caguirofie

哲学いろいろ

#6

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Il fut alors attiré par le manichéisme et y adhéra de 372 à 382. Cette doctrine reposant sur le conflit entre le bien et le mal lui paraissait correspondre à son expérience intérieure de lutte entre le désir du bien et les pulsions mauvaises. Mais il fut déçu, en particulier par sa rencontre avec Faustus. En 386, après un passage à Rome, il arriva à Milan, où il avait obtenu une chaire de rhétorique. Là, il découvrit le néoplatonisme et lut les Ennéades de Plotin. Cette découverte le prépara à la conversion,

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第四章a 実際の主観共同化としての 生きた自由の王国

――アウグスティヌス 友アリピウスと回心を共同主観する――

神よ――とアウグスティヌスは いわゆる宗教となりえない言葉で語っている―― 思案するばあい 二つの意志がみとめられるということを理由にして 本性を異にする二つの精神があり 一方は善く他方は悪いと主張する人びとがありますが・・・。
・・・かれらは 魂の本性は神そのものであると思い 主において光であることを望まず 自分自身において光であろうとしているうちに ますます深い闇になってしまいました。・・・
(告白8・10・22 世界の名著 14 アウグスティヌス

この認識の過程 内なるアマアガリをこれまで見てきたことになります。わたしたちは すでに《告白》を通過した者として 言いかえると たとえばアウグスティヌスのこの告白が わたしたちの内に復活してのように また そのつどなお過程してのように ただ 実際の共同主観の行為=日常生活においては 神なる言葉を必ずしも用いないということを基本としたのでした。
ただ けれども アウグスティヌスが次のように内的な言葉で語るとき その告白は 実際の主観共同化の動態的な一過程を語っている。
上の引用文と同じ箇所につづいて

きみたちは 何をいっているのか ひとつ考えてみるがよい。顔をあからめるがよい。そしてあの方のもとに近づいて光をうけよ。そうすればきみたちの顔は あからむことがなくなるであろう。
(告白8・10・22)

ここでは 誰も 命令などしていない。信仰を押し付けようなどというのではない。また そんなこと出来っこないし するつもりもない。しかし 人間存在 esse が 本質 essentia 的に それぞれ同じ《S者性‐A者性》連関構造から成っているとするなら――これが 類としての人間であると言おうとしているのであるが だから 類としての人間 Gattungswesen は 人間そのものではなく その一認識の像であるのだが―― 互いの関係において つまり主観共同化の過程において(それは 《資本=愛》の関係においてと言っても同じである) 《回心》は内的であるゆえ または 内的であると同時に 可感的=身体S者性的でもあるということを 語っている。涙を流すこともあれば 顔をあからめることもある。落涙・赤面は 可感的な身体の運動である。これが 資本という愛の関係の過程なのである。また 資本家(愛の行為主体)と言われるとき そのように・つまり なみだを流したり顔を赤らめたりするなら その愛(自己)が試されるというものである。
もちろん これによって 特別 大勢に影響はないのだが しかし 独占資本といわれるとき この愛が――あの《回心》に触れてのように―― 糾弾されるのである。それだけのことだが それだけのことではある。この小さなことが――なぜなら それは 意志(愛)の発動だから―― ヤシロの資本連関としての主観共同化過程を進めていく。
このミクロ的な経済学は 重要である。この愛は なぜなら マクロ的なヤシロ資本システムが 全体として変換されて初めて生起するものなのではなく すでに 類としての人間に 生起していると考えられ いまただちに実現しているのだと言おうとするのではなく いまここでそれは 滞留していると考えるゆえだ。これは 停滞とは違うと思われた。
停滞とは――共同主観コミュニスムの停滞とは―― 《独占資本――資本とは愛のことである――》をそれとして決めてかかることだとも考えられ この観点ですべてを裁断してしまっていることであり またその欠陥をすべて取り除いてしまったという未来社会を――つまり時間の未所有を視像として描き――思惟し信じ込み これをも人に説こうとすることである。なぜなら これらの史観に対して 《愛》は いわゆる神であり そのようなアマテラス語概念としての神を 信じよ と説くもう一方の時間の停滞があるから これらの史観が 対抗的に説かれてくるわけだが 宗教的停滞に渡されてはならないと同時に その対抗的停滞に走って行ってしまうこともならないと ミクロ的な経済学はおしえているからである。
いま言えることは マニケイスム=アマテラス予備軍の愛は――その光の天使性・ただ客観抽象信実としての《自由の王国》説は―― 公的につまりアマテラス語で 認識され糾弾されるかどうかを別として スサノヲ語において・つまり主観においては そのままただちに 試され 資本関係が その限りで 動くというものだと思われる。少なくとも《顔を赤らめる》というように 《やしろのふところ》が その具体的な共同の主観関係において 明かされることになる。
これは 真実であると知らなければならない。それ以上のことは――つまり 鉄面皮によって厚かましくなっている人がいるかどうかなどは―― 各自の主観の自由にまかされ また 時に 公的な共同主観において 経済社会的な制度が変革されてゆくことになる。
ここで問題は おそらくこの《顔を赤らめる》あるいは《なみだを流す》または《思いやりの言葉をかけてやる》等々のことが そのような取りあえずミクロ的な主観共同化の過程が 日本では 一般に 主体どうしの関係として逆のかたちで現われると思われることである。顔を赤らめるべき人がではなく その人にいま相い対して共同主観関係にあろうとする人のほうが 顔を赤らめたり何やかやの愛の動態的な表情と振る舞いを示したりするばあいが しばしば しかもその意味で基本的に あるということだ。
また このことが ささやかな《思いやり》の表現でもあるのだが これに対して しかし いいよ いいよ 大丈夫だよと言って 察し合いの言葉をかけるのは 実は 逆に このはじめに《思いやられた》鉄面皮の人のほうであるというのが 一般のケースであるということだ。このことは 小さなことでありつつ まず 知っていなければならない。あるいは すでにこんなことは じょうしきだとして知っている人は 鉄面皮の人に成り代わって 顔を赤らめたりした人のほうを向いて さらになお 思いやりと称する《暖かい》言葉をかけるというのが 現実のヤシロ資本連関なのである。つまり 事態をほんとうに知っているとは思われない。これを明らかにしておかなければ その制度も変わらないと まず わたしたちには考えられた。
あちら(西欧米)では 思惟・観念・意識と 存在・生活・経済行為とが 転倒していたが こちらでは 必ずしもこのような転倒は見られず または一般的ではなく この観念(A者性)と生活(S者性)との転倒を 基本的には止揚しており しかも やはりA者性とS者性との転倒・逆立が見られるのである。或る種の仕方で こちらでは――つまり一般にアジア的なヤシロ生活ではという意味だが―― S者性が存在の基体であるということは 常識(共同主観)である。しかるに この或る意味で常識であるインタスサノヲイスムが なお市民S者的に捉えられ自然に表現されるか それともこれをアマテラス語において 前者を《暖かく》包むかのように――ということは 暖かく思いやって包むのだと思い込みつつ 実際には 前者の生きたインタスサノヲイスム共同主観を うらやんで(裏病んで)―― そうして そらぞらしい《抽象的にして人間的な》言葉を発するか という点で S‐A連関の倒錯が しばしば行なわれる。これが 《賢い大人》または《和》と称される。
この《和》が A‐S連関体制つまり国家なるヤシロの全体に及ぼされるとき この国は《やまと(大和)》と称された。奈良県の一地方であるやまとは S者共同体の現実である。しかし A‐S連関体制としてのやまとは どこにもない現実である。いや A圏とS圏との連関形態なる日本は 一つの歴史事実である。しかしこれを 大和なる国家として あたかも元のやまとが変身したかのように説くことは アマテラス予備軍の仕事である。もともと S圏ヤシロのために国家が出来上がったのである。
滅私奉公 あるいは 滅公奉私といってのように 私と公との《二つの意志(意志が 愛・資本である)がみとめられるということを理由にして 一方は善く他方は悪いと主張する人びとの仕事であり あの回心=アマアガリを阻むその罠なのである》。
あちらでは キリスト史観の主観共同化(S者のA者化)か キリスト宗教の観念共同化(もっぱらのA者化)かということが 争点となった。こちらでは 素朴なインタスサノヲイスムの共同主観(S者の中のA者性の顕現)を大前提として 大前提としながらも このこと自体が 観念共同(おおきなムライスムすなわちナシオナリスム)のもとにのみ しかしながら実現され 人びとは自由となるのだと また これによってのみ《結合した個人たち 時にその革命的な(何らかの改新・維新・改革への)連帯》となるのだよとあらそわれた。
なぜなら このキリスト史観を宿しているとも見られるアジア的な市民のインタスサノヲイスムは つまり それのナシオナリスム化としてのような土壌は いわゆる《無宗教無為自然のタオイスム(道教)あるいは多神教のヒンドゥイスムを含めている)》をもって任じ 一般に回心に際して・あるいは回心のあとも 《告白》になじまないからである。
すでに外形的には おおきく言って類似するものとして あのマルクスの《質料(S者)主義 matérialisme 》のやり方を つちかっていた。あとは 政策的に何が実用的であり またそれらの主張にかんしてどの勢力が優勢であるかが インタスサノヲイスム(常識)を決定するというようなやり方で。
このとき 主張を交わすばあい 或る種 実際に勢力を拡張して主観共同化を行なおうとするばあい しかしながら 《やしろのふところ=インタスサノヲイスムの現実》が 各自の主観において明らかになってゆく過程で 顔を赤らめるのは インタスサノヲイストとしての内なるヤシロのふところが侵略された側のほうである。大和なる共同観念(A語客観抽象共同)・だからその幻想性・蜃気楼性を知ってそのアマテラス語客観 の反面にある虚偽(ナシオナリスムの限界)にほんとうは顔を赤らめなければならない側は いともたやすく このヤシロのふところ(それは 外国のでもある)に進出するのである。真実のインタスサノヲイストたちは これによって 死なしめられている。この死を 引き受けた。
先の大戦で だれもが主戦論であったとするのは 間違いである)。市民の祖国は この死を拒み ただちにアマアガリゆくことによって 見出されるのではなく 死を引き受けてさえも この地にまず寄留し滞留することを経て 到達できるものであることを 正当にも インタスサノヲイストの信条としているからである。あるいはまた もはや 明らめている。あきらめは 美徳であると言ってのように。(つまり弱かったということであろう)。
両世界大戦までは つまりそのような《国家》関係が――侵略を許容するところのそれが―― 或る種の現実であった時代までは このあきらめが 必要であった。どこか一国だけで A‐S連関体制の倒錯を変革できるとは 思い難かった。転倒を正すと言って 新しいソシアリスム(一種のヤシロイスムだが)を掲げた新しいヤシロ形態においても 《律法を正す別種の律法主義》としてのA‐S連関形態すなわち国家体制(つまりそれぞれの《大和》体制)を採らなければならなかった。
現代においてはどうかということが この《アマテラス予備軍のヤシロからの解放》の課題の一つの大きな焦点となっている。ここでは 方法論にしぼって議論をつづけます。
(つづく→2006-12-30 - caguirofie061230)