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哲学いろいろ

#44

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Bethsaïda
Les fouilles réalisées à et-Tell depuis 1987 ont essayé de prouver le lien entre ce site et la ville de Bethsaïda du Nouveau Testament.

Les vestiges archéologiques montrent que le site fut occupé lors des périodes de Bronze Ancien II, de Fer II, hellénistique et lors du début de la période romaine. Cependant, du temps de Jésus, "Il n'y a pas un seul morceau convainquant d'architecture urbaine" qui correspondrait à la description de la ville d'Hérode Philippe donnée par Joseph.

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第二十五章a ヤシロロジにとっての神義論(井戸端会議にも見出されるところの)

――《〈わたし〉の力尽き果てる》ところで 強くなる――


人びとのうわさ(井戸端会議)が 神をわきまえていないのではない。すでにここには 弁神論(神義論 Theodizee )が 存在している。《うしろの正面だあれ》とうたわれるまでに そしてそのとき いまだ前史かつ無自覚として と同時に 自覚が芽生えるとき その《自己の愛》におののいてのように 《あなた》に向かい《わたしの力つきはてる》ことを引く受けるまでに。

現世の不完全性の問題に関する・体系的に考え抜かれた解答(弁神論)としては 〔予定説のほかに〕 なお二種類の宗教的観念がある。
まず二元論 Dualismus がそれであり これは ゾロアスター教の後期の発展 およびたいていはその影響を受けた近東の多数の信仰形態――・・・マニ教における雄大な諸観念に至るそれ――に 多かれ少なかれ論理的な斉合性をもって 含まれていた。
神は全能ではなく 世界は神による無からの創造ではない。不公正・不正・罪など 弁神論の問題を発生させるあらゆるものは 偉大な善の神々の 光明に輝く清浄が それらの神々に対して独立した勢力である暗黒――・・・不浄な質料(マテリー)――と接触して濁らされた結果である。
このようにして生ずる闘争においては たいての場合――厳密な二元論に違反して――最後には光明の神々が勝利を得ることになっている。
(2・5〔〈宗教的共同体関係の諸類型(宗教社会学)〉〕・8・4。1921 / 1956)

宗教社会学 (経済と社会)

宗教社会学 (経済と社会)

これが 二元論(それにもとづく弁神論)に対する価値自由の学の 新たな二元論の一例である。
なるほど 著者は この文章(理論的内容)から一歩引いたところに位置している。それではかれは 何に対して そのように引いて譲歩しているのだろうか。世界に対してである。互いにうわさする井戸端会議に対してである。価値自由という無関心(あるいは無差別)を したがって 関与不可能を 自己の方法とすることによって。
したがって 同じウェーバーは もう一種類の人々の協議(うわさ)の類型を 次のように掲げて すべてを蔽いつくすのです。

弁神論の問題を形式的にもっとも完全に解決したのは インドの《業(ごう)》教説いわゆる輪廻信仰の独特の業績である。
現世は倫理的応報がくまなく回らされた宇宙である。罪と功徳とは 未来の生の運命によって 現世の内部においてまちがいなく報われる。霊魂は 別の動物あるいは人間あるいはまた神の姿をとって新たにこの世に現われつつ そうした未来の生の運命を無限に繰り返さなければならない。・・・ここでは 世界の二原則的分割は 存在論的二元論的な摂理信仰・つまり神聖にして全能なる神の威厳とあらゆる被造物との倫理的隔絶との二元論としてでも また あらゆる事象を光明と暗黒――明澄かつ清浄な精神と暗くかつ汚れた質料――とに分ける・精神主義的二元論としてでもなく この世の無常な事象や行為と永遠の秩序のあくまで静寂な存在との二元論として。
輪廻業説のこうした結論は 弁神論のもっともラディカルな解決なのだが まさにそれ故に それは――予定信仰と同様に――神に対して倫理的要求をなしえなかったのである。
(同上=宗教社会学

これが 井戸端会議の中の弁神論の上塗りなのだ。――ところが 追い詰められた弱い者こそが 譲歩して 弁神論を問い求めるのだ。(マルクスが ここからの方法に立ち かつ ヤシロロジとしての方法の問い求めをなさなかったとは言えない)。けれども このスサノヲ者を そのスーパースサノヲイスムの地点からこのようになお 追い詰めるのが かれらのやり方なのである。
世界に対してまず 譲歩する。もはやあらゆることがらに対して 譲歩する。次に この地点から 世界をまんべんなく 見渡す。価値自由にこれらを 認識する。そうしたあとに 価値解釈する。この価値解釈する主体は すでにありもしない地点にいる。追い詰められたものを さらに追い詰める。(信じた地点を 没価値の目で見直せと迫り そもそもそのような地点など――いくつか例示することが 他面では あるのだが―― やはり相対性の世界に位置すると言おうとするからだ。)
また それでいながら 追い詰められていない者は 話し相手にならないとも言いたげなのである。このように 神の御名の音節をこね合わせてつくりあげた――或る種の真実が見られるところの――とりもちで 自己の誤謬にわたそうとするのだ。かれらにとっては 学問が 神である。
輪廻や業の弁神論に飽き足りないスサノヲ者に かれらは 神についての学問を 用意した。次がそれであり ウェーバーの場合は一般に つねに暗示するのであるが 次のいわばウェーバーのアジア版ともいうべきスーパースサノヲイスムは より一層 明示的に暗示する。(つまり 神の語を明示的に表現して――ということは ウェーバーのばあい 神の語をいくら用いていても つねに価値自由に終始しているが 次のばあいは 信ずる対象として明示している―― そしてじつは 《絶対に存在しない無限に大きなもの》を暗示している)。

 或る人はキリストは神であると申します 亦(また)或る人は彼は人であると申します 貴下は 孰(いづ)れをお信じになるのであります乎(か)。
 キリストの性格に就いての御質問でありますか 私は之(これ)に応じまする前に一言 此の問題に就いて貴下に申し上げて置かなければなりません 失礼ながら貴下は如何(どう)いうお考へから此の問題に就いて私にお尋ねになるのでありますか 其の事を先づ伺って置きたいものであります。
 別に如何いふ考へと云ふのではありませんが 是れは宗教上の大問題であるやうに見受けまする故に それに就いて御意見を伺ふと致した次第であります。
 御説の通り是れは宗教上の大問題であることは申すまでもありません 然しながら是れは単に世に所謂(いはゆ)る宗教問題ではありません 即ち是れは単に私共の理性に訴へて 面白半分に哲学的に講究すべき性質の問題ではありません キリストの性格問題は実に道徳問題であります 人類の攻究すべき問題の中で実は是れ程 大切なる問題は無いのであります 私は貴下が予め此の事を御承知置きあらんことを願ひます。
(基督教問答1903−04 〈キリストの神性〉其の一)

キリスト教問答 (講談社学術文庫)

キリスト教問答 (講談社学術文庫)

あるいは

恋愛は自由である 然れども神の聖旨(みこころ)の内に在りてのみ自由である 
第一に神の聖旨 次に我が意志 而(しか)して我が意志としての恋愛 此の順序に従はずしては愛もなければ自由もない 恋愛は其の物自身の為めに存立する能(あた)はず 恋愛の為めにする恋愛は必ず自滅する 神の聖旨の範囲に於いて行なはれて恋愛は栄へ又聖く又永続する
我が為めに他(ひと)を愛するに非ず 神の為めに 福音の為めに 国の為めに 人類の為めに 貧者の為めに 異邦の為めに 一人の男が一人の女を恋ひ 又一人の女が一人の男を愛する時に そこに聖(きよ)き美しき堅き恋愛がある 恋愛は義務に由(よ)りて聖化せらるゝを要す
義務の無き所に頼むべき恋愛はない 楽しまんが為めの恋愛ではない 義務を果たさんが為めの恋愛である 而(しか)して義務の支持する所となりて恋愛は永久に衰へず其の幸福は歳と共に加はる 恋愛を義務の外に求めて人は実は嫌厭を求めつゝある 腐食し易きものにして恋愛の如きはない 而して義務は恋愛の新鮮を維持する為めの唯一の防腐剤である。
内村鑑三:恋愛の自由に就て》1921 全文)

けれども この学のゆえに 信仰(共同主観)があったり 対(つい)関係なる共同主観たる恋愛の自由があるのではない。これは 言わずもがなのことではない。回心のあと《基督信徒》となると かれは 《告白》するか または もろもろの《学 disciplina 》に至るかである。要するに 生活する。後史として井戸端会議にのぞむ。けれども キリストについての学は 人びとの自由なうわさの蔽いである。いわゆるシャッポ(観念現実としてのA者性)である。だから インタスサノヲイストは 神の語を直接 用いず――告白(讃美)には かれに向かうが―― 共同主観形成を過程し これを見守り 共同主観をむしろ《強いる》であろう。啓発へうながされている。

余に一つ耐へられない事がある。其の事は人が他の人を己れの宗教に引きいれんとする事である。余は大抵の事には耐えられると思ふが(神の恩恵に由りて) 併(しか)しながら此の事には耐えられない 
余は其の人の奉ずる宗教が何であらふが 其の事を問はない 併しながら何(いづ)れの宗教にしても 人を己れの宗教に引きいれんとする事は余の耐えられない所である・・・
内村鑑三:余の耐えられぬ事》1909)

わたしたちは この信仰には 耐えられないのである。この価値自由の――没価値の上に 自己の信仰(共同主観)を表明する――信仰には 耐えられない。もし弱さを方法としているのなら。
(恋愛の自由について 一人ひとりがその行ないを 己れの《宗教》として 持ち振る舞っているかも知れない。ならば この恋愛の神とその信仰についても 《其の人の奉ずる宗教が何であらふが 其の事を問はない》でいなければならない。――おそらく このような明らかな矛盾についても 高度に発達したアマテラス語弁論術は 答え返してくるかも知れない。つまりそのときには 恋愛なる感情を措いて 精神の徳と美につきなさいと たしかに錯綜した二元論をもって反論するであろう。いわば のらりくらりの二元論なのである。)
(つづく→2007-02-06 - caguirofie070206)