#52
もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223
Église de l'Annonciation; Nazareth
Jésus passa son enfance à Nazareth avant de commencer son ministère vers l'âge de trente ans. Après avoir changé son lieu de résidence vers Capernaüm, Jésus retourna à deux reprises pour prêcher dans la synagogue de Nazareth, mais fut rejeté chaque fois. Une fois les habitants étaient tellement furieux envers Jésus qu'ils essayèrent de le jeter du haut d'une falaise afin de le tuer.
第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム
第二十九章a くどいようにヤシロロジにおけるインタスサノヲイスムが 出発点である
――なおマニケイスムについて――
内村鑑三を その《不敬事件》の際の振る舞いとその考え方について批判しておきながら 《前史》の概念を持ち出して来て・あるいはかれの弟子である矢内原忠雄におけるその継承を引いて来て 擁護したかに見えたりするが その真意はなにか。
この問いに対して ここでは述べます。
まず繰り返すならば 《人間の良心はあっても キリスト教的良心などない》ということ。良心が別ものではないということ。これを確認します。
そしてただちに細かいところから入りますが 次のようです。
人間の良心は 価値解釈をするわけだけれど 言うところの《キリスト教的良心》は それでは どうなのか。いま 《キリスト教的良心》などないとわたしは判断していると言ったのですが そのように自称している人がいるとする限りでは それとして受け容れなければならないのも 反面の実際です。したがって その前提で今度は 話しをすすめましょう。
《キリスト教的良心》は 価値判断をするのか しないのか。つまりウェーバーの方法の問題でもあります。具体的に――エートスの側面にも絡んで――議論することができるかも知れません。
内村鑑三は 不敬事件で 価値解釈はしただろうが 少なくともあの敬礼という新案を出した教頭との関係ではむしろ この価値判断を しなかった・表明しなかった・猶予した あるいは 頭の中だけでおこなった そうして教頭のエートスに対して無関心をよそおった。そうして この具体的な情況を離れて 頭の中の・敵対すべき《天皇主義的日本主義》に矛盾を見出し 行動をとったと内田芳明が評するのは はじめの井戸端会議のA語理論化 そして時に上塗りだと捉えていたのだった。
良かれ悪しかれ すべてが頭の中にとどまっている。矢内原忠雄は これを指摘するようにして 内村が この頭の中の・共同観念世界でのたとえば然るべき神義論(弁神論)を ともあれ理論づけるために 社会改良の実践ではなく 聖書の研究にしりぞき 共同観念なる前史の終焉への〔精神的な〕実践をえらんだと 位置づけたのであろう。これは 井戸端会議の継承であって うわ塗りではなく 前章の表題のごとく 《ヤシロロジは 具体的な行為としてのインタスサノヲイスムに始まる》をよく物語っている。
このように取りあえず冒頭の疑問に対して それが対象とする中味のことを確認しておきます。わたしたちは さらにこの出発点を論議しておくべきでしょう。
議論をつづけるなら 《良心》は良心という限りで 主観のかたちにおいてたとえば善悪の価値判断をおこなうわけであるが 特には具体的な振る舞いや考え方・つまりは言うところのエートスに たしかに よく現われると思われる。このエートスも――広くとれば《人間類型》と称されているが―― 行動について判断の基準を示すことになれば 人びとのあいだに対立・矛盾が生じる。人間の良心は 互いに別のものが二つも三つもあるとは思われないし 別様に主観の共同性と言いかえることができるしするのだが だとしても 具体的な問題について 意見が分かれる。
つまりは やはりまず確認すべきことは おのおののエートスの間で 矛盾をはらみ衝突を起こしうることは はじめから分かっていることだということ。従って この分かっている矛盾を そのまま衝突として現わすことには たいした意味はない。
内村は教頭からの《挑発》を《受けて立った》というような評価がなされていた。この受けて立つことにさして意味はないと思うのだが 仮りにもしこれをそのような事実として受け容れて話しをすすめるとするなら そのときにも 一個の人間もしくは人間の良心が 受けて立つのであって それは 《キリスト教的良心》がそうするのではない。対等の人間として受け容れるという大前提を共有した上で そのふつうの人間の良心が それぞれ 判断するという結果の出来事である。
けれども これは――いま上で述べたところと矛盾するようであるかも知れないが――ほんとうには エートスとエートスとの対決でもない。もし なんなら わかりやすくするために言うならば 一つに エートスとエートスとの対立は はじめにあったのであり 一つに この矛盾が顕わになるかたちで 人間が他の側の《挑発》を受けて立つというのであれば その対立関係から外に出ずに――あの事件のとき もし教頭にまず申し出ることすら 不可能であったとするなら―― まず教頭の新案を受けて 《敬礼する》ことによって あらたな対立発展が展開されることとなったはずである。それなら 良心と良心との対決となり 実際には 対決であっても しかるべからざる対立でも矛盾でもなくなる。意見の相違という事実だけの問題だ。
《敬礼する》からと言って その人の人格・良心が どうにかなってしまうという問題ではない。つまり 良心と良心との対決という形と段階とを踏んでおけば あとの対立は それこそ偶有性の次元での・かつ以前からの既成事実という必然性のつながりの中での どうでもよい問題(車が右側通行か左側通行かの問題)となる。
いまは 経済的な利害情況からの制約を捨象して言っているのだが 《時代の要求にしたがう》などという・あるいは《聖書之研究に専念することによってこれをおこなう》というキリスト教的なエートスは 他のエートスと衝突することがもし分かっていたのであるのならば 《敬礼しなかった》ことは 事件でもなんでもなかった。なぜなら 分かっていた衝突を ただ 行動に示して 確認させたに過ぎない。エートスに従うことと 方法をつらぬくこととは まったく別のことではないのか。エートスをつらぬく エートスの王国を守ることと 方法に従うこととは 別のことではないのか。
方法はむしろ 自己のおよび他者のそれぞれエートスをも――利害情況に応じてさえ―-用いるのではないのか。だから われわれは 固定的なエートスを持たない。
《パンのみで生きるのではない》と方法することは 《エートスのみで生きるのではない》と方法することと そもそも同じことではないのか――仮りに《エートス》を持ち出すというのであればの話しである。(われわれは 精神を神とすることはないので 《パンのみにて生くるものにあらず》といった聖句を神とすることも むろん ない。)つまり 《エートスの王国》とは そもそも《必然の王国》と じつは なんら違わないのではないだろうか。それなのに そこにおいて わざわざ《キリスト教的良心》があると触れつつ それにのっとって 他の・かれらの言う《世俗的良心(?)》との間に 対立・矛盾・衝突が不可避だとのたまわっている。《つう》である。
(ひとこと ことわっておくならば けれども このウェーバー学派なり《つう》派の人たちは それはそれは 品行方正で立派な生活を送る人びとである。たしかに《地の塩》なり。)
ヴェーバーのばあいには 〔そうした〕経済的利害情況(=パン)が文化諸領域における社会現象(≒エートス)を根底的に制約することは十分に認めるのですが それだけではない。政治 芸術 宗教――宗教という言葉が皆さんの頭にひっかかったら 思想と言いかえてくださってもけっこうですが そういったさまざまな他の文化諸領域における社会現象(エートス)が 経済的に制約されながらも それには還元しきれない それぞれに《固有な法則性 Eigengesetzlichkeit 》にしたがって独自な動きをする。
そればかりでなく そうした他の文化諸領域における独自な動きがまた 経済の動きを逆に根底的に制約する。そうした社会現象における多元的関連を 彼はひじょうに強調するのです。
そして 単に経済現象だけではなくて そういったさまざまな文化諸領域における社会現象のすべてを それぞれの《固有な法則性》においてつかみ得るような そうした社会科学の方法を成立させることを意図しているわけで そういう点で ヴェーバーの《社会科学》の方法が マルクスの方法にはみられない局面を含みうるということ 少なくとも社会科学的研究の射程距離がそのためにいちじるしく拡大されるだろうということは おそらくおおよそのところお判かりいただけるのではないかと思います。
(1・6)
- 作者: 大塚久雄
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はたして 内村の《不敬事件》を 《文化諸領域におけるかれの〔エートスの〕〈固有の法則性〉においてつかむ》ことが 《社会科学の方法》であるだろうか。《教頭》にしても他のまわりの関係者にしても 内村の《固有の法則性》は――井戸端会議のうわさで――すでに十分に知っていたところであったろう。《事件》において 確認されたにすぎない。これを 《学》として 分析・解釈・説明することが どうして〔生活の〕方法であるのか。
しかしこのウェーバーの《方法》が 《マルクスにはみられない局面を含みうる》のであろうか。マルクスだろうと誰であろうと もしそのような局面を言っていないとするなら――持っていないのではなく 言っていないとするなら―― それは わかりきったことだからではないか。《社会科学的研究の〈射程距離〉が拡大される》のではなく ただ人びとを 愚かにさせ・つまり愚か者扱いし わざわざ《学問》によって説明されなければ分からないというように かれらが勝手にそのように間延びさせるのではないか。(あたかも エートスを 経済的利害情況と対立させて ふたつを二元論にとらえるのならという場合の問題)。
むろん実情は かれらがそのように知者であると称しつつ かれら自身がおろかにされるということであろう。けれども 人びとの十分に動態的な生きたうわさ(うたがい=歌交い)が つまらない・しかし上品な上塗りによって その領域の幅がひろがることではあろう。もちろん まだるっこしいのは そのためだ。
《他の文化諸領域における独自な動き――キリスト教的良心などという独自な動き――がまた 経済の動きを逆に根底的に制約する》というのは その精神主義的な《エートスの王国》の建設もしくは《合法的な強制》のことにしかならないと思われるが――光りの天使に変身すれば 誘惑と告訴と責苦によって 必然の王国の中では これを時におこなうことができる―― それは おそらく《まだるっこしさ》が 常識(観念的な共同主観)となることを意味するであろう。だから 《制約》要因になるかも知れないが それは まぎれもなく 必然の王国の中での昼としてのエートスの王国の 二元論的な分立であり(日本におけるブッディスムも コンフュシアニスムも 合理的・倫理的にこのともあれ二元論的な神義論を持っていた だからこのあらたな《キリスト教的エートスの王国》は それら前史的なスサノヲイスム神義論の上塗りとしてのスーパースサノヲイスムである) 実情は 必然の王国たる前史の 後史への移行が――この移行を時に先取りしつつ暗示して説きつつも―― それだけ猶予される・またもっと言うならば そのぶん かれらはこの移行を阻止しているのだ。
キリスト教的良心などないということ。また 言われている《モラトリアム(アマアガリ猶予)人間》なるエートスとは このことであるに違いない。《わたし》が 身体の運動(落涙し神を予感する回心)において アマアガリする=後史へ移行する主観共同化を かれらは 観念的に先取りしてしまったのだ。(そう思い込んだという意味である)。この観念的なとりもちは 意外に甘美でしつこく しかも悪である。
けれども いまでは 《不敬》事件はなく 《キリスト教〔的良心の王国の鎖国的な分立への〕攻撃の広く根強い与論形成へと発展》することは ない。内村が いいかえると ウェーバーが その意味で 勝利したのである。妙に間延びした現代の時間は――校内暴力・家庭内暴力・登校拒否・シゾイド人間などなど(小此木啓吾)は―― このせいである。もし勝利すべきであったとしても その勝利の仕方が あるいは内村らの戦い方が その勝利に値するものだったかが問われるという意味で そのせいである。
大塚 ですから私はね そういうふうに日本人の眼で見るとか日本人として発想するということを言いながら 他方では日本の現状をどうしてもジャスティファイすることができなかった。・・・
つまり 日本人の眼で見 日本人の立ち場から発想するということは 日本のすべてをいつもジャスティファイすることだ というふうな考え方が 保守 進歩どっちの側にもあったんです。〔・・・〕
〔・・・〕
内田義彦しかし 日本を愛する日本人であるが故に日本の現状をジャスティファイしない むしろ孤立や迫害を恐れず一途に批判の矢をあびせる それがもともと二つのJ( Jesus と Japan )の意味だったわけですね 内村〔鑑三〕の場合。その内村の意味における二つのJの一つである日本人という意識が 先生の場合には自前の さらには独自の概念装置(《固有な法則性》と言いかえても大きくは変わりないであろう――引用者)の創出という――これは内村にない――形になった と思うんです。
大塚 そうでしょうね。〔・・・〕***
内田義彦 日本社会の推移に関してですけれども 一物一価が近代の現象とすれば 日本のほうが一物一価になっているじゃないかという批判をしている人びとがある というようなことを伺いましたが・・・。
大塚 そうそう〔・・・。〕あれなんかも人間類型に関係のある問題の一つですね。
古い村落共同体間の 私のいう そうした社会的真空地帯では つねに値切りと掛け値で 一回一回の取引ごとに価格形成過程のすべてがはじめから終わりまで行なわれる。これに対して 近代の合理的な市場経済の場合には まず取引所とか中央市場とかを頂点にして 多数の売り手と買い手が自由に売買するなかで ある商品について一つの価格水準が決まってくる。均衡価格とか正常価格とか あるいはマルクス経済学だったら市場価値とか生産価格とかいわれるものですね。そして次に こんどは個々の商品の現実の価格がその周辺を変動する。一物一価というのは そういう均衡価格が存在するということですね。現実の小売価格を中心点として変動しながら決まっていくのですから 当然に個々の商品の現実の価格にバラツキが出てくることになるわけでしょう。
ところが 日本の場合は今でもそうではなくて右へならえしてバラツキのまったくない超一物一価(無差別・無関心――引用者)でしょう。どうしてそうなのか ということなんですがね。
〔・・・〕
大塚 日本で指定価格制がきわめて成立しやすいのも そういう いまだに残存している談合社会的行為様式の現われじゃないでしょうかね。私は これではやっぱり十全な意味で近代の合理的市場経済とはいえないような気がするんですけど どうですか?
内田義彦 その通りだと思います。〔・・・〕
(大塚久雄・内田義彦 対談:社会科学の創造――《歴史と社会》第1号 1982)
これに対する若干の批判。――
(つづく→2007-02-14 - caguirofie070214)