caguirofie

哲学いろいろ

#14

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第九章a 同じくアマガケリする女と男の一群がいる

――アウグスティヌス 《青年教育の方法を非難する》(告白1・16)――


男の女に対する関係の外へ アマガケリしようとする人びとの例として マックス・ウェーバーの学を挙げたのですが 日本でのこの学派に必ずしも深入りしないとすれば――まだ しないとすると―― いま思い浮かぶものとして 木下順二の戯曲《夕鶴 (日本の文学 (10))》の方法に 典型的にそれは表わされた――もしくは その典型に陥る可能性の大なるものとして 表わされた――と考える。
この作品は むろん 民話に題材を採ったものであり したがって 或る意味で スサノヲ圏に古くからあった一つの方法が――ただし あやまったものだと考えられる―― 反映されたとも考えられる。たとえば 古くから各地で伝えられる《羽衣伝説》 あるいは《竹取物語》のカグヤ姫などの例である。カグヤ姫あるいは《夕鶴つう》のばあい スサノヲのアマテラス化( ama-agari )にちなむ形であるが 実は S者とA者との二元論に立ったA者優位論を――もしくは ともかく もっぱらのA者性に対してあきれや あきらめを感じることを経て 広くアマガケリを果たそうとするような世界を―― 描いているように思われる。
羽衣伝説または《白鳥処女説話》(これは 世界の方々で見られるようだ)のばあい 単純に 対関係としての共同主観の成立を あこがれる もしくは 夢見るに過ぎないが カグヤ姫のばあいは この共同主観成立を アマガケリして 精神主義的に(また それは一種のナルシシスムである)強引に 信じ込んでいる例だと思われる。これは 禁欲の精神(アマテラシスムとでも呼ぶべき)によって 《精神のない専門人。心情のない享楽人》と言って S者性を非難する道につうじている。
古事記 (岩波文庫)》では スサノヲは A圏に譲歩して 自己のそしてアマテラス者の アマアガリを待ったのである。(アマテラスオホミカミその人は スサノヲにとって 姉である)。イヅモに八重垣の共同体を作って俟った。アマガケリしてゆこうとは思わなかった。したがって ウェーバーの方法は 少なくとも日本では このようなスサノヲ圏の中にも見出される。そして おそらく傍系の一流儀であるということなのであろう。
夕鶴《つう》は 罪の法則の支配する必然の王国を嫌った。カグヤ姫も同じく。また 羽衣の天女は そこまでは行かなかった。かと言って スサノヲ共同体・八重垣を 夢の中で離れ去るという中間地点にある。羽衣の天女が ツウやカグヤ姫にまで進んでしまったかたち これを 《与ひょう》や男たちは 理解しなかったか――つまり 関与不可能であることを理解しなかったか もしくは それとして むしろ作者は みとめていたかである。A‐S連関体制の外に そのような精神世界があるのだろうと《夢見て》いたのである。夢見る程度なら 罪はちいさい。
ただし 竹取の作者は その問題を描くにあたって 否定的な見解に立つように思われる。つまり カグヤ姫は どうしようもなくアマガケリをする人物であるという意味である。ツウの作者・木下順二は 思うに このカグヤ姫なる存在に肯定的なのである。その意味は ウェーバー流の方法に立っているというのが ここでの争点である。
そのような精神・律法が厳として存在するのだと言って あのマニケイスムの二元論の罠にはめられてしまったというのが わたしの見解である。アウグスティヌスは 二人目の愛人を持つまでに この律法主義に抵抗を示したのである。かれは 《もはや妻をもとめず この世のいかなる望みをももとめず》という地点へと その結果 みちびかれた。われわれは この回心の地点に立って(立たしめられて) 妻をもとめる つまり男の女に対する関係を捉え これに入る つまり必然の王国を認識し この中に自由の王国を見出していこうとし これの理論を用いて アマアガリの確立へと――譲歩しつつ――生きて 進むのである。
われわれは 二元論の傲慢と片や 反面での 感傷主義(ありもしない美に対する)を棄てなければいけない。このつてで また キリストは 人間の永遠の同伴者であるなどという規定(一種の美意識)が 持たれることになる。これらは もっぱらのアマテラス者らの偽りのアマアガリに対する スサノヲ者の無力感が美にまで高められたアマガケリにすぎない。なぜなら 人間がそもそも弱く 無力であったことは はじめからわかっていたことであるから。アウグスティヌスがその回心=アマアガリを 自分で獲ち取ったと思ってはならぬ。読者はすでに承知おきのように そうはかれ自身 ひとことも言っておらぬ。かれのやったことは 真理を問い求めたことである。スサノヲは イヅモ八重垣に この真理を問い求める場を見出したのである。
律法にしたがって(なぜなら 合法的婚姻でないことは わかっていた・その理解の有効である限りで) しかし律法主義には陥らずに(ただし マニケイスムの教師として 二元論の修辞学をおしえていた) 真理を問い求めたのだ。やがて 真理の信仰にみちびかれつつ――信仰が かれに時間的に 初めあるものとして 生起したのだが―― しかし あの回心にひきゆかれるまでには 神を 精神的な律法であるとは思わなかった。永遠の同伴者とは思わなかった。(そのA語規定じたいは 言い当てている。それにもかかわらず)。
天に去って行った今は亡き夕鶴つうのおもかげを 自己の命(永遠の同伴者)であるとは思わなかった。死者を弔い祖先を思うことと 永遠の同伴者だと信じ思うこととは 別である。後者のかたちで思うなら この世で このA‐S連関体制の中で 誰もが罪の法則に支配されているのだから 何をやってもよい 何をやってもそれを支えてくれる力が――去っていた死者として・つまり キリスト・イエスや夕鶴つうが――自分に与えられたのだと そのとき無力感の美による強きわれの誕生であると言ってのように 或る種の喜びに満ちると同時に アマテラス予備軍の罠におちいること 請け合いである。
そのような偽りの推進力(自己幻想)によって A‐S支配体制のために働いてくれることを もっぱらのアマテラス者は 待っている。アマテラス・キャピタリストたる国民経済学者が あのロビンソン・クルーソーの物語を愛するというなら アマテラス者は 羽衣伝説・カグヤ姫の説話 なかんづく 夕鶴つうの物語を愛好する。あるいは 永遠の同伴者像としてのキリスト説話を好む。やしろ資本連関を観念A語において総括し統治するA者は 観念の資本(愛)家なのであり A者予備軍が繰り出す《夕鶴つう》の物語によって その観念A語に或る美意識を――それは この場合 特徴的なこととして この世とあの世との二元論によってかもし出される―― 共同の観念として定着させ これに拠って この世に戻って来て人びとの働くのを待つというのは そのような観念の賃労働者の誕生を期待している。キリスト(やしろ資本推進力)が このようなお話の中に存在するとは思うなかれ。
わたしも いささか預言者ふうに言うなら ウェーバー流の学問と宗教(共同観念)とは このような 初めに羽衣の天女 かぐや姫 そして つう 人間の永遠の同伴者像 死者が仏 といった精神的な美意識かつ律法主義(欲と禁欲との二元論)の歴史的な――負の――総決算なのである。
つうは たしかに 関与不可能なA者予備軍なのである。母モニカのように。(源氏物語では 空蝉のごとく)。かれが かのじょが キリストなのではない。関与不可能だから キリストとして まつりあげられている。なぜなら そのように祀り上げる人びと(男たち)も A者予備軍性を共有したから。アウグスティヌスは 母モニカに対して かのじょの祀り上げに抗したのである。竹取の作者も そうした。しかし 人が無力であり なおかつ この世のA‐S倒立連関が不可変の絶対的な体制であると見てしまっている場合 誰か 無力そのものである人 その美 そして殊にそれはもはや死んだ人がいい が自分たちの推進力として 必要なのだ。
そのような対象を 神として祀り上げることによって みづからもアマガケリしてゆこうとする場合が ありうる。

あるとき私は 一人の高名な旧約学者がこう語るのを聞いた。人間は罪深く その救われることがわれら人間の願いであるには違いないが その前に神自身の 人間を救わずにはおかぬという願い 誓い 志がある。救いは人間の願いであるけれどもその前に神の意志であり そのことによって初めて救いは成就し実現する。そこに救いの客観性 確かさがある。――
信仰的な意味は私に分からないが 作品を書くという行為の場合も これとアナロガスに なにか客観的価値というようなものがあるのではないかということを その時から私は考えるようになった。
木下順二:全体の表現と個の表現)

これは アマテラス語客観の上で 真実であろうと思う。しかし 《救いの客観性》があっては たまらない。《作品を書くという行為の場合も なにか客観的価値というようなものがあるのではないか》ではなく 作品はアマテラス語客観を用いて したがって 客観的価値を意味表示させつつ 主観を表現するのである。そこに S者性とA者性とはあるが 昼と夜とはあるが 昼の優位性を主張する二元論は――ただそれだけを主張するような議論は―― ありえないのである。これから なお 《客観的価値 救いの客観性》をみちびき出し 主張するに至っては 人間はたまらないのである。これがキリストだよと言って取り出して われわれの前に置かれるようなものである。
なぜなら A‐S倒立連関体制なるこの世の中に 昼と夜とは見られるが また時に 昼の優位を律法として説いて(法律を作り) 罪の共同自治(また支配)の一方式とすることはあるが これに対してかれらは これら全体があたかも《夜》だよと言わんばかりに そのような二元論の中に 天に去って行った(アマガケリする)ツウを 《客観的キリスト》だよと言って示し 説いて悦に入っているのである。もっとも無力な人間 もしくは 死者 の中に《昼》を見出そうとする。無理にでもそのように《昼》をこしらえようとするのである。
それでは 普通の人間は たまったものではない。しかし あの関与不可能なA者予備軍(殊に 女性の)は そうされても 抵抗を感じない どころか うれしく思うようなのである。かくして そのような人間を探していた〔殊に男の〕A者予備軍は これを 神として祀り上げ仕立て上げる。
(つづく→2007-01-07 - caguirofie070107)