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哲学いろいろ

#38

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Edom

Idumea, or Idumaea, was the name used by the ancient Greeks and Romans for the land of Edom, which was located between the northern section of the Gulf of Aqaba and the southern shore of The Dead Sea.

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第二十二章a 前章への補論(または 方法の滞留ということ)

――アウグスティヌスの後継者としてのマルクスの《学》――


大塚久雄の方法への批判について 補っておきたいと思います。
ちなみに なぜこのように すでに誤謬が明らかなことについて 執拗に触れるのか これは 現代の隠れた王者であるその学に失礼に当たらないようにするためです。ということは 逆にはっきりと言うならば 或る程度の批判によって あとは無関心となることが 一方では出来ず もう一方では ある程度の批判の提出のあとに 奥の手を使われて かれらになお わたしたちが つけ込まれないためなのです。
ヨーロッパで マニ教はすでに死に絶えた。また マルクスらによって ヘーゲル批判・宗教批判は すでに終えられている。しかもそのヨーロッパで ウェーバーなる学的方法というマニ教が起こらなかったとは言えない。けれども 日本では このウェーバーの方法は なお――直接には一部においてなのだが その影響は けっこう幅広いところで―― 宗教の王者なのです。王にはそれ相応の礼を尽くして 批判して進まなければなりません。このような前史からアマガケリして去ってしまうわけには行かず この前史にわたしたちは寄留しています。自由の王国は そのほかの所にはない。言いかえると やしろシステムの変革という実践も この理論的な批判という実践の外に あるいはそれと別個に 存在するものではない。
わたしたちも 大塚さんへの批判はかんたんには為し得ないと思うですが 前章の最後の言明をば補っておかなくてはならないでしょう。
大塚久雄の――ウェーバーについてのではなく―― マルクスについての見解は たとえば次のようです。こちらから見ていきましょう。(引き合いに出すべき文章がなかなか見つからないので――いわばそのような構造を伴なったような思想だとも思われる―― 苦労したのですが 次のひとまとまりの文章。)

ところで マルクスは しだいに経済学批判という仕事に集中していって 内的・人間的な諸動機から発する諸個人の行動の法則性の問題を 大ざっぱにいえば 視野の外においてしまったように思われるのですが それはどうしてでしょうか。私はまったくの推測をいわせていただくと こうです。
階級的人間(必然の王国の中の人間――引用者註)を現実に真の人格的人間にまで解放するために必要不可欠な観念的手段――つまり地図(理論のこと)です――のうち 最小限度に必要なもの そうした第一の着させるべきものとしての経済学批判の仕事に集中した。しかし もしもっと長く生きていたならば 他の文化諸領域における人間行動の固有な法則の探求へ進んでいったのではないか。賛成があまりえられそうにない推測ですが 私にはそう思えてならないのです。というのは こうです。
彼はたしかに 社会運動(やしろの資本形成)のための地図を書こうとした。そして そのなかでは人間諸個人の生きたままの姿ではなく 経済学的諸範疇の人格化としてのみ取り扱った。しかし 地図のうえだけではなくて 現実の社会運動のなかでも 生きた人間諸個人を単なる経済学的範疇の人格化として扱う いわばもの扱いにすることがよいのだと考えていたでしょうか。私にはどうもそうは思われないのです。
(1)

社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス (岩波新書)

社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス (岩波新書)

まず前提としての認識にかんして 論議します。(いわゆる初期マルクスが 《人間》をあつかっていなかったとは 到底考えられないのですが 大塚さんは 上のように言っています。)端的に わたしたちは 大塚さんのここでの《推測が 賛成をえられそうにない》からではなく 基本的にこの文章表現の意味表示するところの事柄には賛成を表明しつつ 《マルクスは 経済学批判のあとに 他の文化諸領域へ進んでいったであろうとするのではなく その前にそうであったゆえに 政治経済学批判へ進んでいった》と見ることが それです。

資本主義的生産様式

  • やしろS圏の資本形成を 幾何学的なアマテラス語価値理論によって捉え しかもこのアマテラス者性をいわば動因として したがって 経済主体としては この経済的なA者性(つまり homo economicus )を 一個の人格として第一とし さらに 消極的にしろ(自由放任)積極的にしろ このA者の単独分立圏としてのスーパーヤシロを やしろ総合的な主導者とする《生産(経済;立法)‐経営(政治・行政)‐組織(社会秩序・司法)》から成る様式。

の支配的である社会の富は 《巨大な商品集積》として現われ 個々の商品はこの富の成素形態として現われる。

  • モノ・質料・その意味でのS者性としての商品=使用価値(さらには 経済主体との関係の面で より正確に 効用)が 即自的にはその生産に要した労働時間によって 対自的に 客観アマテラス語価値の評量によって 相互に規定され このA語交換価値としての巨大なる商品集積として現われる。

したがって われわれの研究は商品の分析をもって始まる。
(1・1・1・1)

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

最後の一文にかんしては われわれのインタスサノヲイスム理論は この商品世界に生きている人間の主体的行為の考察(その前史から後史への移行)をもって始まると 追補していれば足りるが けれどもマルクスは ここで 《商品の分析をもって始まるこの研究》を 共有せよと言っているのではないと思います。上にわたしたちが追補したことがらを むしろその前に――すべての初めに――考察していたゆえに その研究対象(ないし領域)を このような政治経済学批判という分野に特定していったにすぎない。
言いかえると この研究領域の特定のいかんにかかわらず 上の《資本》なる著書の冒頭の短い一節だけからも かれは むしろ研究する主体のことを問題としており すなわちむしろ 研究の以前にすでに生活している主体のことが どうしようもなく 自分の中で かかわっており つまりは自分(マルクス)あるいはわれわれが 主観を できるものならば 共同化しようと言っているに過ぎない。基本はである。研究の結果を 知識として共有せよとは――その観点は 従来の学問の視点からはあたかも(日本では)成立する―― 言っていない。この研究成果を さらに再生産せよとは 言っていない。むしろこのように研究する自己の方法を 共同せよと《強いて》いる。
すなわち すでにここでも《内的‐人間的な諸動機から発する諸個人の行動の法則性(それがあるとする限りで)の問題を 視野の外においてしま》い なおかつ 《諸個人》の主観 これを見つめよ これを思い その動態的な共同化に意を用いよ と言っているのでないなら マルクスも この著作を遺してアマガケリして去ってしまったことになる。人はそういうふうに見ることができる。そのときには《もっと長く生きていたならば》 かれ自身のアマアガリについて――他の文化諸領域についてとともに―― 発言していたであろうと 大塚の言うとおりのことになる。けれども そう言うのは マルクスを《アマガケリして去った〈つう〉》の視像において捉えたから そのイメージにおいてしか捉えられないから でないなら 人はマルクスの発言を誤解したことになる。
マルクスは たしかに われわれのインタスサノヲイスムの方法を上のとおり 示した。もし それでも誤解を生むようであったとするならば それは 《前史から本史へ》と言って 方法の滞留を――すなわち 《前史から本史(キリストの御名=やしろ資本推進力)へ》と方法する自己の そこであらたに・前史に寄留しつつも新たに いわば後史に立ったところの滞留を―― 明示的には発言しなかったし また 思いいれをして見るならば 当時の・すでに批判済みとは言えキリスト教世界の中で この滞留を明言してしまうなら まったくの旧いキリスト宗教の方法と異ならないようになると 知っていて これを 嫌ったのだと思われる。
この嫌いは エートス(つまり くせ)の問題であり その共同主観の核は(つまり エートスはここからも もたらされうるが)やはり キリスト史観=インタスサノヲイスムの方法なのである。この一見すると 非学問的な断言が 後史すなわち方法の滞留なのだと思う。もしこうしないと わたしたちは あの結局ついに後史に到達しなかった《つう》の方法に どこまでも足をさらわれてしまうことになるでしょう。だから ウェーバー主義は わたしたちの明らかなかたちの《敵》なのです。
たといマルクスが 《他の文化諸領域または 人間の諸動機の固有な法則性》にかんして発言したとしても それらをも含めたかれの精神的な営為がではなく その精神(および身体)のみなもとと かれという一個の人間との関係が 問題なのである。(みなもとは 目に見えず 言葉でも説明できないとすれば われわれはこれを霊と言っている。聖霊と呼んでいる)。
けれども 大塚さんがこの関係を問題にしていないのではなく しかもこれを 《内的‐人間的な諸動機から発する諸個人の行動の法則性》として捉え規定していこうとすることは 問題なのです。そのような法則性=律法=道徳など ないと知らなければいけない。自由なのである。基本においてはである。みなもとにあってはである。
いや 律法が廃れてしまったというつもりはない。ただ 《内的‐人間的な行動の法則性》が マルクスをして書かしめたのではない。マルクスその人が 精神をとおして――精神においてではない―― 書いた(行動した)のである。そこに 精神の行動にかんする法則性が現われているか否か――それをたしかに エートスとして見てもよいが―― それを以って学の方法とすることは 明らかに ヘーゲルフォイエルバッハへの退行ということにほかならない。
エートス=人間類型を 学の対象とすることは 学と言わずとも 誰もが多かれ少なかれ そうしている。そのとき 経済的な関係ないし利害状況を いわばその土台として さらに分析しているかいないかの違いにすぎない。このとき 人間の経済行為もしくは経済主体としての人間 という土台のさらに土台が やしろ資本推進力であるとわたしたちは見たのであって エートスは この《土台の土台》と人間との関係からみちびき出される思惟・内省=行為・生産の形式であり それは当然のごとく 経済行為という《土台》との関連の過程で 形成される。エートス=精神行為に 《固有な法則性》を見てもよいが これが 原動力ではなく まして神なのではない。
たとい内的なものであれ精神の徳であれ 《〈人間〉的な諸動機から発する》ものは すべて必然の王国に属しており 前史であるとわたしたちは 知った。という後史の現実性は 通俗的に言っても一般に 《運》があるかないかを議論するところに 現われている。もしウェーバーが この《運(運命)》を前提として 《自己の守護神=デーモンに従え》と言ったのだとすれば この通俗的に言うところの後史性としての《運》をも 《人間的な諸動機から発する・自己のデーモンの設定》という前史へとアマクダリさせたのである。自己が すでにアマガケリしているから そういうことが言えたのである。
マルクスは――たしかに大塚さんも言うように―― 《地図(理論)を共有せよ》と言ったのではない。言っていない。けれども だからと言って 理論・知解行為・経済主体性のほかに 内的な行動の法則性・エートスが 完全に独立しているというものではない。どちらも(どちらの地図も) まったく可変的なことがらであり――自然界(その地図)の変化が 非常に緩慢なものであれ―― これを信じることは 文字通り愚かである。地図の生産者(研究者)であれ消費者(読者)であれ 主体においては共同主観者(その内的法則はない。あるいは内なる人の秘蹟と外なる人の模範がある)として ヤシロロジスト(社会科学者)たれとマルクスは言ったにすぎない。この基体が インタスサノヲイストだとわれわれは主張してきた。
端的に 印象ふうに言わせていただくと 大塚さんの方法は まだるっこしい。これが 停滞だと断定はしないが 共同主観の健康な滞留ではないであろう。もしマルクスが《資本》という膨大なそして退屈な本を書くことへ進んで行ったとするなら しかしかれは この健康な滞留(A者への譲歩)を行なっていた。わづかに――わたしたちの方法を誇るとするなら―― マルクスはこの滞留する方法をそれ自体として 明らかにしなかった。
言いかえると そこに病いを孕んでいた。共産主義社会という未来のやしろ資本連関と 現在社会との関係に この滞留を見ようとした。この後者は それが《科学的》と言われつつ また時に信じられつつ 《空想》へと転化した。この《空想》が はじめの共同主観からの出発の過程にある限りで 精神・観念的なアマガケリへ陥ることなく 逆にむしろ非ヨーロッパ社会の中で――焦って嘆くのではなく―― あせって行動する革命へと 促していった。
けれども だからと言って あせって嘆くほうがよいとは つまり初めの共同主観のあたかも内的な法則性を 学的に価値自由に 停滞したかのごとく 捉えようとするのがよいとはならない。《ただ――つまり〈各自の守護神を見出し かつ それに従って〉―― 〈時代(日ごと)の要求〉に従う》(《職業としての学問》)ことが 真理の要請するところではないのではないか。つまり 各自のデーモンによって日ごとの要求をおこなうことを《方法》とすることは それを 停滞とは断定できないが 現実の停滞に無関心な没価値性の方法になる事が起こる。《きみは馬を水飲み場まで連れていくことはできるが 馬に水を飲ませることはできない》という学問の限界を ここで盾に取ることはむつかしいのではないだろうか。《与ひょうは 何のむくいをも望まずに つうに刺さった矢を抜いてやった》のではないだろうか。
価値自由であることと 価値自由を――デーモンもついていると言ってのように――道徳的な力という名の神とすることとは 別である。価値自由であってよいが 刺さった矢を見ておいて その没価値性が神なのだから何もしないというのは 方法がちがうと思われる。しかも 回りまわっては 結局のところ 神なりデーモンなり道徳的な力なりあるいは精神の徳なりを掲げているからには 実質的にも 自らの価値観を告知しているはずなのである。このとき きわめて 手の込んだかたちの・人びとのためのと称する精神的な蔽いが出来上がっている勘定であり この罠に知らず知らずのうちに陥る人が多いとするならば このかれらの方法は 王者なのである。
たとえば 刺さった矢を見ても むつかしい情況であるなら 何もしないと同時に 虚構の世界では 与ひょうがその実際の行動に出たのだという話を振りまき さらにこれらと同時に その与ひょうは すでに精神の徳によってアマガケリしている《つう》の目から見れば やがて この世のしがらみに染まってしまったという話を付け足しておく。このようにして 何が起きても われわれのアマガケる精神の天なるヴェールを被っていればよいのだよという価値判断を 奨励している。手の込んだマニケイスムだ。アマテラス語弁論術・修辞学は 最高の段階にまで達したかも知れない。
(つづく→2007-01-31 - caguirofie070131)