caguirofie

哲学いろいろ

#16

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Danae (1531 ca.): Antonio Allegri detto il Correggio
Il capolavoro del Correggio, la Danae raffigura una delle quattro storie delle Metamorfosi ovidiane con gli "amori di Giove",...
Giove, tramutato in pioggia d'oro, viene accolto da Amore e Danae, mentre gli eroti (uno amor celeste con le ali mentre l'altro è terrestre) provano con la pietra da orafo la qualità della lega metallica della punta della freccia amorosa.
ダナエ・黄金の驟雨


第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第十章a アマガケリする人びとのアマテラス語弁論術

――少年時代を 回想する――


《告白》第一巻十六章二五−二六節が 《青年教育の方法を非難する》と要約された一章である。(要約の題名は 原文にはなく Migne 版のテクストに従う山田晶訳による)。
前章で その二六節を全文 引用したが 二五節を追加して引用したい。

しかし わざわいなるかな 人間の習慣の流れよ。

  • 《習慣》は 共同主観の停滞と解釈しうる。つまり 必然の王国のこと。

だれがおまえに さからうことができよう。おまえが 枯れ果てるのはいつのことか。いつまでおまえは 恐ろしい海に エヴァの子らをまきこむのだ。この大海をわたることは(=むろん これは アマアガリの問題だ) 木船に乗った者にすら困難だ。

  • 木船が 《十字架》のことであるのは論を俟たない。すなわち共同主観者にとってすらということになる。

雷をとどろかせながら姦通するユピテル(ゼウス)の話を私が読んだのも その流れにおいてではなかったか。じっさいのところ この二事を同時にすることはできなかったはずです。できたとされるのは 偽(にせ)の雷を体裁のよい仲だちにして ほんとうの姦淫をまねる口実をもうけるためでした。
けれども 教師のガウンをまとった人びとのうちのだれが 同じ塵から生まれた人間がこうさけぶとき まじめに耳をかたむけて聞いてくれるでしょうか。

これはホメロスのでっちあげだ。人間のすることを神神の仕わざにすりかえたのだ。神のことをわれわれの仕業に移せばよいのに。

しかし こういったほうがもっと真実に近い。

たしかにこれをでっちあげたのはホメロスだ。しかも恥ずべき人間に神の性格を賦与している。それに醜行が醜行と思われずに すべてそれをする者は 堕落した人間をではなく 天上の神々をまねているのだと思われるためだ。

(告白1・16・25)

このあと《しかも おお地獄の流れよ。・・・》とつづく箇所だ。しかもわれわれは この一節に なにを読むであろうか。

ダナエは アルゴス王アクリシオスの娘。王によって青銅の密室にとじこめられていたが ユピテルは黄金の雨となってかのじょの胎にそそぎこみ ペルセウスを産む。(山田晶

《醜行がたしかに醜行であり 夕鶴つうの徳行の世界とは むしろ断絶したものであり この二元論がみとめられたなら 天上の神をまねることはわれわれには不可能事であり 地上の世界にあっては あの善悪を知る木(時間知)から採って食べ おのが知恵を発揮して生きよ つうの暖かき心・その愛を忘れずに》と言おうとしているのでないなら 《夕鶴》そして一面での《竹取物語》や《羽衣伝説》 さらにまたウェーバー流の《キリスト教》は 何を言おうとしていたと言うべきであろう。
しかしスサノヲは この《徳行》の世界 もしくは徳行を説く世界 または タカマノハラA圏(九重)に対しては 《八雲立つ出雲八重垣 妻ごみに八重垣作る その八重垣を》と言ったのであったということであった。《人間の習慣の流れ 地獄の流れ》の中でである。
八重垣に二元論はない。善悪を知る木から採って食べたと言っても その善悪は 二元であるのではない。二項目である善悪は 一元なる神のもとにある。ここから 醜行と徳行との二元世界が生まれたのでもない。対立する二項目の世界を――つまりすでに述べてきた《昼と夜とから成る世界で われわれは 夕となり 夜へは渡されずに 朝を迎える》という二項対立のある世界を――生んだとしても なんで この世界が 二元論として解釈されるのであろう。
二項対立の世界に住み その習慣の流れに抗しがたくして生きねばならぬ人間が マニケイスムなる二元論の宗教を生んだのであるから――つまり マニケイスムは 人間みづからを 知恵の木(善悪を知る木)によって弁護したのであるから―― 生命の木(死と復活の木)の船に乗って その流れの中を航き アマアガリを望み 八重垣共同主観の地上全域での確立を 俟ったのである。
知恵の木・善悪を知る木が その木の実が 醜行と徳行との二元世界を描いてみせるのであるから この二項対立の世界では 醜行と徳行とが 互いに相対的なものだとさえ考えられる。だから《禁欲博士たちが 私たちのために器にそそぎこんだ〔二元論の〕誤謬の酒を責め》なければいけないと わたしたちは言ったのであった。
繰り返そう。《人の子らは こういうことを学ぶために わざわざ授業料を払って おまえのうちに投げ込まれるのだ》(1・16・26)。《私はけっして ことばそのものを責めない。それはいわば選ばれた貴い器のようなものですから》という譲歩は だれのものというべきか。
この議論をもう少しつづけよう。
アウグスティヌスが少年時代を回想して 《告白 confessio (わたしの欠陥を見止め告白し confiteri 〔あるいは 告白を公的な表現としては行なわず〕 この欠陥が癒されるアマアガリへ みちびく神の力を讃美する confiteri 〔あるいは ことさら神の語を持ち出さずに 回心の後の自己に立つ告白後の生〕)》を この主題にからめて 次のように述べている。

神よ わが神よ 世にときめく人になりなさい 人間の名誉と虚偽の富をもうけるために役立つ弁論術に秀でなさいと忠告する人びとに従うことが 正しく 生きる道だと教えられていたあの少年時代 私は何という悲惨と欺瞞とをこの世で味わっていたことでしょう。
(告白1・9.14)

これだけでは まだ わからない。この第一巻第九章は 《学問を嫌い 遊びを愛した。子どもたちは笞打ちを恐れる》と要約されている。以下の諸章の 要約のタイトルを拾うと

   第十章 :《遊びと見せ物を好み 勉学をおろそかにする》 
   第十二章:《学問を強制された 神はこのことをも善用したまうた》 
   第十三章:《何の勉強がいちばん楽しかったか》
   第十四章:《ギリシャ語を嫌った》
こうして第十六章の《青年教育の方法を非難する》へと続けられるということですが 問題は その教育方法の《悲惨と欺瞞》とを告発するということにはない。また アウグスティヌス自身 このように要約される内容をつづって むしろ学問への誘いを行なっているのであることは 言うまでもない。さらにまた もはや現代では この《主 / 神よ / かれのあわれみ》を 直接に顕揚することに 腐心してわれわれの意図を用い尽くすべきでないとも考えられる。
けれども ここで――問題に関連して――論議しておこうと思ったのは 次の点である。
なぜ わたしたちは このように《伝記小説ふうの物語》と言いながら 引用ばかりして また論議ばっかりするのか。アウグスティヌスの文章を引用するのではなく かれの生涯の課程をたどり かれに内在して 心理のひだにも分け入り かれのものした文章に迫ってくるものでなければいけない このような声が わたしの耳には達している。かれの生活し移り住んだ土地と 社会と 時代の歴史的な情況等々 さまざまな・物語の構成要素が 欠落しているではないか。父 母 友人 愛人 さらにはかれ自身の人となりにしたところで まだ 何も語っていないではないか。
この問題が 《青年教育の方法への批判》の問題と関連していると思っているのであるが この点については この一つの章の中で論議し尽くそうとは思わない。全体の《小説》の中に 間接的に触れていきたいと思う点でもある。ここでは 一つの考え方の入り口といったようなものとして ひとまとまりの駄弁をつづっておきたいとも考えた。もちろん 主題としては 重要であると思うゆえ。
問題は 神の国へ上昇(アマガケリ)していこうとすることではなく また 下降して習慣の流れの中に沈湎することでもなく 神から・もしくはアマアガリ後の自己に立って 人間の中へ到来し 人間に近づくことである。と思う。
(つづく→2007-01-09 - caguirofie070109)