caguirofie

哲学いろいろ

#49

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Nazareth
Aussi connue sous le nom de En Nasira, Japhia, Mash-had, en-Nasirah, Nazerat, Nazareth de Galilée, Nazareth dans la Galilée, Yafti en Nasra

Située dans un bol en haut de l'arête de Nazareth au nord de la vallée de Jizreel, Nazareth était un village relativement isolé du temps de Jésus, avec une population de moins de deux cents habitants.

Aujourd'hui Nazareth abrite près de 60 000 arabes israéliens, la partie supérieure de la ville logeant plusieurs milliers d'habitants juifs.

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第二十七章b つづき(A者予備軍としての内村鑑三批判)

――アウグスティヌス いよいよ強くなる――


ここでわたしたちは このマルクシスム キリスト史観 コミュニスム インタスサノヲイスム ヤシロイスム インタムライスム=インタイエキャピタリスム(その方法)に対して あの《無限に大きな精神の想像物》をもって むしろ上記の視点をおおいつつ阻もうとする動きに 警戒しなければならない。
ただ観想し理論し行為していればよいということにはならない。
与ひょうが つうの矢を抜いてやったことを つうは エートス(思惟=行為の形式。それは身体をともなうものであるが 精神あるいは観念としても捉えられているであろう)において 或る倫理的要求にしたがう行動だと捉えた。単純に言えば この倫理をめぐる想像において 恩を受けたとも捉えた。恩返しを想像する。そのような精神の王国でのあり方を想像する。――この場合は かのじょが 自らの思想を語って 《おかねっていう世界のことばがわからない》と言ったり のちには その隔たりを嫌って 与ひょうらの世界を去っていったりするという事例に照らして いくらか かのじょの抱く《精神》は《精神主義》となっているのではないかという色眼鏡をもって捉えようとしたものである。
つまりそうだとすれば それは すでに 精神ないし観念つまり客観抽象のアマテラス語に かのじょは 仕えていることになる。思いやりと感謝と恩返し等々のA語精神である。これら倫理は 正しい あるいは 適宜・妥当である。それは ただしわづかに スサノヲ人間語から抽象したアマテラス語概念でもあり 第二次的なくせとしてのような観念あるいは建て前でもある。
ここまでは ともあれ まだ広くは第一次的なうわさである。うわさとして分析したに過ぎない。ところが この倫理ないし精神をそれ自らの王国として拡げ この王国を神として これに仕えるという世界が繰り広げられうる。そのときには 実際には――つまり これに固守するとき この精神の徳と美との世界をいやがおうでも守ろうとするくせのある人の場合は―― 自分が仕えるべきこの神としての精神の王国の全体よりもさらに上に 自分自身が その身体を空気のようなものと為して アマガケリしていなければならないであろう。そのようにして 他からの精神主義ではないかとの批判に答えようとしたのである。
繰り返すならば このエートスの王国の住人として この観念のとりかごの中で――とすでに 批判的に述べることになるが―― この観念じたいを 保守しなければならなくなる。おそらく 倫理的な観念を保守するというよりは とうぜん その人の地位・権威・権益を守ろうとすることと一体であるのであろう。これが やしろ全体に一つの勢力をもって浸透するなら――というより すでに初めに そのように支配的な思潮が定まっていたのであり――それは 共同観念であり これは とりもなおさず はじめの与ひょうの主観(しかも 共同主観)の上塗りである。第二次・第三次の観念であり そこには 既存の権威にしがみつくときの欲動や欲望が絡んだ上塗りである。スサノヲ者である与ひょうの上を行くスーパースサノヲイスムである。
これは 余計なお世話であるとともに そればかりではなく 共同観念となっているとき 自らのかごの中に引っぱりこもうとする罠でもあり とりもちであるとなる。S者の八重垣共同体が 空中の楼閣へ連れ去られようとする。やしろ全体の問題である。
したがって ただスサノヲ・コムミューヌ八重垣を 観想し理論し行為していればよいということにはならない。こうして 

わたしたちの戦いは 弱い人間を相手にするものではなく 支配と権威の霊 暗闇の世界の支配者 天にいる悪の霊を相手にするものなのである。
(エペソ書6:12)

と言われる。これは 二元論ではない。二元ではないゆえ 抵抗・戦いつまり批判におよぶ。言いかえると この《悪》は 《善(人間としてはその自然本性)》の否定であり この否定的精神は 善なくして存在していない。だからまた この意味における限りでの 善と悪との二項対立である。キリスト史観に立つインタスサノヲイストが 《夕となり 夜へ渡されずに また次の朝を迎える》というその共同主観に生きるとき たしかに この世界には 《昼と夜》とがあるのであったのであり 後者の二項対立の世界を 昼の精神主義に立って 説く・したがって二元論として説くやり方が 実際 共同主観の道を阻もうとする徳の力主義であったというのであるから。

悪魔(善の否定)も光りの天使(もとの善)に〔みづからの力で〕変身する。
(コリント後書11:14)

と言われるこの《支配と権威の霊 空中の権能》のやり口には 警戒してすすむべきである。
矢内原忠雄については この《サタン論》を読むことができる。そこでは たしかに今のテーマであるA者予備軍のやり口とそれからの解放を論じているのであるから。
まず

サタン(悪魔)は 神の支配をくつがへすことは出来ないが 併し之(これ)をくつがへさうとする意思と 之を企てるだけの実力を有(も)って居る。サタンはもと天使長の一人であると考へられて居るが 彼は天使の三分の一を誘うて 己と共に神に叛逆せしめるほどの威力をもった(黙示録12:4)。
彼は天使としての霊的な権力を有ち(エペソ書6:12) 多くの部下と民とを支配する国王である。彼はこの世の暗黒を掌る者であり(同上) 空中の権を執る君主である(エペソ書2:2)。彼は悪鬼の首領として己の統治する国を有ち(ルカ11:18) 七つの冠を頭にいただく王である。彼の国の勢威は神の国に対抗するものであり 少なくともそのような外観と体制とを備へる。
矢内原忠雄:サタン論1947 《無教会主義とキリスト教論》)

(ちなみに 擬人法は 単なる表現の問題だと 人は 心得られよ。)
このような抽象的な議論が まず――少なくとも一度は―― やしろ資本の新しい形成に際しては 内に省みられるべき要がある。なぜなら 悪魔は 《肉の死とは無縁》な霊であるから たしかに抽象の域を出ないが その手下である《悪鬼》とは ほかならぬこの徳の力によって(それは実際には 必然の王国に無関心となって学問にいそしむのにはたらくのだが その徳の力主義によって) かつこの昼と夜の世界に分けた必然の王国に対して それらを さまざまな彩りをもって 価値自由に認識しようとし また学問の権威によって それらを支配しようとし そうして むしろ知の私有財産制を敷くことによって A‐S連関体制すなわち S圏やしろの侵略による管理的な罪の共同自治を保守しようとしてはたらくやり口であり 力であるのだから。
この私有財産止揚は 必要であると考えられた。また これは 抽象的な概念によって議論しなければならないというほどに ごく日常茶飯の出来事であると考えられたことになる。(井戸端会議の域を出ないが これをA語を用いつつ 抽象的に表現することによって 八重垣に八雲を立たせて 侵略を阻止する)。

サタンが人を攻める手段に三種ある〔――と始めて矢内原は このA者予備軍のやり口とそれからの解放を 論議してゆく〕。
第一は 誘惑である。
矢内原忠雄:同書)

たとえば 《恋愛は自由である。然れども 神の聖旨の内に在りてのみ 自由である》と始めて 《恋愛の自由に就いて》説くやり口が それである。《律法が〈むさぼるな〉と言わなかったら わたしはむさぼりを知らなかったでしょう》(ローマ書7:7)と言うように 《神の聖旨の内に在りてのみ自由》とだけ言われなかったら 《恋愛〔なる必然の王国〕》のほかに もう一元としてはたらくかのように立てられた《無限に大きなありもしない精神の徳》をわたしは信じなかったでしょう。
したがって  《恋愛の自由に就いて》は 別種の《誘惑》であり それは 精神の知力の私有財産制またその共同観念体制なのだ。あるいはつまり それが 観念A語の公有財産制となって そのもとに もう一元として 逆に《恋愛》の世界のS語的な私有財産制が おこなわれることになる。(法律を犯しさえしなければ 自由であるという考え方)。

〔サタンが人を攻める手段の〕第二は 告訴である。
サタンは神の前に人間を訴へ 我らの欠点を挙げて 我らの救い(アマアガリ)を妨害しようとする。
(矢内原 同書)

――《余に一つ耐えられぬ事がある。其の事は人が他の人を己れの宗教に引き入れんとする事である》(内村鑑三:余の耐えられぬ事)というように 《欠点を挙げる》やり方である。《宗教の勧誘》は 必然の王国の中そのものにあるならば ただ必要(経済的必然)によって促し強制するという《欠点》であり わたしたちがこれを為すわけではないが もしたとえば《世界のインタスサノヲイスト 団結せよ》と言って 表現したとするなら またそれが《強いる》ものであったとするなら むしろこの表現の自由あるいはその他もろもろの行為 の中のわれらのありうべき欠点を つねに《告訴》しようとするのが かれらのやり口なのである。
かれらも 《つう》のイメージを再生産し 互いに啓発するのだと見せかけつつ じつは啓蒙し この世の共同観念の水路をとおして このつうのイメージを 時代に応じて さまざまなかたちに変えて説き明かし その観念の王国の住人となることを まわりまわって 強いているのであると思うが それは 精神の徳を証しする律法・法律に違反していないから よいと言うのである。
あるいは この手段は うわさ・ゴシップ・スキャンダルのようなかたちで あらわれる。すなわち A語客観概念で味付けし S圏の井戸端会議のうわさに 輪をかけて というよりは むしろ根も葉もないことを うわさとして見せかけ 捏造するやり方である。そうして A圏統治の共同観念体制に奉仕している。これは わたしたち自身への《告訴》ではなくて 告訴を A圏スーパーヤシロにおいて 演じているのである。これは 学問としてのウェーバーの方法が やるのではないが ウェーバー流の学問のやり方が 派生的にこれらの生じることを是認している(無関心でいる)ことによるのだ。
この第二の手段によっては 人はかれらを信じるようにはならないであろう。第一の手段が 《何という阿呆なことか わたしはそれを信じたのです》(告白3・6・11)というように 精神的に誤謬に渡し アマアガリを阻むやり方である。これらに対して 次の第三の手段は 物理的・肉体的に妨害する(《警察の対象とする》)やり方である。

第三は責苦である。
サタンは人をして神の義と愛を疑はしめるため(――世間は 全く冷たいのだと思わしめるため――) 人間の生涯と肉体とに苦痛を与へて拷問を加へる。
(矢内原 同書)

精神の徳は この世の夜の世界から人が自由になることを教えようとする学であったはずだが この学のやり方に人が乗ってこない・順応しないとなれば また 第一の手段で 信じず 第二の手段で やりこめられず なお《生きている》となれば この第三の手段に訴える。文字どおり 《警察(罪の共同自治 の違反の取り締まり)の対象とする》ことであり また 或る種の〔共同〕観念的な現実において さまざまなかたちの《踏み絵》あるいは《ムラハチブ》が それである。これらは 勝手に想像して信じる《精神の徳》をむやみに頑固に説くことから 出てくるのである。
スーパーヤシロによるS圏資本の侵略に対して 弱さを方法として 譲歩しつつ やしろ資本の愛に生きている人びとをして この《神の義と愛を疑わしめるため 人間の生涯と肉体とに苦痛を与え 拷問を加える》のが このやり方である。これらすべて 《宗教》的な精神の徳を説くスーパースサノヲイスムから出てくる。

基督教(――ウェーバー社会科学の方法――)は其の宣言する所に依りますれば 之は是れ天下唯一の宗教であります。即ち之より他に宗教と称すべき宗教はないのでありまして 人も国民も若し救はれんと欲せば 必ず此の宗教に頼らなければならないと云ふのが 聖書の幾回(いくたび)か繰り返して宣べる所であります。
内村鑑三:基督教と世界歴史)

もし内村が あの《不敬事件(この詳細は 次章に見る)》にかかわって 日本教のアマテラス体制によって 《告訴され 職を奪われ 生活に責め苦を受けた》とするなら そうして 戦後において この不敬罪が廃止されて内村が勝利したとするなら これは 日本教のA圏‐S圏連関体制が その中味を ウェーバー流の資本主義(スーパースサノヲイスムによるスーパーヤシロ資本の第一主義)に席を譲ったということを 意味するでしょう。
しかも A者予備軍はこのもとに復活し 誘惑と告訴と責苦の手段によって やしろ資本の 富によるというよりはむしろ 通俗的には人脈による 上品には知による 私有財産制を保守しようとした。

サタンの正体は 七頭十角 赤色の怪物であるが エバを惑はした時は輝く姿を有った華奢な蛇であった。

  • 創世記3:1に記される《蛇》の原語《ナカーシュ》は 《輝く者》の意である。

彼は吼ゆる獅子のごとく歴(へ)巡って呑むべきものを尋ねるが(ペテロ前書5:8) 又 細菌のごとく忍び込んで我らを内部から蝕む。暴力と狡知とを兼ね備へ 時には迫害を以って 時には肉的快楽を以って 時には又 科学的合理主義の美名を以って 変幻出没 我らを脅し 誘惑し 神より離反せしめようとする。
矢内原忠雄 同書=〈サタン論〉)

マルクシストは マルクスが 《自己より離反せしめようとする》勢力に対抗して 自己を見失わなかったように(また 当然のごとく 思想的転回はあった) 理論闘争によってではなく 自己を思うことによって すなわち A者予備軍を論駁することによってでは必ずしもなく かれらのやり口を 嘲ってあげることによって 共同主観の歴史的な系譜に立たなければいけない。
いくらか 駁論ふうになるが 次のように矢内原を引用して しめくくろう。

我らはサタンのすべての火矢を消すために信仰(――方法の滞留――)の盾を取らねばならない。・・・
サタンが我らを神の前に告訴する時 我らの為めに執り成してくれる弁護人も亦キリスト御自身(S圏やしろの愛として)である。サタンは我らの道徳的欠点を指摘して 神に訴へる。併しキリストを信ずる者は己が義ではなく キリストの義によって神の前に立つのであるから サタンの訴へは全くポイントを外れて居り 我らの立ち場はそれによって寸毫も影響されることはない。・・・
地に落とされたサタンは 己が時の暫時なるを知り 益々 秘策を講じて人を神より離反せしめようと企む。・・・
矢内原忠雄:サタン論)

(つづく→2007-02-11 - caguirofie070211)