y a pas la moindre plante qui ne puisse y fleurir, et les habitants font pousser de tout: l'air est tellement tempéré qu'il convient aux plus diverses espèces."

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第二十九章b くどいようにヤシロロジにおけるインタスサノヲイスムが 出発点である

――なおマニケイスムについて――


大塚久雄と内田義彦との対談内容についての若干の批判。――
(1)《内村のばあい もともと〈二つのJ〉という意味であった》こと すなわち《日本〔のJ〕を愛する日本人であるが故に日本の現状をジャスティファイしない むしろ孤立や迫害を恐れず一途に批判の矢をあびせる》ことが わたしは《日本の現状をジャスティファイしている》ことだと思う。これは ジャスティファイすることの当否をいうのではなく 価値自由な認識として。なぜなら 教頭と内村とのあいだにエートスの矛盾があった現状は はじめからわかっていたことであり 《内心ためらいながらも》《一途に批判の矢をあびせる》べく 《敬礼しなかった》ことは 正当化(ジャスティファイ)でないとしても 現状をただ確認させているだけである。《批判の矢》を むしろ あたまの中にしまい込むことを――まづ前史として 仕方なくであれ―― えらび行動したのである。
もし仮りに《敬礼していた》なら これは 《教頭なる一日本人を愛する日本人》の行動でもあり――つまり その後 批判をおこなうための前提としてそうであり―― この《敬礼事件》はたしかに《孤立や迫害》を招いたであろう。ゆくゆくは 批判の矢をあびせるのであるし その前には 逆に自己の味方の側から あるいは 批判を浴びるかも分からない。
〔当時において それが 《やしろ資本推進力》に従った行為であるとするなら この推進力をただ経験的に感覚的にまたエートス的にとらえ見ていたともあれスサノヲ者らは この推進力なる神への不敬虔と見なし 内村を孤立させ迫害することにまで及んだであろう。実際のところ 極論していえば 一部からの批判としてでも 内村への攻撃は挙がったであろう。この場合には 教頭の新案は ただ《挑発》であるだけではなく 悪魔の《責苦》である。また おまえは神に対して敬虔であると日頃言っていたが まったく不敬ではないかと《告訴》したことになる。――つまり(それが いいかどうかを別として) 《受けて立つ》というのなら こういう対処の仕方が それである。〕
《不敬(敬礼しなかったこと)》が 《孤立や迫害》を招いたとするなら――実際 そのような窮地に内村はこの後追い込まれた―― しかしそれは 《不敬》事件ではなく(頭の中では 不敬事件でありつつ) 実際には 教頭への《非礼》事件の結果であるだろう。それが たしかに今日から見て 不当なものであったとしても。なぜなら ヤシロロジは 共同観念の中に存在するのではなく 具体的なS者(スサノヲ同士)としてのインタスサノヲイスム行為に発するのだから。――大前提として そうとすればたたかう相手をインタスサノヲイストとして相い対することから すべては 始まる。まだインタスサノヲイストでない人 インタスサノヲイスムに反対の人についても まづは大前提として 互いにこの共同主観者であることを 建て前としてだけでも 確立・相互確認しておかなければならない。実際のところでは 《見なす》という行為でよい。
もっとも実際には 《不敬》事件も《敬礼》事件も ありえない。なぜなら それらはエートスという名の観念(観念における対立)の世界のことだから。
〔《鬼畜米英》と言うことと《英米に追いつき追い越せ》と言うこととの間に矛盾があったとしても エートスにおける対立などの問題は ただ観念抽象アマテラス語の世界における現象でしかない。これは 戦争という具体的な行為連関の中で言われたり 経済摩擦という具体的な事実関係を引き起こしたりするが それだけの現象であり そこに《不敬》事件も《敬礼》事件もありえない。問題が違う。〕
むろん もし法律上 不敬に対する罪と罰が たしかに問われるというならば それは エートスの事件ではなく 法律上の事件である。これとても エートスの衝突した事件なのだという学者による客観抽象A語による整理は やめて欲しい。内村は《ほとんど考慮をめぐらす暇もなく》であったとしても ひとりの成人として 価値判断した結果 《敬礼しなかった》のは 事実である。かれはエートスを自動的に機械的に発動させたわけではあるまい。《鬼畜なる米英》との衝突が エートスの事件だと言ったとしても――A語抽象観念の世界で言って言えないことはないから 言ったとしても―― 事は始まらない。
問題は 考えの違い・その衝突があるかないかである。そしてそれは 人間社会におおよそ付き物である。これを エートスの対立という用語で整理するとしても エートスの対立があったから こうなった・ああなったということではない。むしろこのエートスという要因を介在させると そこに 観念の世界がひろがってしまって その結果としては この観念の社会心理的な共有という事態の実現を目指し この観念を 精神の徳と美の世界としてさらに拡大充実させ この観念の蔽いを人びとにかぶせることによって 社会秩序が回復し保たれるという設計となっていく。
あるいは 《近代の合理的なエートス》に立つならば 内村のエートスと教頭のエートスとの間に 《均衡(つまり対立と変動)価格》が生じ たしかに《事件》をつうじて或る種の《一物一価》が 法律とも関係しつつ社会事情にそくして そう決定されたということになるかとも思われる。それだけのことである。ここに《内村の固有の法則性》を――見てもよいが――説くことは むしろ《古い社会的真空地帯》での出来事に過ぎないのではないか。(つまり わかりやすく言うと 怨念であるとかそれの或る種の美意識への転化形態などの《人間の諸動機とその固有な法則性》が 衝突を起こしたということになろう。《キリスト教的良心》は これをカムフラージュする飾りである。)
《つう》なるかごの鳥は この美の世界を熱心に愛した。また 内村は 内心で教頭と 《談合》しつつ――あたまの中でかれとの対立において一物一価の均衡価格を形成しようとして しかし古い村落共同体間のエートスにのっとってのように 目と目で・以心伝心で 《談合》しつつ―― ただ《自分の立ち場》(これが内村にとって神である)を明示的に確認させたにすぎない。そこで 《無関心》なる一物一価が生じることは わかっていた。これが あたまの中の観念的一物一価であるゆえ 超一物一価と言われることは ただしい。もしエートスが経済的利害情況をも制約することがあるとすれば それは《エートスなる神》が人をして走らせ制約するのではなく すでにエートス(あるいはキリスト教的良心)のほかに自分の価値判断(これは 人間の良心であり自由意志である)に立って 教頭との暗黙の《談合》において  《不敬》の結果生じることが分かっていたところの《孤立や迫害》を強いられ受け容れたに過ぎない。
これは 《古い社会的真空地帯》(A語客観観念が 世界のすべてと見なされ蔽い被さるとき やしろのS者らの生活はあたかも真空にされる)での出来事にすぎない。――人は 精神的にも(あるいは エートスの王国としても)身体的にも(モノの必然の王国としても) 日々死んでいる(コリント前書15:31;三位一体論4・3・5)と知らなければないけない。たしかに真空地帯を経験してきている。だから 《妥協せよ》とわたくしは言ったであろうか。わたしは 内村が ここで教頭と暗黙の《談合》をおこなったと見る説にかたむく。意識していなかったとしても そのような・それこそ昔からの行動様式としてのエートスの結果ではないだろうか。談合の成立によって その後生じることが分かっていた《孤立や迫害》を受け容れたに過ぎないと思う。
(2)上の第一点は 大塚さんの発言にそのまま現われている。《つまり 日本人の眼(共同観念)で見 日本人の立ち場から発想するということは 日本のすべてをいつもジャスティファイすることだというふうな考え方が 保守 進歩どっちの側にもあった》。
もちろん だからかれは これに従わなかったというのが かれのエートスである。しかも それは しばしば あたまの中の観念の世界にとどまる。しかし 内村のばあいと同じことなのだ。自分の《キリスト教的良心》を これら古い共同観念としてのエートスの世界とは別のところの・やはりエートス観念の世界に保っておくというに過ぎない。共同観念としての日本の現状とひそかに談合して 無関心(一物一価)をよそおう立ち場を 談合の結果どおり 引き受けているのである。ここで無関心というのは まったく発言しなくなるという意味ではない。むしろ真っ向から批判の矢をあびせるところの無関心(超一物一価)だ。《現状をジャスティファイしない》立ち場を・そのようなエートスを つらぬくことが かれらの取った〔超〕均衡価格なのだ。
そうして 現状を 超(スーパー)スサノヲイスムに立って まったくいまのままで居心地がよいと言ってのように ジャスティファイしているかに思われる。これが 日本人におけるキリスト教的良心でありエートスである。内村の時代には キリスト教がまだ新しく その社会事情が大塚さんの場合には 変遷してきているというに過ぎない。わたしは 現状と《妥協せよ・それをジャスティファイせよ》と言っているであろうか。
(3)《キリスト教的良心》などなく そのエートスの観念の帝国は 《むなしい幻影》だと言いたい。その意味では――その意味では――唯物論に立てという方に傾くのかも知れない。
《内村の意味における二つのJの一つである日本人という意識が 〔大塚〕先生のばあいには自前の さらには独自の概念装置の創出という――これは内村にない――形になった》というのは 内村においては 《宗教(キリスト教)についての学問そして徳の王国》であったものが 大塚さんの場合 《社会科学(これは殊にマルクスである)についての学問・そのエートスの王国》という形になったということである。むろん ウェーバーも そうしたとわたしたちは 基本的には言っていることになる。また この場合のマルクスについての学というときのマルクスとは マルクスが キリスト者であったという想定の共同主観における意味あいで言ったものである。つまり改めて言い直すなら 内村は《キリスト教についの学》であり 大塚久雄は《キリスト〔者〕についての学》である。
(4)《ところが 日本のばあいは 右へならえしてバラツキのまったくない超一物一価となってしまう傾向が強い。どうしてそうなのか ということなんですが》 内村は 不敬事件で キリスト教的良心の立ち場という反共同観念的なエートスの王国(現状の裏返しなる現状エートス)を 確認させて 《現状をジャスティファイした もしくは そのような二元世界に立った》と同じように 大塚史学(その方法)が この《独自のエートスの王国》を継承し 一般の共同観念とは別の《自前の》現状をつくりあげたことによって その対立する側である一般の共同観念の世界では この反共同観念的なエートスの共和国との《超観念共同的な見えざる談合(超ムライスム)》をとおして おおきく両者を含むやしろ全体としては 《右へならえしてまとまり まとまることによってバラツキのまったくない超一物一価(ウルトラ・ナシオナリスム)となってしまう傾向が強い》のです。少なくとも 大塚さんの側からは そう見えるのであり またそう言うことが 大塚さんの言論人としての存在理由なのです。
つまりわたしたちは この大塚・ウェーバー流の学が 存在することによって むしろ必然の王国は そのA‐S連関体制統治がうまく行っているのだと見える。これが アマテラス予備軍のやり口だと思われる。
(5)《これではやっぱり十全な意味で近代の合理的市場経済とはいえないような気がする》(大塚)のではなく 《言えない》ことは すでにわかっていることなのです。それを まだ《事件》になっていないと言わんばかりに 現状をジャスティファイするべく 《孤立と迫害を恐れず一途に批判の矢をあびせ》て ただ確認させているにすぎないのです。また かれらにとっては 《事件》が起こっても 一向にかまわないのです。口では《現状をジャスティファイしない》とつねに批判の矢をあびせているのですから。これが A者予備軍のやり口だと考えられます。
(6)これは 方法の滞留に しかし 見えるのです。明らかに停滞である方法が 光りの天使に見えるのです。そうなると このとりもちが 現状の停滞をジャスティファイし――ジャスティファイしないという批判をあびせれば 観念的にここに滞留があるという錯覚をつくり この観念しんきろうの世界においてジャスティファイし―― モラトリアムの世界を補強する。(一面では ガス抜きと呼ばれる事態でもある)。このような《御名の音節をこね合わせてつくりあげたA者予備軍の巧妙なとりもち》。《何という阿呆なことか 私はそれを信じたのです》。
《超一物一価〔あるいは これを批判する超・超一物一価〕》が 精神の徳を神とするスーパースサノヲイスムに照らし合わせて 《超(スーパー)無関心》主義であることは 論を俟たない。
天皇制としてのA(社会科学主体)‐S(市民)の連関体制 言いかえると A(アマテラス市民政府とアマテラシテ象徴)‐S(市民)の連関体制の一形態としての天皇制 これについては ヤシロロジとして 議論が分かれるところですが――また ここでは そのための方法とその滞留についてのみ 論議しているのですが―― これについて 現状の天皇制なる共同観念とは別のところに 《絶対に存在しない無限に大きな精神の徳の世界》を想定し このエートスの共和国に自分勝手にアマガケリし この共和国から とやかく言うなどということは むしろゆるされていないとこそ言うべきでしょう。
むろん ゆるされているのですが 《反権威主義的なエートス》(内田芳明)の共和国を想定することは インタスサノヲイスムでもヤシロロジでもなく しかしスーパーインタスサノヲイスムであり まわりまわって実際には この・もしそうならそれが反対する権威主義的な現状のエートスを 補強しているにすぎない。アマテラス予備軍というれっきとしたヤシロの役割をになっている。
マルクシスムが その方法の滞留を 《共産主義社会》という未来社会と 現在地点とのあいだに 求めた分だけ それについて 《いや そうではない その未来社会時と現在時との滞留は 人間類型の問題であって むしろこの今における精神のエートスの共和国において滞留すべきだよ》という議論が 生じたのだ。マルクシスムがもし A‐S連関体制(国家)の中で A圏の打倒を言ったとするなら 《いやそうではない A圏統治を それに無関心であることによって 宗教的にあるいは学問的に 支えるわたしたちアマテラス予備軍とそのやり口である〈エートスの共和国〉が 真正に推奨されるべきなのですよ これが 真に解放されるべきやしろの資本形成の一動因なのだよ》とみづから かれらは告白したのでしょう。
これは――上のようにわたしたちが批判することは―― ソシアリスムであるとか政治経済学プロパーのヤシロロジにまだ触れないで 何を言っているか と言われても ヤシロロジにおけるインタスサノヲイスムつまり いまの場合 方法の滞留を わたしたちが語りあっているというに過ぎない。しかも そのスサノヲ者において《談合》しているその愛の過程なのにすぎない。
(つづく→2007-02-15 - caguirofie070215)