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哲学いろいろ

#64

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Jéricho
Aussi connue sous le nom de Tell es-Sultan, er-Riha, Eriha, Yeriho

Vue depuis Cypros

La "Ville des Palmiers" s'étale sur le côté occidental du Jourdain à 250 m (825 pieds) au-dessous du niveau de la mer.

Le site de l'Ancien Testament de Tell el-Sultan est à l'horizon et représente la ville détruite par Josué. Du temps de Jésus un nouveau centre fut construit sur la rive du wadi (en avant-plan) par les princes Hasmonéens et par Hérode le Grand.

第三部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム

第三十五章b 山路愛山のばあい

――§9――


朝早く 都に帰る途中 イエスは空腹になった。道端にいちじくの木があったので 近寄ってみたが ただ葉のほかは何もなかった。そこでイエスが 《今から後いつまでも お前には実がならないように》と言うと いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
弟子たちはこれを見て驚き 《なぜ たちまち枯れてしまったのですか》と尋ねた。イエスは答えた。

はっきり言っておくが お前たちも信仰を持ち 疑わないなら わたしがいちじくの木にしたようなことができるばかりでなく この山に向かい 《立ち上がって 海に飛び込め》と言っても そのとおりになる。信じて祈るならば 求めるものはなんでもいただけるのだ。

(マタイによる福音 21:18−22)

という《空想》をもって――まさか このような現象がほんとうに 少なくともただちに あるいは 山の土が海の埋め立てに使われるといったようなことを前提していないなら 起こるとは考えられない しかしこの《空想》をもって―― このアマテラス予備軍の《幻想のイチジク》に対しては わたしたちはただ沈黙しないがために こたえてあげるのだ。それ以外に 関与不可能であろう。
書物の上ではまだしも 面と向かって《きみは人間性を回復しなさい》などと言われたなら
――しかし 書物の上では 学問としても これが行なわれる―― その人を 不審に思うか また笑ってあげるほかに手はない。けれども イエスは 《いまから後いつまでも お前には実がならないように》と言ったのである。ほんとうに そう発言したかどうかは わからない。聖書は 信仰と希望と愛とを そのように――人間の言葉で――表現したのである。
愛山は ただ経験的な言葉で 《日本の人民は昔より政府をして 自己の趣好に適せしむるの能力を有せり。今に至りて此の権なしといふ。(官僚制化し無思想となってしまったと或る人びとは 嘆く)。是れ日本人民の歴史を侮辱する者なり》と 《空想迂僻の大天狗となって》 言ってみせたのである。

いちじくの木から――木から――教訓を学びなさい。枝が柔らかくなり 葉が伸びると 夏の近づいたことがわかる。それと同じように これらすべてのことを見たなら 《人の子》が戸口に近づいているとさとりなさい。はっきり言っておくが これらのことがみな起こるまでは この時代(つまり 前史)は決して滅びない。
(マタイ24:32−34)

これらは 内なる人の秘蹟(信仰の――第一の死からのよみがえりとしての――動態)に属している。だから このように文字どおりイエスが言ったのかどうかは どうでもよい。けれども 内なる人の秘蹟に属するというほどに 少なくとも そのように行動したと弟子たちが読んだ(捉えた)ところの外なる人の模範が 人間として存在したと 井戸端会議されたのである。どうしようもなく神である人が いたとうわさしたのである。
しかるに 神なる人ここにあり(――《天壌と共に窮まりなき我が皇室は実に日本人民が唯一の誇りとすべきものなる》(内村鑑三)――)と言って ――しかし わたしたちは 天皇陛下または皇室の祖先の人びとが 現人神であられたかどうか その愛の実体を必ずしも知らない 判断すべき材料を持ち合わせておらない もしラフカディオ・ハーンに従って わが国が《神国》であることを肯んずるとするなら 皇室は その歴史の或る一時点から このくにの統治の主体となったことは分かっていても 個人的にどんな人びとであるかまだ分かったというところには 至っていない が――ともかく いわゆる《国家教育主義の唱導者(天皇陛下がほんとうにこれに賛成であったか または陛下からこれを唱えられたか わからないところがある)》は 《其の教育機関の羽翼の下に〔当時では〕忠君愛国の士を生ずべしと期した》。

而して見よ 其の育ちたるものの中には 恋愛を歌ひ 星と菫花(すみれ)を詠じ 唯だ自己の欲望を満足するものを以って理想とし 国家の存亡を見て念とせざる極端なる個人主義を生ぜり。彼らは是こに於いて乎(か) 自己の主義の破産を感ぜり。たとひ公然しか自白する能はざるも 猶ほ従来 宗教を学校の門外に放逐せんとするに至れり。

  • 大平正芳首相は キリスト者であった。また 《ブルジョアジーは 広汎な失業者層――いわゆる〈産業予備軍〉――をほしいままに処分できるようにしなければならない。この階層から かれらは適性のある労働者を いつでも好きな数だけその経営に選抜できるし・・・》(ウェーバー社会主義 (講談社学術文庫))というように 《アマテラス予備軍》を輩出させうる。――内村鑑三は そのとき第一高等学校の教師であった 大塚さん内田氏も 国立大学の中にあった。

井上哲次郎が明治三十四・五年の頃より 新宗教の製造に着手せんと欲し 其の趣意を公言したるが如き 文部省の官吏・沢柳政太郎が昨年を以って其の《教師論》に於いて宗教的信念ある人士が国家社会に貢献するの厚きを認め 教育家自身の修業として宗教を信奉せんことを勧告し 嘗(かつ)て井上哲次郎の応声蟲(おうせいちゅう;寄生虫にして代弁者)となり悪罵を基督教に加へたりし谷本富も亦同じ年を以って岡山教会に於いて 大西祝の人と為りを論じ 宗教と教育の両立せざるべからざるを論じたるが如きは 均しく是れ所謂る国家教育主義の自ら青年の主張を放ちたることを示すものに非ずや。
実に最近数年間に於ける日本の精神界は或る一点より観察すれば権威と本能 国家と個人との衝突として見るべきものなりき。乃(すなは)ち晩年福沢諭吉が 明治三十三年に置いて慶応義塾の生徒一同を会し独立自尊を主義とする修身要領なるものを講じ 更に其の門人を全国に派遣して其の主義を拡張せんとしたるが如きは是れ 実に国家の権威を籍(か)りて機械的に人心を圧せんとする当時の教育主義に対して 日本の教育史に功労ある一巨人の掲げた反抗の声なりき。
所謂る国家主義(A‐S連関体制としてのやしろ)を以って動かすべからざる天の法則の如く思惟したる官学の徒 何ぞ異論なきを得んや。かかる時に於いては必ず黙する能はざる井上哲次郎は此の主義を評して曰(い)ひぬ。

服従なくして社会は一日も成立し難し 社会の成立するは服従あるが為めなり。

  • ちなみに ウェーバーは こう露骨に言わずに《価値自由》に 《支配の類型》を考えた。《強制》ではないのですよと言わんばかりに。

真に独立自尊を実行せば 其の結果は人の自滅に帰するか 若しくは社会の秩序を破壊するか到底二者其の一なるを免れず。

分業によりて結合せられたる人類相互の関係は 有機的団体となりて増大す。之を称して社会といふ。是こを以って人類は其の自然の性として社会を組織せざるを得ず。古来 之を社会的生類と云ふ。寔(まこと)に当たれり。

服従なき独立自尊は 社会の基礎を動乱せしむるものなり。第十八世紀の陳套(ちんとう)思想なり。

当時 政府の機関新聞たりし東京日々新聞も亦 曰ひぬ。修身教育の準規は 全国画一なるべしと。
されど福沢氏の一派は敢へて之を念とせざりき。彼らは政府が修身道徳の主義を一定し 教育の力を以って天下の人心を左右せんとするは到底 能はざる所にして古来 之を試みて成功したるものなく 其の結果は勿論 社会に害悪を残したるに過ぎずと信ぜり。
彼らは眼のあたり 官学に育てられし学生の機械的なる画一教育に飽(う)みたるを知れり。是れ彼らが機械的なる国家教育に対して先づ個人の独立自尊を唱へたる所以なり。徳は孤ならず 必ず隣りあり。歴史の法則は単一の現象あるを許さず。個人の自由判断を重んじ 本能を重んずるの声は均しく所謂る国家教育に対して掲げられたり。高山 登張(とばり)の徒の如き共に此の風潮の産物たるに過ぎず。此の如き個人主義の反動は今や却(かえ)って其の極端に達し 帝国大学出身の文士にして 公然 文を著はして青年は酒を飲まざるべからず。花柳の遊びを為さざるべからずと唱ふるものあるに至る。
而して此の如き縦欲主義(センシュアリズム)の勃発すると共に 他の一方には個人性の自覚と共に進んで神秘の境に入らんとするものあり。或るいは無我愛の真理を発見したりとするものあり。或るいは 《我れは神を見たり》と唱ふるものあり。甚だしきに至りては自ら《我れは預言者なり》と称するものあるに至れり。
之を要するに日本の精神界は今や国民としての人の価値を討論するよりも寧ろ個性として人の位置を研究するに傾けり。

  • かくして 《内面の固有の法則性》の登場。

而して是れと共に宗教的要求は復活し来たれり。是れ基督教に取りては多年の沈睡より覚め来たるべき好機会に非ずして何ぞ。

  • なぜなら このアマテラス予備軍が  《神》を暗示的にせよ 説くに至った。

山路愛山現代日本教会史論 〈基督教の将来は悲観すべきものにあらず〉)

けれども 愛山の言う《宗教〔的要求〕》が 何かA語共同理論または観念であるであろうか。あるいは いわゆる《基督教》なのであるだろうか。
(つづく→2007-02-26 - caguirofie070226)